第4話 侍女の命
カミラが屋敷に来たのは、春の雨が続いた週のことだった。
昼食の席で、父が何気なく告げた。
「新しい侍女を入れた。今日から東館の世話をさせる」
それだけ言って、父は魚のスープに目を落とした。まるで花瓶の配置を変えたとでも言うような口調だった。
心臓が跳ねた。
匙を握る指に力が入りすぎて、陶器の皿に当たり、かちりと音が鳴った。
カミラ。
前世で私を最後まで見捨てなかった、唯一の人間。
処刑台の前で泣いていた、あの小さな影。
顔に出してはいけない。
私はスープを一口含み、「はい、お父様」とだけ答えた。
午後、東館の廊下で彼女に会った。
十二歳くらいだろうか。前世で初めて会ったときと、同じ顔をしている。栗色の髪を後ろで束ね、頬にそばかすが散っている。体つきは細く、手首の骨が浮いて見えた。侍女の制服は明らかに大きく、袖口を何度も折り返してある。
前世のカミラは、もう少し後——確か夏の終わり頃に来たはずだった。時期が違う。なぜ早まったのか。
彼女は私の姿を認めると、慌てて腰を折った。
「リゼットお嬢様。本日よりお仕えいたします、カミラと申します」
声が震えていた。
目線は床に固定されたまま上がらない。手の甲に、治りかけの擦り傷がある。
怖がっている。
使用人たちの間で何を聞かされたか、想像はつく。公爵家の娘には近づくな。あの子は毒に浸かっている。触れれば病む。——前世でも、カミラが最初に向けてきたのは、こういう怯えだった。
それでも、前世の彼女は逃げなかった。
怯えながら、それでも私のそばにい続けた。私が気づかないうちに傷の手当てをし、寒い夜には自分の毛布を私の寝台に重ね、父に呼び出された日は廊下の隅で帰りを待っていた。
あの恩を、返す。
「カミラ。顔を上げて」
彼女がおずおずと顔を上げた。薄い茶色の瞳が、私を見る。その目の奥に、恐怖のほかにもうひとつ——疲弊があった。ここに来る前から、ずいぶん長いこと、すり減らされてきた目だ。
「長い旅だったでしょう。部屋は用意してもらえた?」
「は、はい。北棟の使用人部屋に——」
「北棟」
声に、意図せず硬さが混じった。
北棟の使用人部屋は、屋敷で最も陽が当たらない一角だ。冬場は壁に霜が降り、夏場はカビが這う。前世のカミラも最初はそこに入れられて、しょっちゅう咳をしていた。
「わかった。ありがとう、カミラ。今日は休んでいいから」
彼女は困った顔をした。到着初日に休めと言われることが、使用人の常識と噛み合わないのだろう。だが私が重ねて「いいから」と言うと、深々と頭を下げて去っていった。
その背中を見送りながら、私は考え始めた。
前世のカミラは——死んだ。
正確には、殺された。
私の処刑が決まった後、カミラは牢獄の私に面会に来た。それを知った第一王子の側近が、「毒花の侍女」を口封じのために始末した。遺体は城壁の外に捨てられ、野犬に食い荒らされたと、後で看守から聞かされた。
あのとき、私は何もできなかった。鉄格子の向こう側で、何も。
今度は違う。
今度は、間に合う。
だが、カミラの命を脅かしているのは、遠い未来の処刑劇だけではない。
もっと近い危険がある。
夕方、父の書斎の前を通りかかったとき。重厚なオーク材の扉越しに、微かな会話が響いてきた。
「——例の件、下働きの娘はどうだ」
父の声だ。低く、平坦で、感情の起伏がまるでない。報告書を読み上げるような声。
「今朝、到着しました。七番目の候補です」
応じるのは、執事のクラウスだった。
「前の六名は、いずれも三ヶ月持ちませんでしたが」
「構わん。耐性があるかどうかは、使ってみなければ分からない」
七番目の候補。
三ヶ月持たない。
背中を冷たいものが伝った。
カミラが「侍女」として配属された理由が、分かった。
前世でも、そうだったのだろうか。私は知らなかった——あるいは、知ろうとしなかった。カミラが咳き込んでいたのは、北棟の湿気のせいだけではなかったのかもしれない。
父はリゼットの毒耐性を育てるだけでは飽き足らず、侍女にも微量の毒を投与して、人体への影響を観察していた。娘専属の侍女なら、外部の目に触れにくい。消えても、家の外の人間は気づかない。
足音を殺して、その場を離れた。
部屋に戻る。
枕の下の薬草包みを広げた。牛乳薊の種子、木炭、硫黄粉。自分を守るために用意した、乏しい武器庫。
足りない。
今の手持ちでは、自分一人分の解毒がやっとだ。カミラの分まで賄うには、もっと量がいる。種類も増やさなければ。父がどんな毒を使うか、予測しきれない。
荒れた花壇のことが頭に浮かんだ。あの泥まみれの一角に、もっと多くの薬草を植える必要がある。すぐに。
翌朝、庭に出た。
春の雨が上がったばかりで、土が柔らかい。屋敷の裏手、誰の目にも留まらない石塀の陰に、小さな区画を作った。前世で覚えた毒草の知識を裏返しにする。毒を知っている人間だけが、その解毒を設計できる。
