第3話 毒を噛み砕く
三日目の夕食に、それは出た。
見た目は普通の鶏肉の煮込みだった。じゃがいもと人参、香草を散らしたソースが皿の上で湯気を立てている。前世の記憶がなければ、何の疑いもなく口にしていただろう。
だが、匂いが違う。
ソースの中に、ほんの微かに、青い苦みが混じっている。鼻腔の奥を刺す、金属的な酸味。
鉛白。
正確には、塩基性炭酸鉛を極少量、ソースに溶かしてある。
前世では、この最初の「試験」に気づかなかった。味覚が未熟な子供の舌では感知できない程度の量で、数日かけて蓄積させる。急性症状は出ない。ただ、身体が徐々に鉛に慣れていく。父はそうやって、私の体を毒に適応させていった。
向かいの席で、父が静かにワインを傾けている。視線は手元の書類に落ちているが、私のことを見ていないわけではない。この男は、視界の端で全てを観察する。
食べなければ、不自然だ。
拒めば、何かに気づいたことを悟られる。
匙を手に取った。
「いただきます」
煮込みを一口、含む。
舌の上に広がるのは、鶏の旨味と香草の風味。そして——舌の付け根に残る、微かな渋み。やはり鉛白だ。量はごく少ない。前世の最初の投与と同じ。
飲み込んだ。
大丈夫。この量なら、今夜のうちに対処できる。
食事を終え、父に「ごちそうさまでした」と告げて席を立つ。廊下を歩く足取りは平静を保つ。部屋の扉を閉めてから、私は小さく息を吐いた。
時間がない。
吸収が始まる前に、体の外に出す。
洗面台の前でかがみ込み、喉の奥に指を入れる。七歳の小さな胃が収縮して、食事の大半を戻した。何度も繰り返す。涙と鼻水が顔を伝い、洗面台の白い陶器が汚れた。
みっともない姿だった。
けれど、前世の私は——この「みっともなさ」すら知らないまま、毒を受け入れ続けた。
吐き終えてから、口を漱ぐ。次に必要なのは、体内に残った分の中和だ。
昨日のうちに準備しておいた。
枕の下から、小さな布包みを取り出す。中身は三種類の解毒薬。庭の隅で摘んだ草や、屋敷の備品から密かにくすねたものだ。
牛乳薊の種子。本来は砕いて煎じるものだが、今は白湯に浸して成分を抽出するしかない。
活性炭の代わりに、樫の木炭を細かく砕いたもの。消化管内の鉛イオンを吸着する。
そして、少量の硫黄粉。鉛と結合して不溶性の硫化鉛を形成し、排泄を促す。
前世で人を殺すために覚えた知識が、自分を守るために使われている。皮肉だった。
木炭を水に溶かして飲む。口の中がざらつく。硫黄粉は微量を白湯に混ぜる。味は最悪だが、我慢する。最後に牛乳薊の浸出液。ひどく苦いが、これが一番大事だ。
全てを飲み終えた頃には、額に汗が滲んでいた。
ベッドに横たわる。天井が、ゆっくりと回っている。
吐き気がまた込み上げてきたが、今度は堪えた。薬草が体内で働く時間が必要だ。
目を閉じると、処刑台の記憶が蘇りかけた。刃の音、冷たさ、群衆の怒号——。
拳を握って、振り払う。
あれは、終わったことだ。
今の私は、あの断頭台には立たない。
朝が来た。
鏡で自分の顔を確認する。顔色は悪くない。目の下に僅かな隈があるが、子供なら寝不足で済む。
身体の芯に、鈍い疲労感が残っている。完全に除去できたわけではない。微量の鉛は血中に残っているだろう。だが、蓄積を防ぐことはできた。
食堂に向かう。
父は、昨日と同じ席に座っていた。書類を広げ、朝食の皿には手をつけていない。
私が席に着くと、灰色の瞳がちらりとこちらを見た。
何かを探るような、品定めするような視線。
「おはようございます、お父様」
「……体調はどうだ」
初めて、体調を聞かれた。
前世では、こんな質問をされた記憶がない。あの頃の父は、私が毒に適応していく過程を、黙って観察しているだけだった。
「とても元気です。昨日のお食事、美味しゅうございました」
笑顔を作る。七歳の無邪気さを装って。
父は数秒、私の顔を見つめていた。
それから、静かに視線を書類に戻した。
「そうか」
それだけだった。
だが、私には分かる。
今朝の父は、何かを確認している。鉛白の初回投与の翌朝に、七歳の子供がどんな顔をしているか。食欲はあるか。目に濁りはないか。
答え合わせをしているのだ。
そして私は、その答案に「異常なし」と書いて提出した。
パンを千切り、口に運ぶ。今日の朝食には、毒は入っていなかった。最初の一服は、間隔を空けて効果を観測するのが、父の流儀だ。前世で学んだ。
食事を終えて、席を立つ。
「お父様」
振り返って、一言だけ加えた。
「今日の課題も、楽しみにしています」
父の目が、僅かに見開かれた。
七歳の子供が「毒の授業」を楽しみにしている。そのことに、この男は——喜んでいるのか、それとも警戒しているのか。
どちらでも構わない。
私が従順な生徒を演じている限り、父は私を「順調に育っている道具」として扱う。その隙に、私は自分の武器を育てる。
部屋に戻り、枕の下の布包みを確認した。
牛乳薊の種子は、あと三回分。木炭は十分にある。硫黄粉が心許ない。
庭に出よう。
荒れた花壇の土を掘り返して、次の準備を始めなければ。
手のひらを開く。
小さな手の中に、乾いた薬草の欠片が一つ、残っていた。
この手は、もう毒を盛るためには使わない。




