第8話 鏡の中の処方箋
ユーリの治療を始めて、一週間が経った。
毎朝、父が書斎に入るのを確認してから、隣室を訪れる。クラウスが置いていった「栄養食」の杯を回収し、ミントの煎じ液で作った代替品とすり替える。色味は近い。量も同じにしてある。クラウスが杯を下げるのは昼前だから、それまでに入れ替えれば間に合う。
回収した毒入りの液体は、夜のうちに庭の隅で土に染み込ませる。証拠を残さないために。土壌に吸収された重金属は分解されないが、誰もあの荒れた区画の土壌分析をすることはないだろう。
ユーリの顔色は、日を追うごとに変化していた。
蝋のような白さが、わずかに血色を取り戻している。唇の紫がかった色味が薄れ、咳の頻度も減った。五日目の朝には、寝台の上で起き上がることができた。七日目の今日は、部屋の中を歩き回れるようになっている。
効いている。
重金属の新規投与を止め、排泄を促す薬草を飲ませたことで、体内の蓄積濃度が下がり始めている。完全な排出には数ヶ月かかるだろうが、悪化のベクトルは確実に反転した。
「おねえちゃん」
ユーリが私の袖を引いた。
「きょう、おにわ、いける?」
窓の外は晴れていた。春の陽射しが、引かれたカーテンの隙間から筋になって床に落ちている。
「うん。行こう」
ユーリの手を引いて、東館の裏口から庭に出た。使用人の巡回が少ない午後三時。石塀の裏まで連れて行くのは危険だが、東庭の薔薇園の端なら人目につきにくい。
外に出た瞬間、ユーリが足を止めた。
小さな顔が、空を仰いだ。目を細めて、太陽の光を浴びている。風が栗色の髪を揺らした。
「……あかるい」
それだけ呟いて、ユーリは笑った。
五歳の子供の笑顔。
部屋の中では一度も見なかった表情が、陽の下で初めて現れた。頬に血色が差し、灰色の瞳に光が入る。この子は父に似ているが、笑うと印象がまるで違う。冷たさが消えて、年相応の柔らかさが出る。
「お花だ。おねえちゃん、あれ、なに?」
「あれは薔薇よ」
「ばら」
「うん。あっちの白いのも、こっちの赤いのも、全部薔薇」
ユーリは薔薇園の縁を歩き回って、花弁を指で触り、匂いを嗅ぎ、蝶が飛ぶのを目で追った。一つひとつの動作が、生まれて初めて世界に触れる生き物のそれだった。
見ていて、胸が詰まった。
この子は五年間、あの暗い部屋の中だけで生きてきた。窓の外の景色も知らず、花の名前も知らず、太陽の温度も知らない。父がそう決めたから。実験対象に余計な刺激を与えると、データが汚れるから。
「おねえちゃん」
ユーリが駆け寄ってきた。小さな手に、地面に落ちた薔薇の花弁を握っている。白い花弁。端が少し茶色く変色している。
「これ、あげる」
「……ありがとう」
受け取った花弁を、ポケットにしまった。
薔薇園のベンチに二人で座って、しばらく風に当たった。ユーリの呼吸は安定している。屋外の空気を吸うこと自体が、この子にとっては治療になっている。閉鎖された部屋の淀んだ空気よりも、新鮮な酸素が入ることで代謝が上がる。
「ねえ、おねえちゃん」
「なに?」
「おかあさんって、どんなひと?」
不意打ちだった。
「ユーリのお母さん?」
「うん。くらうすに聞いたら、おしえてくれなかった」
ユーリの母親。使用人の一人だったと聞いている。ユーリを産んだ後、屋敷から去った——あるいは、去らされたのだろう。前世でも詳細は知らない。
「ごめんね。お姉ちゃんも、知らないの」
「そっか」
ユーリは残念そうな顔をしたが、すぐに花弁を拾いに走っていった。
五歳の切り替えの早さが、少しだけ救いだった。
だが、私自身の母のことが、頭に浮かんだ。
