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毒花令嬢は二度目の人生で復讐を選ばない  作者: 黒豆子犬


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第6話 父の視線

 父が、書斎から出てこなくなった。


 三日間、食事の席にも姿を見せない。代わりに執事のクラウスが配膳を指示し、私の食事を淡々と並べていく。クラウスは長身で痩せた老人で、表情が一切動かない。笑ったことも怒ったことも見たことがなく、まるで屋敷の壁がそのまま人の形を取ったような男だった。


「お父様はお忙しいの?」


 七歳の無邪気を装って聞いた。


「旦那様は研究中でございます」


 研究。

 前世でもクラウスはその言葉を使っていた。父が書斎に閉じこもるとき、決まって「研究中」と言う。研究の中身を具体的に語ることは、絶対にない。


 食事を終えて席を立つ。廊下に出ると、クラウスが背後から声をかけた。


「お嬢様。最近、お庭に出られることが多いようですが」


 足が止まった。

 背中に、クラウスの視線を感じる。


「ええ。お花を見るのが好きなの」


「さようでございますか」


 それだけだった。追及も、禁止もしない。だが、「見られている」という事実だけが置かれた。


 部屋に戻ってから、指先が冷たくなっていることに気づいた。クラウスが庭の件を口にしたということは、誰かが報告したのか、あるいはクラウス自身が見ていたのか。

 どちらにせよ、注意の解像度を上げなければならない。


 午後、薬草園に行くのは見送った。代わりに、東館の窓から庭全体を眺めた。

 使用人の動線を確認する。朝は洗濯場から裏庭を通る者が二人。昼の配膳後は、厨房の下働きが残飯を捨てに裏口を使う。午後の三時過ぎが最も人通りが少ない。石塀の裏に行くなら、その時間帯がいい。


 前世の自分は、こんなことを考えたことがなかった。

 毒を盛る側にいたからだ。隠れる必要がなく、すべてが父の指示通りに動いていた。観察するのは標的の食事と体調だけで、自分自身の行動を隠す技術など必要としなかった。


 攻める側と守る側では、求められる情報がまるで違う。

 守る側は、圧倒的に不利だ。


 四日目の朝、父が食卓に戻った。


 いつもの席に座り、いつもの書類を広げている。ただ、何かが違う。目の下の隈が深く、頬がさらに削げて見える。書斎に籠もっている間、ほとんど眠っていなかったのだろう。


「リゼット」


 名前を呼ばれた。


「はい、お父様」


「今日から、新しい教材を使う」


 父がテーブルの上に並べたのは、三つのガラス瓶だった。中身はそれぞれ異なる色の液体。薄い黄色、無色透明、そして淡い青。


「この三つの液体のうち、一つだけが毒を含んでいる。どれか、当ててみなさい」


 試験が、段階を上げた。

 前世では、鉛白の投与が三週間続いた後にこの段階に進んだはずだ。それが——まだ一週間も経っていない。


 父が教育の速度を上げている。

 理由は、私が「予定より早い進度」を見せたからだ。附子の名前を正確に答えた、あの日の失態が効いている。


 三つの瓶を順に見た。


 黄色い液体——色はカモミール茶に似ている。だが、わずかに粘度が高い。振ってみると、泡が消えるまでの時間が水より長い。界面活性剤か、あるいはグリセリンが混ざっている。毒とは限らない。


 透明な液体——水にしか見えない。匂いもない。だが、これが一番危険な選択肢だ。無味無臭の毒物は多い。砒素の水溶液、重金属を溶かし込んだ水、さらには附子の猛毒成分だけを抽出した希釈液。「見えない」からこそ、最も警戒すべき。


 青い液体——色がついている時点で、意図的に「怪しく見せている」可能性がある。子供の心理を読んでいる。「毒は怖いもの。怖いものは目立つ色をしている」と直感させて、青を選ばせる。引っかけだ。


 前世のこの試験で、私はどう答えたのか。

 ——覚えていない。七歳の記憶は曖昧で、この手の日常的な毒物教育は何十回と繰り返されたから、個々の場面が溶け合ってしまっている。


 考えろ。

 父の教育方針を逆算する。この男は「正解を教える」のではなく、「失敗から学ばせる」タイプだ。正解を出しても褒めない。間違えたときだけ、冷たく理由を説明する。つまり、この試験の目的は正答率ではなく、推論の過程を観察することだ。


