第71話 グスタフとの対峙
廃鉱山の入口に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
前回と同じ場所だ。朽ちた木枠。苔むした石積み。坑道の口から水が流れ出している。
だが、何かが違った。
入口の手前に、馬が一頭繋がれていた。荷を積んだ馬だ。背中に木箱が二つ。
「グスタフの馬だ」
セドリックが剣の柄に手をかけた。近衛騎士が前に出ようとした。
「待って」
私が前に出た。
「私が行く」
「リゼット」
「グスタフは調香師だ。兵士が武器を持って入れば、パニックを起こす。持っている死の香をその場で撒く可能性がある」
「なら」
「私なら分かる。死の香の匂いを嗅ぎ分けられるし、解毒の手段も持っている。それにグスタフにとって、毒の知識を持つ相手の方が、話が通じる」
セドリックの顔が強張った。
「入口で待っていてくれる?」
「五分だ。五分で出てこなければ入る」
「十分」
「七分」
「……分かった。七分」
松明を手に、坑道に入った。
---
暗い。天井が低い。水の音がする。
壁を伝って歩いた。前回調査したときの記憶がある。坑道は一本道で、途中から二又に分かれる。左が排水路、右が旧採掘坑。
水源に近いのは、左。
左に進んだ。
水が足首まで浸かった。冷たい。
松明の光が揺れる。壁に影が踊った。
奥に、灯りが見えた。
小さなランプの灯り。坑道の突き当たり。水が湧き出している場所だ。
男が、水際にしゃがんでいた。
背中を向けている。手に何か持っている。
「グスタフ・メルツ」
声をかけた。
男が振り返った。
帽子を被っていない。禿げ上がった頭に、深い皺が刻まれた顔。痩せた体。そして、異様に大きな鼻。調香師の鼻だ。
メルツ香房で初めて会ったときと、同じ顔だった。
「……誰だ」
「リゼット・ヴァレンシア。宮廷薬師です」
グスタフの目が細まった。
「ヴァレンシア。公爵の」
「娘です」
「ああ。来たか」
グスタフの手に、小瓶があった。
暗い琥珀色の液体。蓋は閉まっている。まだ開けていない。
「その瓶を水に入れるつもりですか」
「……ああ」
「なぜ」
グスタフが立ち上がった。膝が震えていた。疲労か、恐怖か。
「公爵が捕まった。メルツ香房は潰された。コルサ商会ももう終わりだ。逃げ場はない」
「だから水を汚すんですか」
「水を汚すんじゃない」
グスタフの声が、微かに震えた。
「証明するんだ」
「何を」
「死の香は完璧な毒だ。人の歴史の中で、これほど精巧な揮発性毒は存在しなかった。吸うだけで効く。嗅覚を奪い、味覚を消し、筋肉を止める。段階的に、確実に。芸術だ」
グスタフの目が、濡れていた。
「俺はただの調香師だった。南方の田舎町で、花の匂いを混ぜて売っていた。香水屋だ。誰も俺の名前なんか知らなかった」
「公爵が声をかけた?」
「ああ。公爵はうちの店に来て夜来花の精油を嗅いで、言った。『これで人を殺せるか』と。俺は断った。最初は。だが公爵は金を出した。そして俺の鼻を褒めた」
グスタフの手が瓶を握りしめた。
「誰も褒めてくれなかった。香水なんて田舎では贅沢品だ。誰も買わない。匂いの違いが分かる人間もいない。だが公爵は俺の鼻が特別だと言った。この鼻があれば、世界で一つだけの毒を作れると」
「それで死の香を」
「十年かかった。夜来花と菌糸の組み合わせを見つけるまでに、三年。揮発性を安定させるまでに四年。五種の菌糸培養体を複合させるまでに三年。俺の人生の全てだ。この毒は」
グスタフの声が途切れた。
しばらくの間、水の音だけが坑道に響いた。
「グスタフさん」
「……なんだ」
「あなたの鼻は確かに特別です。死の香の構造は私が見た中で最も精巧な複合毒です。五種の菌糸培養体を段階的に作用させる設計は、毒物学の教科書にも載っていません」
グスタフが私を見た。
「だがそれを水に入れたら、何千人もの人が死にます。あなたの芸術は人殺しの道具になる。それだけです。誰もあなたの名前を覚えない。覚えるのは死んだ人の家族だけです」
「……知っている。分かっている」
「分かっているならやめてください」
「やめたら俺には何も残らない。香水屋に戻れるわけでもない。公爵は牢の中だ。コルサも終わりだ。俺は何者でもなくなる」
「何者でもなくていいじゃないですか」
グスタフが目を見開いた。
「何者でもないところからやり直せばいい。私もそうでした。毒殺者の娘で、処刑された罪人で、何も持っていなかった。でも薬草園を作って、薬を一つずつ覚えて、患者を一人ずつ治した。名前がなくても手は動きます」
「……俺に、薬は作れない」
「作れますよ。あなたの鼻なら。死の香を作れる嗅覚があるなら薬の調合だって、誰よりも正確にできる。匂いで成分の純度を判別できるなら、それは調香師にしかない武器です」
グスタフの手が、震えていた。
瓶を握る力が、緩んだ。
「嘘だろう。毒殺者を、許す薬師がいるか」
「許していません。あなたが作った死の香で何人もの人が苦しみました。王妃も、東区の住民も、クラインフェルトの人たちも。その事実は消えない」
「なら」
「でもあなたを殺しても、死の香は消えない。レシピが残る。材料が残る。製造法を知る人間がいなくなれば、解毒法の改良もできなくなる。あなたの知識は毒を消すために必要です」
長い沈黙があった。
水が流れている。松明の炎が揺れている。
グスタフが、瓶を、地面に置いた。
「……俺は」
声がかすれた。
「何者にもなれなかった男だ」
「今からなればいい。遅くはないですよ」
グスタフが座り込んだ。膝を抱えて、うつむいた。
肩が震えていた。
泣いているのだろう。
私は、彼の隣には座らなかった。毒師の傍に座るほど無警戒ではいられない。
だが、瓶を拾い上げた。蓋をしっかり確認し、布で包んで懐にしまった。
「グスタフさん。外に出ましょう。外に、人が待っています」
グスタフが顔を上げた。
「……捕まるのか」
「はい」
「牢か」
「おそらく」
「……そうか」
グスタフが立ち上がった。足元がふらついた。
私が手を貸した。痩せた腕は、軽かった。
「おい。お嬢さん」
「なんですか」
「あんた——公爵に似てるよ。目が。人を見透かすような目だ」
「……父に似ていると言われるのは、あまり嬉しくないです」
「だろうな」
グスタフが、微かに笑った。
壊れかけの笑みだった。だが、笑みだった。
坑道を戻った。二人で、水の中を歩いた。
入口の光が見えた。
セドリックが立っていた。剣を抜いていた。
「八分だ。一分遅い」
「ごめん。無事。グスタフ・メルツを確保した」
セドリックがグスタフを見た。グスタフがセドリックを見た。
近衛騎士がグスタフの腕を取った。グスタフは抵抗しなかった。
日が沈みかけていた。山の稜線が赤く燃えている。
死の香の最後の瓶が、私の懐にある。
これで、この毒を作れる人間は、もういなくなった。




