第5章 薬草の秘密
庭の片隅で、土と向き合う時間が増えた。
誰も来ない石塀の裏。地面は長年放置されて硬く締まっていたが、春の雨のおかげで少しずつ柔らかくなり始めている。小さな移植ごてで土を掘り返し、指で塊を崩す。爪の間に泥が入り込んで、いくら洗っても薄茶色が落ちなくなった。
公爵令嬢の手ではない、と父に見られたら何と言うだろう。
考えて、苦笑した。あの男が娘の爪の色を気にかけたことなど、一度もない。
今日の作業は、移植だ。
屋敷の北側の林縁から掘り出してきた、三種の薬草を植え替える。
一つ目は、エキナセア。薄紫の花をつける草で、煎じて飲めば免疫の働きを底上げする。カミラのように継続的に微量の毒を投与されている場合、身体の抵抗力そのものを維持することが最優先になる。
二つ目は、タンポポ。根を乾燥させて煎じれば、肝臓と腎臓の機能を促す。体内に入った毒素の排泄を速めるための、地味だが堅実な手段。どこにでも生えている草だから、これを育てていても怪しまれることはまずない。
三つ目が問題だった。
ベラドンナ。
正確には、ベラドンナそのものではなく、同属の野生種から採れる根の抽出液を利用する。この根が持つ特有の成分は、微量であれば、父が好んで使う神経を冒す毒への応急的な拮抗剤になる。
毒をもって毒を制す。
前世の私が人を害するために積んだ知識が、ここでは防壁に化ける。
だが量の見極めを誤れば、解毒剤自体が猛毒に転じる。ベラドンナの致死量は成人で十ミリグラム前後。カミラの体重と年齢から逆算すると、安全域は恐ろしく狭い。
指先が震えるのを感じた。
前世では、この計算を殺すために使った。今は生かすために使っている。同じ数字、同じ公式。違うのは、私の意志だけだ。
その意志が揺らいだ瞬間に、カミラが死ぬ。
三つの苗を等間隔に植え、根元に水をやった。カモミールとセージの間に紛れ込ませてある。遠目には、ただの雑然とした花壇。近寄って観察しなければ、何が植わっているかは分からない。
「お嬢様!」
背後から声がして、振り向いた。
カミラが庭の小道を早足で歩いてくる。手にはタオルと水差し。
「また泥まみれですわ。お召し物が——」
「平気よ。洗えば落ちるもの」
「それはそうですが、公爵様のお耳に入ったら——」
カミラは言いかけて、口をつぐんだ。「公爵様」の名前を出した瞬間、自分の顔色が変わったことに気づいたのだろう。
三日前に渡した煎じ薬を、彼女は毎夜飲んでくれている。
体調は目に見えて持ち直していた。顔色は赤みを取り戻し、歩幅も安定した。だが根本的な解決にはなっていない。父が毒を止めない限り、カミラの身体は蝕まれ続ける。私の薬草は、あくまで応急処置だ。
「カミラ。ここ、手伝ってくれる?」
「え?」
「土を掘るの。深さは、このくらい」
指で穴の深さを示す。カミラは困惑した顔をしたが、タオルを脇に挟んで、膝をついた。
「お嬢様がお庭仕事をされると聞いたとき、正直驚きました」
「変?」
「お、お嬢様のお立場の方が、こんなに——」
カミラが言葉を探している間に、私は隣の穴にミントの種を蒔いた。
「ねえ、カミラ。この草の名前、知ってる?」
エキナセアの苗を指さした。
「いいえ。紫のお花がきれいですけれど」
「これは、体を強くする草なの。風邪をひきにくくしたり、傷の治りを早くしたり」
嘘は言っていない。ただ、全部は言っていない。
「この草の煎じ液を飲むと、悪いものが体に入ったときに、自分の力で追い出しやすくなる」
カミラの手が止まった。
彼女は横目で私を見ている。何かが引っかかったのだろう。「悪いもの」という言葉の重さに。
「お嬢様。それは——お薬の草、ということですか」
「うん。お薬の草」
「どうして、そんなことをご存知なのですか」
七歳の令嬢が薬草の効能を語る。不自然だと感じて当然だ。
「お父様の本を読んだの」
これも嘘ではない。前世の父の書斎には、毒物と薬物の文献が棚一面に並んでいた。娘を毒に浸す実験の傍らで、あの男は膨大な知識を体系化していた。私はそれを、教育として叩き込まれた。
カミラは数秒、私の顔を見つめていた。
それから、何かを呑み込むように小さく頷いた。
「お嬢様が——こういうことがお好きなら、お手伝いいたします」
理由は聞かなかった。
前世でもそうだった。カミラは私の行動の「理由」を問い詰めることをしない。ただ、隣にいて、必要なことを手伝う。なぜそうできるのか、前世の私にはずっと分からなかった。
今なら、少しだけ分かる。
この子は、人を信じることに理由を求めない。信じると決めたら、その人の行動をまるごと引き受ける。損も得も計算しない。
それは弱さではない。
けれど、この家では——致命的な危うさになる。
「カミラ」
「はい」
「この畑のこと、誰にも言わないでほしいの」
カミラの手が土の中で止まった。
「私とカミラだけの秘密。いい?」
彼女の目が、少し揺れた。「秘密」という言葉の裏に、何か大きなものが隠れていることを察したのかもしれない。
だが、カミラは頷いた。
「はい。お約束いたします」
二度目の約束。
前世では交わすことのなかった約束を、この薬草畑の上で結んだ。
泥まみれの手で、最後の苗を植え終えた。
石塀の向こうに、午後の陽が傾き始めている。カミラは立ち上がって膝の泥を払い、私に向かって手を差し出した。
「お嬢様。お手を」
その手を取った。
温かかった。泥と汗でざらつく、小さな手。
前世の処刑台では、この手に触れることすら叶わなかった。
「ありがとう、カミラ」
声が震えないように、気をつけた。
屋敷に戻る道すがら、カミラが少しだけ話してくれた。
東の山村から来たこと。両親は早くに亡くなり、叔母の家で厄介者として育ったこと。公爵家の侍女募集を知ったとき、どこでもいいからここを離れたかったこと。
前世でも、同じ身の上話を聞いたことがある。ただ、あのときは——もっとずっと後だった。何年も一緒に過ごして、ようやく打ち明けてくれた話。
今回は早い。
時系列が前世と違う。カミラが屋敷に来た時期も、心を開く速度も。私が変わったことで、何かが動いている。
それが吉と出るか凶と出るかは、まだ分からない。
東館の渡り廊下で、カミラと別れた。
彼女が北棟への角を曲がるまで見送ってから、私は自分の部屋に入り、窓辺に立った。
庭の端、石塀の陰。
たった今植えたばかりの薬草畑が、夕陽の中でかすかに光っている。
芽はまだ見えない。土の表面は、ただの泥だ。
でも、根は伸び始めている。
土の下で、見えないところで、確実に。
私の計画も、同じだ。
父に気づかれないまま、カミラを守り、自分の力を蓄え、この家の毒から二人で這い出る道を作る。
窓を閉めて、薬草包みの補充に取りかかった。
明日はカミラの分の煎じ薬を、二日分まとめて準備しておこう。硫黄粉の在庫も確認しなければ。
小さな手のひらに、土の匂いが残っていた。