ジギタリスの葉に対応する活性炭と、心臓の震えを鎮めるための、乾燥アプリコット。
砒素に対応する、キレート作用を持つ硫黄含有植物。
アルカロイド系の毒に対する、タンニン酸の豊富な樫の樹皮。
泥だらけの手で穴を掘りながら、私は自分の行動を冷静に検分していた。
この「薬草園」が父に見つかれば、全てが崩れる。
解毒を準備しているということは、毒を投与されていることを知っていると、白状しているに等しい。七歳の子供がそんなことを看破していたら、父は私を「天才」として重用するのではなく、「制御不能」として排除にかかるだろう。
だから、偽装が要る。
薬草の隣に、食用の野菜を混ぜて植えた。ラディッシュ、セージ、ミント。子供の「お庭遊び」に見えるように。もし誰かに聞かれたら、「侍女さんに食べてもらうお野菜を育てているの」と答える。七歳の令嬢がままごとの延長でやっている、微笑ましい遊び。その程度にしか見えないはずだ。
三日後、父の予想通りのことが起きた。
夕食の配膳を手伝ったカミラの顔色が、微かに青白かった。
食堂から下がる彼女の足取りを、私は見逃さなかった。歩幅が不安定になっている。左の手が、無意識に腹を押さえている。
夜、使用人棟に忍び込んだ。
北棟の廊下は暗く、壁の漆喰が剥がれた場所から冷たい風が吹き込んでいた。カミラの部屋は奥から二番目。扉の下の隙間から、薄い灯りが漏れている。
ノックは三回、控えめに。
「……どなたですか」
声が掠れていた。
「私よ。リゼット」
沈黙。それから、ばたばたと何かを片づける音がして、扉が開いた。
カミラは寝間着姿で、額に薄く汗が浮いていた。
「お、お嬢様。こんな夜更けに、なぜ——」
「体調が悪いでしょう」
カミラの目が見開かれた。
それから、慌てて首を横に振る。
「いいえ。少し、食べ慣れないものがお腹に——」
「嘘」
静かに言い切った。
カミラの唇が、きゅっと閉じられる。
「入っていい?」
狭い部屋だった。寝台と小さな棚。窓は高い位置にあり、月明かりがわずかに差し込んでいる。
私は懐から布包みを取り出した。今朝、庭から収穫した薬草を煎じて、小瓶に詰めたもの。
「これを飲んで」
「……え」
「苦いけど、我慢して。お腹の具合がよくなるから」
カミラは小瓶を受け取り、困惑した顔で中身を見つめた。それから私を見た。疑いというよりも、理解が追いつかないという目だった。七歳の令嬢が夜中に使用人部屋を訪れ、自作の薬を差し出している。普通ではないことくらい、彼女にも分かっている。
「お嬢様。これは——」
「カミラ」
彼女の名前を呼んだ。
前世の記憶が喉の奥を焼いた。この声で、あの名前を呼べることが、まだ信じられない。
「あなたを、この家の都合で死なせたりしない」
言葉が重すぎた。七歳の子供の口から出るべき台詞ではない。カミラの目が、戸惑いから驚きに変わり、そしてじわりと潤んだ。
彼女は何も言わなかった。
ただ、小瓶の蓋を開けて、一息に飲み干した。
顔をしかめる。やはり、苦い。
「……にがい」
「ごめんね」
私は笑った。七歳の笑顔を作るつもりだったが、たぶん上手くいかなかった。目尻が熱い。
カミラが私を見つめていた。泣き笑いのような、不思議な表情で。
「お嬢様は——変わったお方ですね」
「そう?」
「はい。使用人たちは皆、お嬢様を恐ろしいと申します。けれど私には、お嬢様が恐ろしい方には見えません」
——前世でも、カミラは同じことを言った。
あのときは、もっと後だった。何年もかけて、少しずつ心を開いてくれて、ある夜、ぽつりとこぼした。
今回は、まだ出会って三日目だ。
それでも、カミラはカミラだった。怯えの奥に、この子だけが持っている芯がある。他人の痛みを見過ごせない、損な性分。それが前世では、彼女の命を縮めた。
「また明日、持ってくるから」
「お嬢様——」
「カミラ」
扉の前で振り返った。
「具合が悪くなったら、隠さないで教えて。約束して」
カミラは数秒、黙っていた。
それから、静かに頷いた。
「はい。お約束いたします」
北棟の暗い廊下を戻りながら、私は指折り数えた。
解毒用の牛乳薊は、あと五回分。木炭は自分の分を削れば十分。硫黄粉は、三日後に庭師の資材庫が開く日に、また少しだけ拝借できる。
足りるかどうか、分からない。
父が投与する毒の種類が変われば、対処法も変えなければならない。一手でも遅れたら、カミラの身体に取り返しのつかない損傷が残る。
それでも——もう、見て見ぬ振りは終わりだ。
東館への渡り廊下で、ふと足を止めた。
窓の外、月に照らされた庭の片隅に、今朝掘った薬草畑が見える。泥の中に埋めた種が、まだ芽を出すには早い。
けれど、いつか芽は出る。
私がちゃんと水をやり続ければ。
部屋に戻り、寝台に潜り込む。
枕元の薬草包みを抱えるようにして、目を閉じた。
明日も、あの庭に行こう。
カミラの分の薬を、もっと作らなければ。




