第2話 泥の中の蕾
朝食の鐘が鳴った。
屋敷の東翼から食堂までは、長い廊下を二つ折り返す。石壁に掛けられた肖像画の目が、一歩ごとにこちらを追いかけてくる。歴代のヴァレンシア公爵たち。鷹のように鋭い目元は、どの肖像も驚くほどよく似ていた。
この家の血は、顔かたちにまで毒を刻んでいるのだろうか。
すれ違った侍女が、私を見て足を止めた。
ほんの一瞬、その目に走ったのは——恐怖だった。
七歳の子供に向ける表情ではない。まるで檻の中の獣を見るような、関わりたくないという切実な願いが滲んでいる。
「お、お嬢様。おはようございます」
侍女は壁に身を寄せ、私が通り過ぎるのを待った。
前世でも、こうだった。
使用人たちは私を避けていた。「あの子に近づくと病気になる」「公爵様の実験に使われる」。噂は屋敷の隅々に染み付いて、私が物心つく頃には、誰も手を差し伸べてくれなくなっていた。
あの頃は、それが普通だと思っていた。
食堂の扉を開けると、長いテーブルの上座に、一人の男が座っていた。
ヴィクトル・ヴァレンシア。
私の父。
四十を少し過ぎたばかりのはずだが、髪にはすでに銀が混じり、顔の筋は削ぎ落とされたように鋭い。感情の読めない灰色の瞳が、食器の縁から私を捉えた。
「座りなさい」
挨拶はない。温かみもない。まるで実験器具を棚から取り出すような、手順としての声だった。
父の向かいに着く。テーブルの上には、パンと薄い麦粥。私の皿だけ、妙に質素だった。前世でもそうだったことを思い出す。余計な栄養を与えると毒の耐性試験に影響が出る、というのが父の持論だった。
黙々と匙を動かしていると、父が懐から革の巻物を取り出した。紐を解き、テーブルの上に広げる。
植物の図版だった。精密な筆致で描かれた葉と根、花弁と実。その横に、細かな文字で特性が書き連ねてある。
「リゼット。今日の課題だ」
父は図版の一つを指で叩いた。紫色の花。兜のような形の花弁が、茎に連なって咲いている。
「この植物の名前は」
前世の私なら、少し考えてから「トリカブト」と答えただろう。七歳の子供が知っている範囲で、無難に。
だが——今の私は、すでに失敗している。
昨日、目覚めてから半日のあいだに、鏡の前で何度も自分の手を確認し、声を確かめ、記憶を整理した。前世の知識がすべて残っていることも、この身体が七歳のものであることも、理解した。
問題は、この知識をどう扱うかだ。
隠しすぎれば、父の教育計画に従わされるだけ。前世と同じ道を辿る。
出しすぎれば、異常を疑われる。七歳児が知るはずのない知識は、この男の好奇心を刺激する。
父は「道具」に好奇心を抱いたとき、壊れるまで分解する人間だ。
「……トリカブト」
最小限の回答。これで終わるはずだった。
「もう少し正確に言えるか」
父の灰色の目が、僅かに細くなった。試している。七歳の子供の限界を測っている。
ここで黙るか、それとも——。
一瞬だけ迷って、私は口を開いた。
「お父様、それはトリカブトではなく附子です。根の部位で毒性が変わります」
言ってから、少し出しすぎたと気づいた。附子という古い医学書での呼称。根と他の部位で毒性が異なるという薬学的知識。七歳の子供がこれを知っていたら、普通の父親なら心配する。
だが、私の父は普通ではない。
「附子」
父は、その単語を舌の上で転がすように繰り返した。
「根の部位で変わる、か。では聞こう。塊根と側根で、致死量はどれほど異なる」
さらに踏み込んできた。私の回答に驚くのではなく、そのまま深く掘ろうとしている。まるで鉱脈を見つけた採掘者のように。
「……まだ、本では読んでいません」
引いた。これ以上は危険だ。前世の知識を見せすぎると、この男は私を「天才」として扱い始める。そして天才は、凡人よりも早く、より高度な「任務」を課される。
父は匙を置いた。
そして——笑った。
口元だけが、薄く弧を描く。目は笑っていない。灰色の瞳は冷たいまま、私の顔を走査するように動いている。
「面白い」
その一言が、食堂の冷たい空気をさらに重くした。
「明日からは、根と葉の違いを教えよう。お前の進度は、予定より早い」
父は革の巻物を巻き取り、席を立った。背中を向けたまま、最後にこう付け加える。
「母がいれば喜んだだろうな」
扉が閉まった。
母。
この家で、一度も会ったことのない人。前世でも、父は母のことをほとんど語らなかった。病で亡くなったと聞かされていたが、それが真実かどうかすら分からない。
使用人たちも、母の名前を口にすることを避けていた。
冷めた麦粥を一口含む。味はしない。
私は匙を置き、窓の外を見た。屋敷の東庭。手入れの行き届いた薔薇園のさらに向こうに、荒れ果てた一角がある。雑草が伸び放題で、誰も近づかない場所。
前世では、あそこに興味を持ったことなどなかった。
でも今は——あの場所が、私の最初の武器になるかもしれない。
泥まみれの花壇。
毒草の種を植える代わりに、薬草を育てる。父に見つからないように、ゆっくりと。
毒を薬に変える——その最初の一歩を、あの泥の中から始める。
食堂を出るとき、さっきの侍女がまだ廊下に立っていた。壁に背を預け、私が通り過ぎるのをじっと待っている。
目が合った。彼女はびくりと肩を竦めた。
「……ごめんなさい。驚かせましたね」
七歳の子供が侍女に謝る。彼女は困惑した顔をして、深々と頭を下げた。
この屋敷のどこかに、カミラがいるはずだ。
まだ出会っていない。前世で彼女が屋敷に来たのは、もう少し後のことだったか。
急いではいけない。
焦れば、父に気づかれる。
廊下の窓から、朝日が長い影を落としていた。
私は——泥の中に根を張る蕾のように、静かに、静かに育つことを決めた。




