第70話 処方箋集の秘密
廃鉱山へ向かう山道を駆け上がりながら、私は馬上で処方箋集を読んでいた。
無茶だと分かっている。馬の揺れで文字が飛ぶ。だが、読まなければならなかった。
グスタフが廃鉱山の水源に死の香を投入しようとしている。
それを阻止するために、死の香の性質を、もっと深く理解する必要がある。
父の処方箋集には、死の香の調合記録がある。何度も読んだ。だが、まだ読み落としがあるかもしれない。
揺れる馬上で、ページをめくった。
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処方箋集は革表紙の厚い手帳だった。父の手書きで、毒物と解毒法が対になって記されている。
ヴァレンシア家三十代分の蓄積。初代から受け継がれた毒の技術。そのすべてが、この一冊に凝縮されている。
死の香の項目を開いた。
『死の香(Flos Mortis)
基材:夜来花精製粉末 + 菌糸培養体A~E
揮発性神経毒。吸入経路で嗅覚、味覚、筋機能を段階的に侵す。
致死量:体重比 0.3mg/kg(吸入)、1.2mg/kg(経口)
潜伏期:吸入後 6-48時間(濃度依存)
中和剤候補:
牛乳薊:肝保護、毒素代謝促進
活性炭:消化管内吸着
ウラル甘草:揮発性成分の中和
白樺茸(ベツリン酸):菌糸培養体D(免疫抑制型)への対抗
備考:菌糸培養体は五種の複合体であり、単一の中和剤では完全解毒に至らない。複合処方が必要。』
ここまでは、既に知っている内容だ。
ページをめくった。
次のページは、空白だった。
いや。空白ではない。
光に透かすと、何かが見える。
「セドリック。止まって」
馬を止めた。森の中の開けた場所で降りた。
処方箋集を日光にかざした。
空白に見えたページの裏側に、別の筆跡があった。
父の角張った筆跡ではない。丸みを帯びた、柔らかい文字。インクの色も違う。父が使う黒インクではなく、茶色がかった古いインク。
「これは」
文字を読んだ。
『死の香への対抗研究メモ
菌糸培養体Eの特異性。他の四種(A-D)が段階的に機能を侵すのに対し、Eは毒の排出機構そのものを阻害する。EがAからDの毒性を「閉じ込める」役割を果たしている。
仮説:Eを先に中和できれば、残りのA-Dは体の自然な解毒機能で排出される可能性がある。
Eの中和に有効と思われるもの:アルニカの根の蒸留液。ただし投与量の制御が難しい。過剰投与は心臓に負荷をかける。
私にはもう時間がない。でもこの仮説が正しければ、いつか、この毒を完全に消す道が開ける。
この家の毒を終わらせるのは、この家の人間であるべきだと思う。
どうか、読む人がいてくれますように。』
読み終えた。
手が震えていた。
セドリックが近づいてきた。
「どうした」
「……母の、字だ」
「母親の?」
「父の処方箋集の中に母が書いた研究メモが挟まれていた。死の香の対抗研究。母は——自分で調べていたんだ」
セドリックが処方箋集を覗き込んだ。
「『私にはもう時間がない』」
「母は病死したと聞かされていた。でもこの文面は、自分の死期を知っていた人間の書き方だ」
胸が痛んだ。
母のことは、ほとんど覚えていない。前世でも今世でも、母の顔はぼんやりとしか思い出せない。
父は母について話さなかった。「病死した」の一言で、それ以上は何も。
あの裁判の日、証人席を降りるとき、父に母のことを問いかけた。父は「愚かな女だった」とだけ答えて、黙った。
愚かな女。
違う。
この研究メモを書いた人は、愚かではない。
毒の構造を分析し、対抗策の仮説を立て、記録を残した。この家の毒を終わらせたいと願って。
時間がなかったのは、母自身が毒に侵されていたからではないのか。
父の実験か。あるいは、父の毒を止めようとして、自ら毒に触れたか。
答えは分からない。父に聞くしかない。
だが、今はその時ではない。
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研究メモの内容を咀嚼した。
菌糸培養体E。他の四種の毒性を「閉じ込める」役割。
これは、解毒薬の構成を根本から変える発見だ。
今の解毒薬は、五種の菌糸培養体をすべて同時に中和しようとしている。牛乳薊、活性炭、甘草、白樺茸の複合処方。効いてはいるが、効果が六割から八割だ。完全な中和には至っていない。
もしEを先に中和できれば、残りの四種は体が自分で排出する。完全解毒が可能になる。
「アルニカの根」
アルニカ。山地に自生する黄色い花。抗炎症作用があるが、心臓毒性のリスクがある。父の処方箋集にもアルニカの記載はあったが、毒としての記載だった。解毒剤としては、一般的ではない。
だが母は、アルニカの根の蒸留液がEに有効だと書いている。
「セドリック。この廃鉱山の周辺にアルニカは生えるか」
「アルニカ? 山地の草原に生える。この辺りなら、標高が合う。探せば見つかるかもしれない」
「探す。廃鉱山に着くまでの間に」
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山道を進みながら、道の両側を見た。
岩場の間に、黄色い花が咲いていた。
馬を止めた。
降りて、花を確認した。
アルニカだ。小さな群落。十株ほど。
根を掘った。黒い土を払い、布で包んだ。
「これで試せる」
処方箋集を開いた。母のメモをもう一度読んだ。
投与量の制御が難しい。過剰投与は心臓に負荷をかける。
つまり、まず自分で試す必要がある。
いつものことだ。
カミラがいたら止められるだろう。だがカミラはシルヴァーノの宿に残してきた。
セドリックが横にいた。
「自分で飲むつもりか」
「少量だけ。毒性の閾値を確認する」
「馬鹿か」
「馬鹿かもしれない。でも廃鉱山に着いてからでは遅い。グスタフが水源に死の香を入れていたら、浄化計画を根本から組み直す必要がある。Eを先に中和できるなら二千リットルの解毒剤は半分で済むかもしれない」
セドリックが黙った。
反論はしなかった。彼には分かっている。私が一度決めたら、止まらないことを。
根を砕き、水で煎じた。少量。指先に一滴。
舌に乗せた。
苦い。だが、毒の苦さではない。薬草の苦さだ。体が拒絶する感覚はない。
心拍を数えた。変化なし。
もう少しだけ量を増やした。小さじ半分。
飲んだ。
三分待った。心拍、微増。だが危険域ではない。
「大丈夫。この量なら安全だ」
セドリックが息を吐いた。
「頼むから事前に言ってくれ」
「言ったら止めるでしょう」
「止める。だが止められなかったときのために、心構えくらいはさせてくれ」
その言葉に、少し笑った。
「ごめん。次からは言う」
「言うだけでやめるとは言わないんだな」
「薬師だから」
セドリックが呆れた顔をした。だが、その目の奥に、別の感情が見えた気がした。
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馬を走らせた。
廃鉱山まであと半日。
母が残したメモが、処方箋集の中で、何年も誰にも読まれずに眠っていた。
父は気づいていたのだろうか。気づいていて、黙っていたのだろうか。
分からない。
だが、母は確かに、この毒を終わらせようとしていた。
「母さん」
声に出したのは、初めてだった。
馬の蹄の音と風の音に紛れて、誰にも聞こえなかった。
聞こえなくていい。
あなたが残したものを、私が、完成させる。




