第75話 父との最後の会話
王宮地下の禁固区画は、静かだった。
近衛騎士が先導し、鉄扉を三つ通過した。石壁が厚くなり、外の音が消えた。
最奥の独房。鉄格子の向こうに、父が座っていた。
ヴィクトル・ヴァレンシア。
半年前に比べて、痩せていた。だが、背筋は伸びている。目には光がある。
監獄が父を弱らせているようには見えなかった。むしろ、妙に落ち着いている。
近衛騎士が面会用の椅子を鉄格子の前に置いた。
座った。
「しばらくぶりですね、父上」
父が顔を上げた。私を見た。
「……大きくなったな」
「半年で、少しだけ」
「少しではない。目つきが変わった。最後に会ったときは、まだ怯えの残る目をしていた。今は違う」
「何が違いますか」
「覚悟した人間の目だ」
覚悟。
父にそう言われると、複雑だった。
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処方箋集を取り出した。
鉄格子越しに見せた。
「この中に母の筆跡がありました」
父の表情が、一瞬だけ、凍った。
「死の香への対抗研究のメモです。菌糸培養体Eの特異性についての仮説。アルニカの根を使った中和法の提案。そして——『私にはもう時間がない』という一文」
沈黙が落ちた。
「母は自分で毒を飲んだんですか」
父が目を閉じた。
長い時間が流れた。鉄格子の向こうで、父の呼吸だけが聞こえた。
「……ナタリアは」
母の名前を、父の口から聞いたのは、初めてだった。
「ナタリアは薬師の家の娘だった」
「薬師の?」
「北方のグリューネベルクという小さな街の。代々薬師の家だった。俺はその家に毒を納めていた。薬師にとって毒の知識は必要だ。毒と薬は表裏だからな。出入りするうちに、娘と知り合った」
父の声は、平坦だった。だが、いつもの冷たさとは違った。
記憶を手繰るように、慎重に言葉を選んでいた。
「ナタリアは頭のいい女だった。毒の構造を見れば、解毒法を考え始める。俺が新しい毒を持ち込むたびに、解き方を研究した。まるで遊びのように。だがそれは遊びではなかった」
「母は父の毒を止めたかった」
「違う。いや。違わないかもしれない。あの女は毒を否定したのではない。毒が在ることを認めた上で、その反対側を作ろうとした。鍵があるなら錠も作れる。毒があるなら薬も作れる。そう言っていた」
「それで死の香の対抗研究を」
「俺が死の香の最初の試作品を作ったときナタリアは、それを見て震えた。怒りではなく、恐怖だった。『これは今までと違う。これを止められなければ、誰かが大勢死ぬ』と」
父が目を開けた。
「ナタリアは俺に、研究をやめろと言わなかった。それが無駄だと知っていたからだ。代わりに自分で解毒法を探し始めた。処方箋集の中に、俺に隠れてメモを書いた。菌糸培養体の分析を進めた」
「それで自分の体で実験を」
父の顔が歪んだ。
「……ああ。死の香の微量吸入実験を自分でやった。俺には黙って。体に異常が出始めた頃に俺が気づいた。嗅覚が落ちていた。味が分からなくなっていた。死の香の初期症状だ」
「止めなかったんですか」
「止めた。だが遅かった。既にEが体内に蓄積していた。Eの中和法が分からなかった。ナタリアの仮説アルニカの根は、まだ検証段階だった」
父が両手を組んだ。
「ナタリアは最後の三ヶ月を、ベッドの上で過ごした。嗅覚も味覚もなくなり、歩くのも辛くなっていた。だが最後まで処方箋集に書き続けていた。俺が見ていない隙に」
胸が痛んだ。
「なぜ裁判のとき、聞いたら『愚かな女だった』と?」
「愚かだったからだ」
父の声が硬くなった。
「俺の毒を止めるために、自分の体を使った。それは愚かだ。賢い人間なら、逃げる。子供を連れて家を出る。王家に訴え出る。だがナタリアは逃げなかった。毒の反対側を作ることに、命を賭けた」
「それは愚かですか」
「愚かだ。俺のような男の毒に、命を賭ける価値はない」
「でも母はそう思わなかった」
父が黙った。
長い沈黙。
「……ああ。ナタリアはそう思わなかった。『この家の毒を終わらせるのは、この家の人間であるべき』と。最後にそう言った」
処方箋集のメモにあった言葉と、同じだった。
母は最後まで、同じことを言い続けていた。
「父上。母の仮説は正しかったです」
「……何」
「菌糸培養体Eを先に中和すれば、残りの毒は体が自分で排出する。アルニカの根が有効です。実際に廃鉱山の浄化で使いました。母が残した研究メモのおかげで、解毒剤の必要量を半分以下にできました」
父の目が、見開かれた。
「ナタリアの仮説が」
「正しかったんです。母は間に合わなかった。でも母が残したものが、何千人もの命を救いました」
父が、顔を伏せた。
両手で顔を覆った。
肩が震えていた。
この男が泣くのを、初めて見た。
前世でも、今世でも。
声は出さなかった。だが、確かに泣いていた。
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しばらく待った。
父が顔を上げた。目が赤かった。
「リゼット」
「はい」
「一つ教えてやる」
父が立ち上がった。鉄格子に近づいた。
「処方箋集の最後のページ。裏表紙の裏側。皮を剥がせ」
「ナタリアが——もう一つ、隠しているはずだ。俺は読んでいない。読む資格がないと思った。だがお前には、ある」
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独房を出た。
廊下で立ち止まった。
処方箋集の裏表紙を、爪で慎重に剥がした。
革の裏側に、薄い紙が貼り付けてあった。
折りたたまれた、小さな手紙。
広げた。
母の筆跡。茶色いインク。
『もしこれを読んでいるのが、私たちの子供なら。
あなたが生きていてくれて、嬉しい。
あなたがこの手帳を手にしているということは、あの人の毒に巻き込まれたのかもしれない。ごめんなさい。私にはそれを防ぐ力がなかった。
でもあなたには、私の仮説と、あの人の処方箋がある。毒の全てを知ることは、薬の全てを知ることと同じ。
あなたの手で、この家の毒を、終わらせてほしい。
毒花でも構わない。花は花だから。咲き方を選べるから。
母より。ナタリア・ヴァレンシア』
手紙を胸に押し当てた。自然と私は泣いていた。
カミラが気づいたら後ろにいた。何も言わずに、ハンカチを差し出した。
「カミラ」
「はい」
「母さんの名前。ナタリアって言うんだって」
「素敵なお名前ですね」
「うん」
「お嬢様に似ていらっしゃるのかもしれません」
「分からない。顔は覚えてないから」
「でもしていることは、同じです」
カミラの言葉は、いつも通り、短くて、的確だった。
手紙を丁寧に折りたたんで、処方箋集に戻した。