「……お父様。瓶を手に取って、振ってもよろしいですか?」


 父の灰色の目が、微かに動いた。


「許可する」


 黄色の瓶を手に取り、光に透かした。底に微小な沈殿物がある。指で弾くと、沈殿物がゆるやかに舞い上がる。


「この黄色いお水は、お薬の匂いがします。でも、毒ではないと思います」


「根拠は」


「沈殿物が残っています。お父様が毒を使うとき、沈殿が残るような雑な調合はされないと思いますから」


 失言かもしれなかった。「お父様が毒を使うとき」——七歳の子供がそんな前提を口にするのは異常だ。だが、引いてしまえば不自然さが増す。ここは、「父の毒物教育を素直に受け入れている優秀な生徒」の仮面で押し通す。


 父は黙っていた。

 否定も肯定もしない。続きを待っている。


「青いお水は、わざと色をつけてあります。見た目で怖がらせるため——」


 言いかけて、止まった。

 「怖がらせるため」と言った瞬間、この試験が子供の心理操作であると指摘することになる。それは、七歳児の枠を超えている。


「——つまり、色がついているからといって、毒とは限りません。消去法で、透明なお水が毒だと思います」


 父が、テーブルの上で指を組んだ。


「結論だけなら、正解だ」


 正解。だが、父はそこで話を終えなかった。


「リゼット。お前はこの試験で、私の調合の癖を推理に使った。沈殿物の有無から、私の仕事の精度を逆算した」


 心臓が冷えた。


「七歳の子供が、大人の仕事の質を判定できるものか」


 黙った。言い返す言葉が出ない。


 父は椅子から立ち上がった。長身が食堂の照明を遮り、テーブルの上に影が落ちる。


「面白い」


 二度目の「面白い」。

 前回と同じ、口元だけの笑み。灰色の瞳には、好奇心と——おそらく警戒が混じっている。


「明日から、難度を上げよう」


 父は書斎へ戻った。

 食堂に残された三つの瓶が、テーブルの上で静かに光を弾いていた。


 椅子の上で、膝が震えていた。


 出しすぎた。また、出しすぎた。

 黄色い瓶の沈殿物から父の調合精度を逆算するなど、大人の薬学者でも難しい推論だ。七歳の子供がそれをやれば、父は私を「異常」として認識する。


 異常な子供に、父が何をするか。

 前世にはなかった展開が、目の前に広がろうとしている。


 廊下に出ると、すれ違った使用人が一人、足を止めた。

 見覚えのない顔だ。年配の女性で、掃除道具を抱えている。目が合った瞬間、彼女は視線をそらして早足で去った。


 ——あの使用人は、前世にはいなかった。


 屋敷の使用人の顔を、私はかなり覚えている。前世で毒を盛る際に、全員の動線と食事のタイミングを把握する必要があったからだ。だが今、見覚えのない顔が増えている。


 カミラの到着時期が早まったこと。父が教育の速度を上げていること。知らない使用人が屋敷にいること。


 前世とは、何かが変わり始めている。


 私が変えたのか。

 それとも——もともと前世の記憶が、不完全なのか。


 部屋に戻り、窓から庭を見下ろした。

 石塀の裏の薬草畑は見えない。だが、そこにあることを私は知っている。


 父も、やがて知るのだろうか。


 その日の夜、寝台の中で、もう一度あの試験を反芻した。

 透明な瓶の中身は、おそらく砒素の希釈液だった。前世の記憶をたぐれば、致死量の百分の一程度の濃度だ。今の私には見抜けなかったが、父は今後、この濃度を嗅ぎ分ける鼻を要求してくるはずだ。


 百分の一。

 今の私なら、嗅ぎ分けられるだろうか。前世の終盤では、微量の砒素を唇に触れただけで検知できるようになっていた。だが今の身体は七歳だ。感覚器官は未発達で、前世の精度にはほど遠い。


 鍛え直す時間が、いる。

 だが、その時間を父は与えてくれない。教育の速度が上がっているということは、猶予が短くなっているということだ。


 焦ってはいけない。

 けれど、のんびりもしていられない。


 枕の下の薬草包みに手を伸ばし、残量を指先で確認した。

 牛乳薊の種子。木炭。硫黄粉。カミラの分の煎じ薬。


 足りない。

 いつも、足りない。

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