父が食事の席で、一度だけ言った。「母がいれば喜んだだろうな」と。あの言葉の意味が、まだ分からない。母は病で亡くなったと聞かされていたが、この家で「病死」が額面通りの意味であるはずがない。
考えるのは、後にしよう。今はユーリのことだ。
部屋に戻る前に、ユーリを薬草園に少しだけ寄り道させた。石塀の裏、泥だらけの区画。ユーリは目を丸くした。
「ここもおにわ?」
「うん。お姉ちゃんの秘密のお庭」
「ひみつ」
ユーリの目が輝いた。子供にとって「秘密」という言葉は、特別な響きを持つ。
「ここで育てている草は、みんなお薬になるの。ユーリが飲んでいる苦い飲み物も、ここから作ってる」
「このくさが、おくすりになるの?」
「そう。毒になる草もあるし、薬になる草もある。同じ草が毒にも薬にもなることもある」
ユーリは首を傾げた。五歳にはまだ難しい概念だろう。だが、この子の灰色の瞳には、理解よりも先に興味が浮かんでいた。
「おねえちゃんは、すごいね」
「すごくないよ。お姉ちゃんは、怖い人間だったの。昔は」
「こわい? おねえちゃんが?」
ユーリが信じられないという顔をした。
「今は、違うつもり」
その言葉を、自分自身に向けて言った。
東館に戻ったとき、渡り廊下でカミラと出くわした。
「お嬢様! ユーリ坊ちゃま!」
カミラはユーリの顔を見て、一瞬驚いた表情を浮かべた。それから、すぐに柔らかい笑顔になった。
「坊ちゃま、お顔の色がずいぶんお良くなりましたわ」
「カミラ。ユーリを部屋まで送ってもらえる?」
「もちろんです」
カミラがユーリの手を取った。ユーリは最初、知らない人の手に戸惑ったが、カミラの笑顔を見て力を抜いた。カミラには、そういう力がある。人の警戒を解く、自然体の温かさ。
二人が廊下の角を曲がるのを見送ってから、私は自分の部屋に入った。
鏡台の前に座り、自分の顔を見た。
七歳の少女。丸い頬。大きすぎる瞳。
この顔の裏側に、何十人もの人間を毒で殺した記憶が詰まっている。前世の私は、この手で瓶を握り、この指で粉末を量り、この目で対象の苦しむ姿を確認した。
今、同じ手で薬草を育て、同じ指で煎じ薬を量り、同じ目でユーリとカミラの回復を確認している。
やっていることの構造は、何も変わっていない。
対象を選び、投与量を計算し、経過を観察する。違うのは、瓶の中身が毒か薬かということだけだ。
鏡の中の自分が、前世の自分と重なって見えた。
処刑台に引き出された、あの日の顔。憎悪に歪んだ群衆の目に映っていた「毒花」。
「——違う」
声に出して否定した。
鏡の中の七歳が、唇を噛んで私を見返している。
違う。同じ構造でも、意志が違う。
殺すための精密さと、生かすための精密さは、同じ技術を使っていても同じものではない。
そう信じなければ、私はこの手で何も持てなくなる。
鏡台の引き出しを開けた。中に、ユーリの治療記録を書いた紙片がある。日付、投与した薬草の種類と量、観察した身体の変化。これもまた、前世で毒殺のために記録していたフォーマットと同じだ。
嫌悪感が、一瞬だけ胃の底を突いた。
だが、書き続ける。記録は精度を上げるために必要だ。ユーリの命がかかっている。
紙片に今日の分を書き加えた。
——体温安定。咳の頻度は昨日比で三割減。食欲回復の兆候あり。明日から牛乳薊の量を微増。
——屋外活動による精神面の改善が顕著。週に二回を目標に庭に連れ出す。
——父への偽装は現在まで発覚なし。クラウスの杯チェックは目視のみと推定。
紙片を折りたたみ、鏡台の裏板の隙間に挟んだ。
誰にも見つからない場所。前世の私が毒の配合メモを隠していた、その同じ隙間に。
ポケットに手を入れると、ユーリがくれた白い花弁が指に触れた。
少しだけ、温かい気がした。




