第7話 病める弟
弟の存在を思い出したのは、夜中の咳の音がきっかけだった。
東館の私の部屋から、壁一枚隔てた隣室。前世では空き部屋だったはずのその部屋から、くぐもった咳が断続的に聞こえてくる。
誰がいるのか、最初は分からなかった。使用人が寝泊まりするような場所ではない。東館は家族の居住区で、使用人は北棟だ。
翌朝、クラウスにそれとなく聞いた。
「隣のお部屋に、誰かいるの?」
「ユーリ坊ちゃまでございます」
名前を聞いた瞬間、記憶の底に沈んでいた情報が浮上した。
ユーリ・ヴァレンシア。
私の異母弟。父が使用人のひとりとの間にもうけた子供。正式な嫡子ではないが、公爵家の血を引いている。
前世の私は、ユーリのことをほとんど知らなかった。存在は知っていたが、会話した記憶がほぼない。屋敷の中で「いないもの」として扱われていて、私もそれを疑問に思わなかった。
今は思う。
あれは、意図的に隔離されていたのだと。
「ユーリは、いくつ?」
「五歳になられたばかりでございます」
「お身体が悪いの? 昨夜、咳が聞こえたけれど」
クラウスの表情は変わらなかった。壁のような無表情のまま、事務的に答える。
「生まれつきお身体が弱くいらっしゃいます。旦那様から特別な栄養食を処方されておりますので、ご心配には及びません」
特別な栄養食。
父が処方した食事。
血の気が引いた。
食事を終え、父が書斎に消えたのを確認してから、隣室の扉の前に立った。
ノックする。返事はない。もう一度叩くと、扉の向こうから掠れた声が聞こえた。
「……だれ」
「リゼットよ。お姉ちゃん」
沈黙。それから、床を擦るような音がして、扉がわずかに開いた。
隙間から覗いた顔を見て、息を呑んだ。
五歳の男の子だった。灰色の瞳は父に似ている。だが、肌の色が異常だった。生白い、というのとも違う。蝋のように透ける、血の通わない白さ。唇には紫がかった色味があり、目の下の隈は子供のものではなかった。
パジャマの袖から突き出た手首は極端に細く、指先が微かに震え続けている。
痩せている。年齢の割に体が小さく、パジャマの袖から突き出た手首は、私の七歳の手よりも細い。
「……おねえちゃん?」
ユーリが、恐る恐るこちらを見上げた。
「初めまして——じゃないわね。前にも会ったことがあるかもしれないけど、覚えていないの。ごめんなさい」
正直に言った。前世の記憶にも、ユーリと「初めて」会った場面が残っていない。それほど、この子は家の中で透明な存在だった。
「入っても、いい?」
ユーリは頷いた。動作がゆっくりで、首を動かすだけでも息が切れているように見える。
部屋は私の部屋と同じ間取りだが、家具がほとんどなかった。寝台と小さな机。窓にはカーテンが引かれ、昼間なのに薄暗い。机の上に、食事の盆が半分残されたまま置いてある。
盆に目をやった。
白い粥のようなもの。蒸した根菜と、小さな肉団子。そして——薄い緑色の液体が入った杯。
近づいて、杯の中身を嗅いだ。
甘い匂いの下に、かすかに鋭い金属臭。舌の付け根がざわつく、あの感覚。
鉛だ。
またか。
いや——違う。鉛だけではない。もうひとつ、私の知っている匂いが混じっている。微かな苦みを伴う、尖った酸味。
水銀。
二種類の重金属を、極めて低い濃度で混ぜている。単独では急性症状が出ない量でも、複合的に蓄積すれば——五歳の子供の臓器には、確実に損傷が及ぶ。
父はこの子でも「実験」をしている。
私とは異なる方法で。私には耐性の構築。ユーリには、二つの毒を微量ずつ掛け合わせ、長い時間をかけて内臓を崩していく過程の観察。
同じ父から生まれた二人の子供を、異なる条件の実験群として利用している。
「ユーリ。このお汁、毎日飲んでるの?」
「うん。おとうさまが、のみなさいって」
「おいしい?」
「……まずい。でも、のまないと、くらうすがおこる」
拳を握った。爪が掌に食い込む。
「今日から、そのお汁は飲まなくていいよ」
「え?」
「お姉ちゃんが、もっとおいしいお薬を持ってくるから」
ユーリが不安そうに私を見上げた。父の指示に逆らうことの意味が、五歳なりに分かっているのだろう。
「でも、おとうさまが——」
「大丈夫」
嘘だった。大丈夫かどうかなど分からない。だが、この子にこれ以上飲ませるわけにはいかない。
「ユーリ。お姉ちゃんと、お約束してくれる?」
しゃがんで、目線を合わせた。灰色の瞳が、至近距離で私を映している。
「あのお汁は、お姉ちゃんがこっそり捨てる。代わりに、お姉ちゃんが作った飲み物を飲んでね」
「……おいしい?」
「正直に言うと、ちょっと苦い」
ユーリが小さく顔をしかめた。
「でも、あのお汁よりはましだと思うよ。飲んだら、だんだん元気になるから」
ユーリはしばらく黙っていた。小さな手が、パジャマの裾をぎゅっと握っている。
それから、こくりと頷いた。
「おねえちゃんが、いうなら」
胸の奥が軋んだ。
会ったばかりの姉を、この子は信じようとしている。他に頼れる人間がいないからだ。五歳の子供が公爵の屋敷で独りきり、壁の向こうで咳をしている。そんな日常を、誰にも救われないまま過ごしてきた。
前世では、この子はどうなったのか。
分からない。記憶がない。ユーリの名前すら、大人になってから使用人の名簿で見かけた程度だ。つまり——前世のユーリは、私が何も知らないうちに、消えたのだ。
父の実験が終わったとき、「使用済みの検体」がどう処分されるか。考えるまでもない。
部屋を出る前に、もうひとつ確認した。
「ユーリ。お部屋から出ることはある?」
「ううん。くらうすが、でちゃだめって」
「お庭も?」
「おにわ?」
外の世界を知らない目だった。窓から見える景色すら、カーテン越しにしか見たことがないのだろう。
「今度、お天気がいい日に、お庭に連れて行ってあげる」
ユーリの目が、初めて少しだけ明るくなった。
自分の部屋に戻り、薬草包みを全部広げた。
カミラの分に加えて、ユーリの分。五歳の子供への投薬量はさらに慎重な調整が要る。体重は私の半分以下。肝機能も腎機能も未発達。
牛乳薊の煎じ液は、カミラの半量で始める。
毒素を絡め取って流すための硫黄粉は——五歳の小さな身体には負担が大きすぎる。
活性炭は安全だが、飲ませにくい。蜂蜜と混ぜて味を誤魔化すか。
問題は、父の「栄養食」を飲まずに済む偽装だ。杯の中身を捨てて、同じ色の液体で入れ替えなければ、クラウスに気づかれる。
薄い緑色。
ミントの煎じ液なら、色だけは似せられるかもしれない。味が違うが、クラウスが毎回味見をしているとは思えない。量と色を合わせれば、見た目の検査は通る。
やることが増えた。
薬草の消費量は倍。偽装の手間も倍。失敗が許される余地が、さらに狭まっている。
窓の外は曇り空だった。
庭の薬草畑に行く時間を作らなければ。午後三時、使用人の少ない時間帯に。
抱えるものが、一つずつ増えていく。
私の小さな手は、いくつまで掴めるのだろう。
けれど——手放すという選択肢は、もうない。




