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毒花令嬢は二度目の人生で復讐を選ばない  作者: 黒豆子犬
4章 新しい花

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第75話 父との最後の会話

王宮地下の禁固区画は、静かだった。


近衛騎士が先導し、鉄扉を三つ通過した。石壁が厚くなり、外の音が消えた。


最奥の独房。鉄格子の向こうに、父が座っていた。


ヴィクトル・ヴァレンシア。


半年前に比べて、痩せていた。だが、背筋は伸びている。目には光がある。


監獄が父を弱らせているようには見えなかった。むしろ、妙に落ち着いている。


近衛騎士が面会用の椅子を鉄格子の前に置いた。


座った。


「しばらくぶりですね、父上」


父が顔を上げた。私を見た。


「……大きくなったな」


「半年で、少しだけ」


「少しではない。目つきが変わった。最後に会ったときは、まだ怯えの残る目をしていた。今は違う」


「何が違いますか」


「覚悟した人間の目だ」


覚悟。


父にそう言われると、複雑だった。


---


処方箋集を取り出した。


鉄格子越しに見せた。


「この中に母の筆跡がありました」


父の表情が、一瞬だけ、凍った。


「死の香への対抗研究のメモです。菌糸培養体Eの特異性についての仮説。アルニカの根を使った中和法の提案。そして——『私にはもう時間がない』という一文」


沈黙が落ちた。


「母は自分で毒を飲んだんですか」


父が目を閉じた。


長い時間が流れた。鉄格子の向こうで、父の呼吸だけが聞こえた。


「……ナタリアは」


母の名前を、父の口から聞いたのは、初めてだった。


「ナタリアは薬師の家の娘だった」


「薬師の?」


「北方のグリューネベルクという小さな街の。代々薬師の家だった。俺はその家に毒を納めていた。薬師にとって毒の知識は必要だ。毒と薬は表裏だからな。出入りするうちに、娘と知り合った」


父の声は、平坦だった。だが、いつもの冷たさとは違った。


記憶を手繰るように、慎重に言葉を選んでいた。


「ナタリアは頭のいい女だった。毒の構造を見れば、解毒法を考え始める。俺が新しい毒を持ち込むたびに、解き方を研究した。まるで遊びのように。だがそれは遊びではなかった」


「母は父の毒を止めたかった」


「違う。いや。違わないかもしれない。あの女は毒を否定したのではない。毒が在ることを認めた上で、その反対側を作ろうとした。鍵があるなら錠も作れる。毒があるなら薬も作れる。そう言っていた」


「それで死の香の対抗研究を」


「俺が死の香の最初の試作品を作ったときナタリアは、それを見て震えた。怒りではなく、恐怖だった。『これは今までと違う。これを止められなければ、誰かが大勢死ぬ』と」


父が目を開けた。


「ナタリアは俺に、研究をやめろと言わなかった。それが無駄だと知っていたからだ。代わりに自分で解毒法を探し始めた。処方箋集の中に、俺に隠れてメモを書いた。菌糸培養体の分析を進めた」


「それで自分の体で実験を」


父の顔が歪んだ。


「……ああ。死の香の微量吸入実験を自分でやった。俺には黙って。体に異常が出始めた頃に俺が気づいた。嗅覚が落ちていた。味が分からなくなっていた。死の香の初期症状だ」


「止めなかったんですか」


「止めた。だが遅かった。既にEが体内に蓄積していた。Eの中和法が分からなかった。ナタリアの仮説アルニカの根は、まだ検証段階だった」


父が両手を組んだ。


「ナタリアは最後の三ヶ月を、ベッドの上で過ごした。嗅覚も味覚もなくなり、歩くのも辛くなっていた。だが最後まで処方箋集に書き続けていた。俺が見ていない隙に」


胸が痛んだ。


「なぜ裁判のとき、聞いたら『愚かな女だった』と?」


「愚かだったからだ」


父の声が硬くなった。


「俺の毒を止めるために、自分の体を使った。それは愚かだ。賢い人間なら、逃げる。子供を連れて家を出る。王家に訴え出る。だがナタリアは逃げなかった。毒の反対側を作ることに、命を賭けた」


「それは愚かですか」


「愚かだ。俺のような男の毒に、命を賭ける価値はない」


「でも母はそう思わなかった」


父が黙った。


長い沈黙。


「……ああ。ナタリアはそう思わなかった。『この家の毒を終わらせるのは、この家の人間であるべき』と。最後にそう言った」


処方箋集のメモにあった言葉と、同じだった。


母は最後まで、同じことを言い続けていた。


「父上。母の仮説は正しかったです」


「……何」


「菌糸培養体Eを先に中和すれば、残りの毒は体が自分で排出する。アルニカの根が有効です。実際に廃鉱山の浄化で使いました。母が残した研究メモのおかげで、解毒剤の必要量を半分以下にできました」


父の目が、見開かれた。


「ナタリアの仮説が」


「正しかったんです。母は間に合わなかった。でも母が残したものが、何千人もの命を救いました」


父が、顔を伏せた。


両手で顔を覆った。


肩が震えていた。


この男が泣くのを、初めて見た。


前世でも、今世でも。


声は出さなかった。だが、確かに泣いていた。


---


しばらく待った。


父が顔を上げた。目が赤かった。


「リゼット」


「はい」


「一つ教えてやる」


父が立ち上がった。鉄格子に近づいた。


「処方箋集の最後のページ。裏表紙の裏側。皮を剥がせ」


「ナタリアが——もう一つ、隠しているはずだ。俺は読んでいない。読む資格がないと思った。だがお前には、ある」


---


独房を出た。


廊下で立ち止まった。


処方箋集の裏表紙を、爪で慎重に剥がした。


革の裏側に、薄い紙が貼り付けてあった。


折りたたまれた、小さな手紙。


広げた。


母の筆跡。茶色いインク。


『もしこれを読んでいるのが、私たちの子供なら。


あなたが生きていてくれて、嬉しい。


あなたがこの手帳を手にしているということは、あの人の毒に巻き込まれたのかもしれない。ごめんなさい。私にはそれを防ぐ力がなかった。


でもあなたには、私の仮説と、あの人の処方箋がある。毒の全てを知ることは、薬の全てを知ることと同じ。


あなたの手で、この家の毒を、終わらせてほしい。


毒花でも構わない。花は花だから。咲き方を選べるから。


母より。ナタリア・ヴァレンシア』


手紙を胸に押し当てた。自然と私は泣いていた。


カミラが気づいたら後ろにいた。何も言わずに、ハンカチを差し出した。


「カミラ」


「はい」


「母さんの名前。ナタリアって言うんだって」


「素敵なお名前ですね」


「うん」


「お嬢様に似ていらっしゃるのかもしれません」


「分からない。顔は覚えてないから」


「でもしていることは、同じです」


カミラの言葉は、いつも通り、短くて、的確だった。


手紙を丁寧に折りたたんで、処方箋集に戻した。

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