第9話 婚約の影
婚約者の名前を初めて聞いたのは、前世では十歳の秋だった。
今回は、七歳の夏が終わる前に告げられた。
「第一王子ジークフリート殿下との婚姻内約が成立した。来月、王都の離宮で顔合わせがある」
朝食の席で、父はスプーンを置くことすらせず、そう言った。自分の食器を見つめたまま、こちらに視線を向ける気配もない。交渉が成立した、という報告。情の入る余地がどこにもない声だった。
「はい、お父様」
私も同じ温度で返した。
口の中のパンが、砂を噛んでいるように感じた。
ジークフリート。
前世の私を婚約し、利用し、最後は処刑台の下で歯を見せて笑った男。あの顔が記憶のどこかで蠢いて、食道を遡ってくるような不快感がある。
だが、今のジークフリートは九歳の少年だ。処刑台に立つ私を嗤った男と、同じ人間であるかどうかすら分からない。子供の頃の性格と、権力を持った後の性格が一致するとは限らない。
それでも——あの笑顔だけは、忘れようがなかった。
顔合わせは、王都郊外のクレスティア離宮で行われた。
公爵家の紋章が入った馬車に揺られること丸一日。父は同行せず、クラウスが護衛として付いた。「旦那様は公務がおありです」とクラウスは言ったが、公務の正体など想像がつく。父にとって、王家との婚約は外交手段であり、顔合わせは使用人に任せればよい程度の行事にすぎない。
離宮の門は白い大理石でできていた。門柱に彫られた王家の百合の紋章が、午後の陽に眩しく光っている。
馬車を降りると、靴底に細かい砂利の感触が伝わった。門から本館までの道が長い。両脇に植えられた糸杉が、緑の壁のように行儀よく並んでいる。
離宮の大広間に通された。
高い天井。磨き抜かれた大理石の床。壁面にはタペストリーが掛かり、織り込まれた金糸が窓からの光を拾って点々と煌めいていた。この部屋だけで、ヴァレンシア公爵家の東館がまるごと収まりそうだった。
窓際に、二人の人影があった。
一人は初老の侍従。背筋が棒のように真っ直ぐで、白い手袋をした両手を腹の前で組んでいる。もう一人は——少年だった。
金色の髪。碧い瞳。白い肌。九歳とは思えないほど整った顔立ちで、仕立てのよい紺色の上着がよく似合っている。立ち姿からして教育が行き届いている。足の開き方、肩の角度、顎の引き方。どれも王族としての所作が完成しかけていた。
ジークフリート・アルシェーヌ。
第一王子。
前世の婚約者。
私を殺した男の、子供時代。
胃の底が、きゅっと縮んだ。
「ヴァレンシア公爵家嫡女、リゼットでございます」
膝を折り、挨拶をした。声は震えなかった。七歳の少女が初めて王族に謁見する緊張として、ちょうど程よい硬さだったはずだ。
「ジークフリートだ」
少年が口を開いた。声変わり前の高い声。だが、話し方には幼さがない。言葉を選んでいるのではなく、最初から無駄な言葉を持っていない、という印象だった。
「立っていいよ。かしこまらなくて構わない」
許可を得て、顔を上げた。
碧い瞳と目が合った。
一瞬、処刑台が見えた。
あの日の空。灰色の雲。風に揺れる金の髪。歯を見せた笑顔。群衆の歓声の中で、あの碧い目だけが静かに私を見下ろしていた——
「——どうした? 気分が悪いのか」
ジークフリートが、わずかに眉を寄せた。
「いいえ。少し、馬車酔いが残っておりまして」
嘘をついた。声が平静だったことに、自分で驚いた。
ジークフリートは一瞬だけ私を観察するような目をして、それから小さく頷いた。
「それは災難だった。クレスティアまでの道は石畳が荒れていると聞く。侍従長、お茶を」
初老の侍従が一礼して退出する。ジークフリートは窓際の長椅子に腰を下ろし、自然な仕草で向かいの席を示した。
「座って。堅苦しいのは好まない」
