第94話 わたしのレンドル 2
ジュカたちと別れたあと、レンドルは副官の部屋へと案内された。
少し待つように言われ、木製の扉の前で待っている。やがて、静かに扉が開いた。
「サナロアには、個室が割り当てられていたのか」
休憩所の兵からは、隊長クラスでも雑魚寝だと聞いていた。
「私には書類仕事もあるからな。報告書をレンドルが作ってくれるというなら、代わってもいいぞ?」
サナロアはそう言って、悪戯っぽく笑った。
彼女に案内されて部屋へ足を踏み入れた瞬間、ほんのりと甘い匂いが香った気がした。気のせいだろうか。
部屋には小さいが机があり、粗末ながらもベッドまで備え付けられている。
小窓からは青き月の光が差し込んでいる。机上の書類の束が几帳面に揃えられていた。
サナロアが扉を閉めると、レンドルの背後の灯りが、ふっと消えた。振り返ると壁に掛かっていたランプの火を彼女が消したようだった。
あまり質の良いランプではないのか、火の消えた後の焦げた匂いが少し鼻をつく。
部屋が薄暗くなり、灯りは机の上の燭台一つだけになった。
サナロアがランドルの横を通ると、先ほどの甘い香りが鼻を刺激する。何の香りすぐに分からなかったが、妹が生まれる前に、ふざけて抱きついた母の首元から嗅いだものだと思い出した。
サナロアが揃えてあった書類を傍らの小さな棚へと移した。万が一、倒れて火が移ったら大ごとになる。そんな気遣いからも、彼女が領地の政務を難なくこなしていることが窺える。
ランプは書類仕事をするわけではないから消したのだろうか。机の明かりだけでは、とてもできそうにない。まるで、これから眠りにつくような、ぼんやりとした明かりだった。
窓からの風で揺れる灯りを見つめながら、その明かりさながらに、ぼんやりと考えていた。
そういえば、彼女の領地から騎士や兵隊が同行している様子はなかった。従者もいない。
「サナロアの領地からは、兵を連れてきていないのか?」
「領地といっても小さいしな。守りのために残してきたんだ。エーダー家は、母親が散財したせいで騎士も兵もほとんどいない。だから今回の遠征にも連れてくる余裕はなかった。従者すら同行させられないほど、我が家は酷いあり様だよ」
領地には、そこで暮らす民も兵もいる。彼女は騎士院に身を置きながら、そのすべてを一人で背負っていたのか。あの頃の彼女は、今の俺と同じくらいの年齢だったはずだ。
「……姉が男爵を殺した件だが」
不意に、サナロアの空気が変わった。
「詳細を書き連ねた報告書は、すでにノックス大隊長に渡してある。騎士団長も知っていることだ」
黙っていては後で言い訳がきかなくなる。だから先手を打ったのだろう。
「レンドルが意識を失っていた時、救護所に騎士団長たちが来たんだ。その時に報告書を渡し、この戦に限り、姉の拘束には目をつむるという約束を取り付けた」
「男爵を殺した者を、拘束しないなんてことがあるのか……?」
即時拘束されてもおかしくない大罪だ。それをせず、傭兵団の一員として活動させているということは、それだけ傭兵団の力を必要としている証拠だった。
「もちろん、皇国に戻れば正式な調査が行われる。私も部隊を離れることになるだろうし、ことがことだけにイステアは拘束される。団長も『事情が複雑なだけに、どうなるかはわからん』と言っていた」
やはり、イステアの件は無視できるものではなかった。男爵家の当主を殺害したとなれば、相応の処分が下されるのは当然だ。
だが、彼女たちは父親に襲われ、母親に売られようとしていた被害者でもある。おまけに男爵とは血すら繋がっていない。それでも、当主殺しの事実に変わりはなかった。
「最悪、姉は死罪を免れないかもしれない。……なのにイステアは、『それでも構わない』と笑っていた。本当におかしな姉だ」
サナロアの瞳が、微かに揺れていた。
「だから私は、傭兵団を皇国で雇ってほしいと頼み込んだんだ。イステアから、傭兵団には斬られた腕すら瞬時に繋ぐ治癒魔法の使い手、ジュカがいると聞いていたからな。最初は信じていなかった上層部も、死にかけの兵士が治癒されるのを見て、雇用を決断した」
イステアを拘束すれば、規格外の治癒魔法使いであるジュカの協力は得られない。皇国軍の疲弊を計算し、サナロアはそれを利用したのだ。
結果として、巨人族や黄金騎士との戦いで満身創痍だった皇国軍は、ジュカの魔法によって何人もの命を救われることになった。
「イステアから真実を聞いた時、私はもう、家を潰す覚悟を決めていた。だが、姉をみすみす死罪にさせるわけにはいかない。男爵の血を引いていない私たちだが、正式な娘として認められていることは紋章官にも確認済みだ。だから――領地の半分を皇国に返上する。そうすれば、姉の減刑を嘆願できるかもしれない」
そこまで一気に語ると、サナロアは真っ直ぐに俺の目を見た。
「もし、レンドルが来てくれるなら……残りの領地を、一緒に守っていきたいと思っていた」
静かな沈黙が降りた。
レンドルは最初、その言葉の意味を理解できず、ただ瞬きを繰り返した。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。それはつまり――」
サナロアはレンドルから目を逸らさず、小さく、だがはっきりと頷いた。
レンドルはここでようやく、自分が『結婚してほしい』と言われていることに気がついた。




