第72話 毒師の誇り
グスタフを山から下ろした後、シルヴァーノの港湾局の留置所に引き渡した。
護送中、グスタフはほとんど喋らなかった。馬の背に揺られながら、ぼんやりと空を見ていた。
留置所の前でグスタフが足を止めた。
「お嬢さん」
「はい」
「一つだけ聞いてくれるか」
「どうぞ」
「死の香の製造記録全部、渡す。原材料の配合比、菌糸の培養条件、蒸留の温度管理。全部だ。頭の中にある。書き出す」
「なぜ」
「あんたが言っただろう。俺の知識は毒を消すために必要だと。だったらちゃんと渡す。中途半端に残したら、誰かが不完全な情報で再現しようとするかもしれない。完全な記録を残した方が完全な対策が立てられる」
その判断は、正しかった。
「ありがとうございます」
「礼はいらん。俺は罪を犯した。償いの入口に立っただけだ」
グスタフが留置所に入っていった。鉄格子の扉が閉まった。
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宿に戻ったのは深夜だった。
カミラが起きて待っていた。シルヴァーノの宿で、ずっと待っていてくれたのだ。
「お嬢様。無事でよかった」
「大丈夫。怪我もない」
「お顔が疲れています」
「疲れてる。でも、終わった。グスタフを確保した。死の香の最後の瓶も」
カミラが紅茶を淹れてくれた。蜂蜜入り。
飲んだ。温かかった。体の芯から、力が抜けた。
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翌朝、港湾局でグスタフの聴取に立ち会った。
セドリックが正式な調書を取る場に、私は薬学の専門家として同席した。
グスタフは約束通り、死の香の全製造工程を口述した。
書記官が記録を取った。私も手元のノートに、化学的な裏づけを書き加えた。
「夜来花の花弁を三日間乾燥させた後、低温で蒸留する。六十度を超えると揮発性成分が壊れる。五十五度が最適。蒸留液を取り、菌糸の培養液と混合する」
「菌糸の培養条件は」
「五種をそれぞれ別の容器で培養する。AからDは通常の菌糸培地。ただしEだけは血清を混ぜた培地が必要だ。動物の血清。Eは特殊なんだ」
菌糸培養体E。母のメモに記されていた、毒の排出機構を阻害する成分。
「Eが一番難しかった。他の四つは既存の菌糸を改良しただけだ。だがEは俺が一から作った。三年かけて」
「Eの機能は毒の排出を止めること?」
グスタフが目を見開いた。
「……よく知ってるな。公爵にも教えていないはずだが」
「別の情報源から」
母のメモのことは、言わなかった。
「Eがなければ、AからDの毒性は体が自然に排出する。Eが蓋をするから毒が体内に留まり続ける。死の香の致死性の核はEだ」
「Eだけを先に中和すれば残りは自然排出される?」
「理論上はそうだ。だがEの中和剤を俺は知らない。探したこともない。俺は毒を作る側だった。消す側ではなかった」
アルニカの根。母はそれをEの中和剤として記していた。
「一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「公爵の妻リゼットの母親について、何か知っていますか」
グスタフが口を閉じた。しばらくの間、天井を見ていた。
「……公爵の妻に会ったことはない。俺が公爵と組んだのは十年前だ。公爵の妻はその前に死んでいる」
「死因は」
「知らない。だが公爵が一度だけ、酔ったとき言ったことがある。『あの女は自分で毒を飲んだ。止めようとしたのか、確かめようとしたのか、分からない。だが愚かなことだ』と」
自分で毒を飲んだ。
止めようとしたのか。確かめようとしたのか。
母のメモが頭をよぎった。
『私にはもう時間がない』
母は、死の香の対抗研究をしていた。そのために、自分の体で実験したのかもしれない。
父と同じことを、いや。父は道具としてリゼットに毒を試した。母は自分の意志で、自分の体に毒を入れた。
目的が違う。方法が同じでも、目的が。
「……ありがとうございます」
「礼を言うようなことは何もしていない。俺は公爵に付き合って、人を殺す道具を作った。それだけの男だ」
グスタフが目を伏せた。
聴取が終わった。書記官が記録をまとめ、セドリックが署名した。
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港湾局を出た後、セドリックと二人で港の防波堤に座った。
海風が吹いていた。潮の匂いが強い。
「母のこと聞いたか」
「うん」
「自分で毒を飲んだか」
「処方箋集に残した研究メモと辻褄が合う。母は死の香の対抗研究をしていた。自分の体で実験して間に合わなかった」
「間に合わなかった」
セドリックが繰り返した。
「だがあの研究メモは残った。それが今、お前の手にある」
「うん」
「間に合わなかった人の仕事を間に合う人間が引き継ぐ。それは、無駄ではない」
セドリックの言い方は、いつも通り、淡々としていた。慰めではなく、事実として述べている。
それが、ありがたかった。
「父に会いに行かないと」
「ああ。全部終わったら牢に行こう」
全部終わったら。
廃鉱山の浄化が、まだ残っている。
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夕方、コルサ商会の最終処理が行われた。
帳簿の押収。倉庫の封鎖。夜来花の在庫六十キロの没収。商会代表ロレンツォの身柄拘束。
コルサ商会は、事実上、解体された。
港湾局の検察官が書類を整理する間、私は倉庫で没収品を確認した。
死の香の材料がこれだけあれば、何百人分もの毒が作れたはずだ。
間に合った。
グスタフが水源で瓶を開ける前に、間に合った。
倉庫を出た。
夕焼けが港を染めていた。海面が赤く光っている。
カミラが宿の窓から手を振っていた。夕食の支度ができたらしい。
「行こう。今日は魚の骨に気をつける」
セドリックが横で小さく笑った。
「学んだのか」
「学んだ。骨だけは」