好まない、と言いながら、座ってからの背筋は一分の隙もなかった。王族の「くだけた態度」は、それ自体がひとつの演技だ。前世の私はそのことに気づくまでに何年もかかった。今は、一目で分かる。
腰を下ろした。長椅子の座面は柔らかく、私の足は床に届かなかった。
「ヴァレンシア公爵の娘か。父上からは聞いている」
「何をお聞きになりましたか」
「聡明な子だと」
嘘だろう、と思った。国王が公爵の娘について語ることがあるとすれば、政略的な価値のことだけだ。ヴァレンシア家は王国屈指の旧家で、軍事力も経済力もある。その嫡女との婚約は、王家にとっても無視できない外交カードになる。
「恐れ入ります」
「公爵は今日は来ていないのだな」
「父は公務があると申しておりました」
「公務か」
ジークフリートの口元が、ほんのわずかに歪んだ。嘲りとも苦笑ともつかない微細な表情の変化で、九歳の少年が浮かべるには不釣り合いなものだった。
「大人たちはいつも公務だ。会いたくない相手に会わなくていい、便利な言葉だな」
その言い方に、棘はなかった。むしろ、自分もその空気の中にいることを、淡々と受け入れているような響きがあった。
茶が運ばれてきた。白磁のカップに、薄い琥珀色の液体。湯気が繊細に立ち上り、レモンバームの香りが鼻先を掠めた。
「飲めるか? 嫌いなものがあれば替える」
「いただきます。ありがとうございます」
カップを持ち上げた。温かい。カップの縁に口をつける前に、無意識に匂いを嗅いでいた。
癖だ。父の教育が身体に染み込んでいる。飲食物を口にする前に、まず匂いで毒の有無を確認する。七年間の条件反射が、王子の茶にまで発動している。
ジークフリートが、その動作を見ていた。
「……匂いを嗅ぐのか?」
「あ——いいえ。香りがとても良かったので」
取り繕った。だが、ジークフリートの碧い瞳には、微かな観察の色が残っていた。この少年は、見ている。九歳にしては鋭すぎるほど、人の動作を見ている。
前世のジークフリートは、もっと鷹揚に見えた。社交的で、笑顔が多く、宮廷の人々から慕われていた。少なくとも表面上は。裏の顔を知ったのは、婚約から五年も経ってからだった。
目の前の九歳の少年には、あの社交的な仮面がまだ育ちきっていない。地金が見えている。
その地金が何でできているか——まだ分からなかった。
「リゼット」
名前を呼ばれて、胸が詰まった。この声で、この名前を呼ばれることの重さを、九歳のジークフリートは知らない。
「何でございましょう」
「公爵家での暮らしはどうだ」
「不自由なく過ごしております」
「そうか。結構だ」
会話が止まった。ジークフリートは窓の外に視線を向け、庭園の植え込みを眺めているように見えた。だが、その横顔には退屈ではなく、何かを値踏みしている気配があった。
「僕の母上は、病を得ている」
突然、そう言った。
「王妃殿下がですか」
「もう二年になる。宮廷の医師団がいくら処方を変えても、良くならない。父上は苛立っている。母上は日に日に寝台にいる時間が長くなっている」
なぜ、そんな話を初対面の七歳の少女にするのか。
ジークフリートの横顔を見つめた。碧い瞳が窓の向こうを見ている。庭園の緑が、瞳の中に映り込んで、宝石のような色合いを作っていた。
「お困りなのですか?」
私が聞き返すと、ジークフリートは少し驚いたように振り向いた。
「困る、か。——そうかもしれない」
「医師団で治せないなら、別の手を探す必要がありますわね」
言ってから、口をつぐんだ。七歳の令嬢が助言するような場面ではない。
だが、ジークフリートは不快そうな顔をしなかった。むしろ、少しだけ口元を緩めた。
「面白い子だ」
「——恐れ入ります」
「公爵が聡明だと言ったのは、嘘ではなさそうだ」
感情の読みにくい表情だった。好意なのか、興味なのか、警戒なのか。ひとつに決められない。前世のジークフリートも同じだった。彼の好意に見えたものが、すべて計算だったと知ったのは、手遅れになってからだ。
茶会は一時間ほどで終わった。
離宮の玄関で、ジークフリートは形式通りの挨拶をした。
「次は秋の園遊会で会うことになるだろう。それまで息災で」
「殿下もご健勝で」
膝を折り、深々と頭を下げた。顔を伏せたまま、数秒だけ目を閉じた。
処刑台の光景がまた浮かんだ。刃が落ちる直前の、あの碧い目。
振り払った。今は七歳だ。あの日はまだ来ていない。
帰りの馬車の中で、クラウスが口を開いた。
「殿下のご印象は、いかがでしたか」
窓の外を見ていた。街道沿いの麦畑が、夕陽に染まって赤く光っている。
「——賢い方だと思いました」
それ以上は答えなかった。
クラウスもそれ以上は聞かなかった。
馬車の揺れに身を任せながら、考えていた。
前世のジークフリートは、婚約の期間中、私に優しかった。少なくとも、そう振る舞った。贈り物を欠かさず、舞踏会では必ず最初の一曲を誘い、宮廷の貴族たちの前では「私の大切な婚約者」と紹介した。
そのすべてが、ヴァレンシア家の毒殺ネットワークを自分の手駒にするための布石だった。
公爵家の暗部を熟知している娘を傍に置くことで、宮廷内の暗殺を自在に操れる。邪魔な貴族を消したいときは、リゼットを通じて父に依頼すればいい。王家の手を汚さずに、公爵家に罪を被せることもできる。
そして、王妃が死んだとき、すべての罪がリゼットに集約された。
あの仕組みを、ジークフリートがいつから設計していたのか。婚約の初日からか。それとも——もっと前からか。
九歳のあの少年が、母親の病について語った言葉が、頭の中で反響していた。
「困っているのか」と聞いたとき、少しだけ驚いた顔をした。あの表情は、演技だったのか。それとも、九歳の子供に残された、本物の感情だったのか。
分からない。
分からないまま、警戒だけは続ける。
馬車が公爵家の門を潜った。
屋敷の灯りが窓越しに見える。東館の二階——ユーリの部屋にも、薄い光が灯っていた。
クラウスに促されて馬車を降り、玄関の階段を上った。
東館に戻ると、廊下の角でカミラが待っていた。両手を前で揃え、背筋を伸ばして立っている。私の姿を認めると、ぱっと顔が明るくなった。
「お帰りなさいませ、お嬢様。お疲れではありませんか?」
「少しだけ」
「お湯をお持ちしますか?」
「うん。お願い」
カミラが小走りに去っていく背中を見送りながら、息をついた。
ここには、嘘がない。カミラの笑顔にもユーリの寝息にも、裏側がない。王都の離宮で過ごした数時間が、嘘の地層を何枚も重ねた場所だったのだと、帰ってきて初めて実感した。
自分の部屋に入り、ドレスから部屋着に着替えた。鏡台の前に座る。鏡の中の七歳の少女は、疲れた顔をしていた。
引き出しから紙片を取り出し、今日の記録を書いた。
——第一王子ジークフリート。九歳。表情の読みにくさは前世と変わらない。
——母・王妃の病について自ら言及。意図不明。情報提供か、反応を見る試験か。
——観察力が高い。茶の匂いを嗅ぐ動作を見逃さなかった。
——婚約は前世より三年早い。父の計略がそれだけ前倒しになっている。
紙片を鏡台の裏に挟んだ。ユーリの治療記録と同じ隙間に。
今日から、守るべきものが一つ増えたわけではない。
今日から、警戒すべきものが一つ増えた。
窓の外は暗くなっていた。
星が出ている。離宮の庭園で見た空と、同じ空のはずなのに、ここから見ると距離が違う。
枕元の薬草包みに手を伸ばし、明日のユーリの分の準備を確認した。牛乳薊はあと三日分。活性炭はカミラと分けて五日分。足りない分は、明後日の午後に庭で補充する。
やるべきことは、変わらない。
王子が何を考えていようと、父が何を企んでいようと。
私の手で守れるものを、守り続ける。
それだけだ。




