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毒花令嬢は二度目の人生で復讐を選ばない  作者: 黒豆子犬
4章 新しい花

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第71話 グスタフとの対峙

廃鉱山の入口に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。


前回と同じ場所だ。朽ちた木枠。苔むした石積み。坑道の口から水が流れ出している。


だが、何かが違った。


入口の手前に、馬が一頭繋がれていた。荷を積んだ馬だ。背中に木箱が二つ。


「グスタフの馬だ」


セドリックが剣の柄に手をかけた。近衛騎士が前に出ようとした。


「待って」


私が前に出た。


「私が行く」


「リゼット」


「グスタフは調香師だ。兵士が武器を持って入れば、パニックを起こす。持っている死の香をその場で撒く可能性がある」


「なら」


「私なら分かる。死の香の匂いを嗅ぎ分けられるし、解毒の手段も持っている。それにグスタフにとって、毒の知識を持つ相手の方が、話が通じる」


セドリックの顔が強張った。


「入口で待っていてくれる?」


「五分だ。五分で出てこなければ入る」


「十分」


「七分」


「……分かった。七分」


松明を手に、坑道に入った。


---


暗い。天井が低い。水の音がする。


壁を伝って歩いた。前回調査したときの記憶がある。坑道は一本道で、途中から二又に分かれる。左が排水路、右が旧採掘坑。


水源に近いのは、左。


左に進んだ。


水が足首まで浸かった。冷たい。


松明の光が揺れる。壁に影が踊った。


奥に、灯りが見えた。


小さなランプの灯り。坑道の突き当たり。水が湧き出している場所だ。


男が、水際にしゃがんでいた。


背中を向けている。手に何か持っている。


「グスタフ・メルツ」


声をかけた。


男が振り返った。


帽子を被っていない。禿げ上がった頭に、深い皺が刻まれた顔。痩せた体。そして、異様に大きな鼻。調香師の鼻だ。


メルツ香房で初めて会ったときと、同じ顔だった。


「……誰だ」


「リゼット・ヴァレンシア。宮廷薬師です」


グスタフの目が細まった。


「ヴァレンシア。公爵の」


「娘です」


「ああ。来たか」


グスタフの手に、小瓶があった。


暗い琥珀色の液体。蓋は閉まっている。まだ開けていない。


「その瓶を水に入れるつもりですか」


「……ああ」


「なぜ」


グスタフが立ち上がった。膝が震えていた。疲労か、恐怖か。


「公爵が捕まった。メルツ香房は潰された。コルサ商会ももう終わりだ。逃げ場はない」


「だから水を汚すんですか」


「水を汚すんじゃない」


グスタフの声が、微かに震えた。


「証明するんだ」


「何を」


「死の香は完璧な毒だ。人の歴史の中で、これほど精巧な揮発性毒は存在しなかった。吸うだけで効く。嗅覚を奪い、味覚を消し、筋肉を止める。段階的に、確実に。芸術だ」


グスタフの目が、濡れていた。


「俺はただの調香師だった。南方の田舎町で、花の匂いを混ぜて売っていた。香水屋だ。誰も俺の名前なんか知らなかった」


「公爵が声をかけた?」


「ああ。公爵はうちの店に来て夜来花の精油を嗅いで、言った。『これで人を殺せるか』と。俺は断った。最初は。だが公爵は金を出した。そして俺の鼻を褒めた」


グスタフの手が瓶を握りしめた。


「誰も褒めてくれなかった。香水なんて田舎では贅沢品だ。誰も買わない。匂いの違いが分かる人間もいない。だが公爵は俺の鼻が特別だと言った。この鼻があれば、世界で一つだけの毒を作れると」


「それで死の香を」


「十年かかった。夜来花と菌糸の組み合わせを見つけるまでに、三年。揮発性を安定させるまでに四年。五種の菌糸培養体を複合させるまでに三年。俺の人生の全てだ。この毒は」


グスタフの声が途切れた。


しばらくの間、水の音だけが坑道に響いた。


「グスタフさん」


「……なんだ」


「あなたの鼻は確かに特別です。死の香の構造は私が見た中で最も精巧な複合毒です。五種の菌糸培養体を段階的に作用させる設計は、毒物学の教科書にも載っていません」


グスタフが私を見た。


「だがそれを水に入れたら、何千人もの人が死にます。あなたの芸術は人殺しの道具になる。それだけです。誰もあなたの名前を覚えない。覚えるのは死んだ人の家族だけです」


「……知っている。分かっている」


「分かっているならやめてください」


「やめたら俺には何も残らない。香水屋に戻れるわけでもない。公爵は牢の中だ。コルサも終わりだ。俺は何者でもなくなる」


「何者でもなくていいじゃないですか」


グスタフが目を見開いた。


「何者でもないところからやり直せばいい。私もそうでした。毒殺者の娘で、処刑された罪人で、何も持っていなかった。でも薬草園を作って、薬を一つずつ覚えて、患者を一人ずつ治した。名前がなくても手は動きます」


「……俺に、薬は作れない」


「作れますよ。あなたの鼻なら。死の香を作れる嗅覚があるなら薬の調合だって、誰よりも正確にできる。匂いで成分の純度を判別できるなら、それは調香師にしかない武器です」


グスタフの手が、震えていた。


瓶を握る力が、緩んだ。


「嘘だろう。毒殺者を、許す薬師がいるか」


「許していません。あなたが作った死の香で何人もの人が苦しみました。王妃も、東区の住民も、クラインフェルトの人たちも。その事実は消えない」


「なら」


「でもあなたを殺しても、死の香は消えない。レシピが残る。材料が残る。製造法を知る人間がいなくなれば、解毒法の改良もできなくなる。あなたの知識は毒を消すために必要です」


長い沈黙があった。


水が流れている。松明の炎が揺れている。


グスタフが、瓶を、地面に置いた。


「……俺は」


声がかすれた。


「何者にもなれなかった男だ」


「今からなればいい。遅くはないですよ」


グスタフが座り込んだ。膝を抱えて、うつむいた。


肩が震えていた。


泣いているのだろう。


私は、彼の隣には座らなかった。毒師の傍に座るほど無警戒ではいられない。


だが、瓶を拾い上げた。蓋をしっかり確認し、布で包んで懐にしまった。


「グスタフさん。外に出ましょう。外に、人が待っています」


グスタフが顔を上げた。


「……捕まるのか」


「はい」


「牢か」


「おそらく」


「……そうか」


グスタフが立ち上がった。足元がふらついた。


私が手を貸した。痩せた腕は、軽かった。


「おい。お嬢さん」


「なんですか」


「あんた——公爵に似てるよ。目が。人を見透かすような目だ」


「……父に似ていると言われるのは、あまり嬉しくないです」


「だろうな」


グスタフが、微かに笑った。


壊れかけの笑みだった。だが、笑みだった。


坑道を戻った。二人で、水の中を歩いた。


入口の光が見えた。


セドリックが立っていた。剣を抜いていた。


「八分だ。一分遅い」


「ごめん。無事。グスタフ・メルツを確保した」


セドリックがグスタフを見た。グスタフがセドリックを見た。


近衛騎士がグスタフの腕を取った。グスタフは抵抗しなかった。


日が沈みかけていた。山の稜線が赤く燃えている。


死の香の最後の瓶が、私の懐にある。


これで、この毒を作れる人間は、もういなくなった。

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