第74話 王妃の勅令
王都に戻ったのは、廃鉱山の浄化確認を終えてから二日後のことだった。
一週間の観測で、坑道からの流出水の汚染反応はほぼ消えていた。完全にゼロではないが、飲用に支障のない水準まで下がっている。
クラインフェルトの井戸水も、試薬に反応しなくなった。
王都の東門を馬でくぐったとき、街の空気が、出発前と違うことに気づいた。
道行く人々が、こちらを見ている。
不審な目ではない。好奇心と、少しの敬意が混じった視線。
「お嬢様。なんだか、見られていませんか」
「うん。何だろう」
カミラが通りすがりの新聞売りから一部買った。
一面に、記事が載っていた。
『宮廷薬師リゼット・ヴァレンシア、南方の水害汚染を浄化。公爵が撒いた毒を、公爵の娘が消す』
「……大げさに書かれてる」
「大げさではありません。事実です」
カミラが真顔で言った。
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王宮に着くと、王妃付きの侍女が待っていた。
「リゼット殿。王妃陛下がお待ちです。すぐにお越しいただけますか」
「着替えを」
「そのままで構わないと仰っています」
旅の汚れが残ったまま、王妃の私室に通された。
アーデルハイト王妃は、窓辺に立っていた。
自分の足で。
半年前は、寝台から起き上がるのも辛そうだった。薬草茶を飲み始めた頃は、三百歩で限界だった。
今は、窓辺に立ち、庭を見下ろしている。背筋が伸びている。顔色もいい。
「リゼット。お帰りなさい」
「王妃様。お元気そうで」
「あなたのおかげです。座りなさい」
椅子に座った。王妃が向かいに座った。侍女が紅茶を運んできた。
王妃が先に口を開いた。
「南方の報告は受けています。グスタフ・メルツの確保。コルサ商会の解体。廃鉱山の浄化。全て、セドリックからの書簡で」
「殿下が」
「あの子は手紙が苦手なのに、あなたのことになると饒舌になるのですよ」
王妃の目が、微かに笑っていた。
「リゼット。あなたに伝えたいことがあります」
「はい」
「疫病は終息に向かっています。南方の汚染源が浄化されたことで、新規発症者はほぼゼロです。エレノアが教会のネットワークで構築した配布拠点も、全国十二箇所で機能しています」
「エレノアの」
「ええ。あの子も、立派にやっています。あなたたちは、よくやりました」
王妃が紅茶を一口飲んだ。
「だからこそ次の話をします」
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王妃が机の上から、巻物を一つ取り上げた。
蝋の封印が押されている。王家の紋章だ。
「勅令です。私の名で、国王陛下の追認を得ています」
巻物を開いた。読み上げた。
「『全国薬務令。王国の全地域において、毒物の流通を統制し、解毒薬の製造と配布を恒久的に管理するため、国家薬務局を設立する。初代局長には宮廷薬師リゼット・ヴァレンシアを任命する』」
「……え」
「聞こえましたか」
「聞こえました。でも」
「国家薬務局。毒物流通の監視、解毒薬の製造と備蓄、薬師の育成と認定、全国の水質監視。あなたが南方でやったことを制度にする。個人の努力ではなく、国家の仕組みにする」
「私が局長?」
「あなた以外に適任はいません」
「九歳です」
「年齢は関係ありません。知識と実績で判断します。あなたは東区三千人と南方五百人を死者ゼロで救い、死の香の完全な解毒法を確立し、汚染源を浄化した。これだけのことをした薬師はこの国にあなただけです」
言葉が出なかった。
王妃が静かに続けた。
「あなたは公爵の娘です。その出自は障壁にもなります。反対する者は出るでしょう。毒殺者の一族に薬を任せるのか、と」
「はい。それは」
「だからこそ、勅令で任命します。王家の名前で、あなたの立場を守る。反対する者には王妃である私が答えます」
アーデルハイト王妃の声には、力があった。
半年前、寝台に横たわっていた人の声とは思えない。
「王妃様。なぜ、そこまで」
「なぜ?」
王妃が目を伏せた。
「私はあなたに命を救われました。それは事実です。だが理由はそれだけではありません」
「……」
「この国はヴァレンシア家の毒を、百年以上放置してきました。王家が暗殺局を作り、利用し、廃止した後も監視しなかった。その結果が今回の疫病です。責任は王家にもある」
王妃の声が低くなった。
「国家薬務局は王家の贖罪でもあります。毒を生み出した構造を、薬を届ける構造に作り替える。あなたを局長に据えるのはあなたが最も適任だからであり、同時に、毒花の家系から薬花が生まれたことを、国として認めるためです」
長い沈黙があった。
紅茶が冷めていく音がした。
「……引き受けます」
「ありがとう」
「でも——一つだけ条件があります」
「何ですか」
「局長という肩書きより薬師として現場に立つ時間を、取り上げないでください。机に座って書類を読むだけの仕事なら私には向きません」
王妃が、笑った。
久しぶりに見た、心からの笑みだった。
「約束します。あなたは薬師のままでいなさい。局長はその延長に過ぎません」
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王妃の部屋を出た。
廊下を歩きながら、実感が追いついてこなかった。
国家薬務局。局長。
九歳の局長。
「お嬢様。大変なお役目ですね」
カミラが後ろを歩いていた。
「うん。大変だ」
「でもお嬢様なら、できます」
「根拠は」
「これまで全部できたから」
カミラの論法は、いつも単純で、反論しにくい。
「カミラ。あなたは局長の侍女になるの?」
「お嬢様のお傍にいるだけです。肩書きが何であっても」
「……ありがとう」
窓の外に、王宮の薬草園が見えた。
あの薬草園から、始まった。七歳の手で、荒れた庭に種を蒔いたところから。
薬草園は今、王宮管理の正式な施設になっている。
あの場所が、国家薬務局の最初の拠点になるのかもしれない。
窓の向こうに、夕日が落ちていった。




