第66話 グスタフの影
クラインフェルトを発ったのは、六日目の朝だった。
街の広場で見送りがあった。見送りと言っても、住民が数人集まっただけだ。大げさな式典ではない。
トビアスが駆け寄ってきた。
「おねえちゃん、帰っちゃうの?」
「少しの間だけ。用事が済んだら、また来るよ」
「約束!」
「約束」
母親が深く頭を下げた。ダンツィヒが馬の手綱を押さえてくれた。
「薬師殿。煮沸水の件、徹底させます。戻ってくるまで、街は俺たちが守る」
「ありがとうございます。追加の薬が足りなくなったら、王都のランベルト先生に連絡を」
馬に跨った。セドリックとカミラ、近衛騎士二名。五人で南に向かう。
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南方の港街シルヴァーノまで、馬で三日の距離だった。
道中の景色が変わっていく。針葉樹の森が広葉樹に変わり、乾いた丘陵地帯に入ると、空気が温かくなった。
街道沿いの宿で二泊した。どの宿にも、疫病の噂は届いていた。
「クラインフェルトの方で大変なことになったと聞きましたよ。お客さん方、薬師の方ですか」
「ええ」
「お気をつけて。南の方でも井戸水がおかしいって声が出始めてます」
汚染はまだ広がっている。廃鉱山の浄化が済むまで、止まらない。
焦りが胸を押した。だが、今は目の前の仕事を片づけるしかない。
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シルヴァーノに着いたのは、三日目の夕方だった。
潮の匂いがした。港の喧騒。荷馬車が行き交い、異国語が飛び交っている。
王都とはまったく違う空気だ。
宿を取り、荷物を置いてから、情報収集を始めた。
セドリックが先に近衛騎士を動かしていた。王妃の名を借りた調査令状を持っている。
「コルサ商会の本部はシルヴァーノ港の東端。倉庫区画に事務所がある。昨日の時点では営業を続けていたらしい」
「公爵家が潰れても?」
「コルサ商会にとって、公爵家は顧客の一つに過ぎない。他にも取引先はある。商会そのものに逮捕令が出ていないからまだ動いている」
「それを利用する」
「ああ。正面から行けば、帳簿を隠される。まずはメルツの足跡から追う」
セドリックの手際は相変わらず的確だった。
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翌朝、カミラと二人で港の南側を歩いた。
セドリックは近衛騎士と共にコルサ商会の動向を別口で調べている。合流は夕方の予定だ。
シルヴァーノの南側は職人街だった。染物屋、革職人、銀細工師が軒を連ねている。その一角に、香料店が集まっていた。
メルツ香房は王都の南区にあった。グスタフが逃亡したのは春。この港街に来たなら、同業者の繋がりを頼るはずだ。
香料店を一軒ずつ回った。
「すみません。半年ほど前に王都から来た調香師を探しています。四十代の男性で、南方訛りのある」
一軒目。首を振られた。
二軒目も同じ。
三軒目の店主が、手を止めた。
「四十代で王都から? ああ、もしかして。ギュンターと名乗っていた男がいたな」
「ギュンター?」
「ギュンター・ヴォルフ。春先に来て、うちの蒸留器を借りたいと言ってきた。香水の試作がしたいとか。断ったけど」
「なぜ断ったのですか」
「嗅覚が普通じゃなかった。香水を作りたいと言いながら、彼が持ち込んだ材料の匂いがおかしかった。甘すぎた。花の匂いなんだがあの甘さは香水に使うような品質じゃない」
甘すぎる花の匂い。
夜来花だ。
「その男は今どこに?」
「知らないよ。二度目に来たときに追い返した。それきりだ。ただ港の東端の方で見かけたという話は聞いた。コルサの倉庫がある辺りだ」
カミラと目を合わせた。
グスタフは偽名を使い、この街に潜んでいる。しかもコルサ商会の近くに。
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港の東端まで歩いた。
倉庫が並ぶ区画。海に面した石造りの建物が、等間隔で建っている。コルサ商会の看板が掲げられた建物は、その中で最も大きかった。
直接は近づかなかった。通りの反対側の茶店に入り、窓際の席に座った。
カミラが紅茶を頼んでくれた。
窓越しにコルサ商会の入口を観察した。
荷の出入りがある。木箱が運び込まれ、別の荷が運び出されている。通常の貿易業務に見える。
三十分ほど見ていた。
「お嬢様。あの人」
カミラが顎で示した方向を見た。
コルサ商会の裏口から、男が出てきた。
中背。やせ型。帽子を深く被っている。
メルツ香房で会ったグスタフ・メルツとは、体格が違うように見える。だが、歩き方に覚えがあった。
左足を僅かに引きずっている。王都の南区で初めてメルツ香房を訪れたとき、グスタフは同じ癖を持っていた。カミラが「左足に古い怪我がありますね」と指摘していた。
男は帽子の下から周囲をちらりと見回し、倉庫区画の裏路地に消えた。
「追う?」
「いいえ。今は追わない」
グスタフの顔を確認できたわけではない。だが、居場所の手がかりは得た。
コルサ商会の裏口から出入りしている。つまり、まだ繋がっている。
公爵家が潰れた後も、グスタフはコルサ商会を通じて活動を続けていた。
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夕方、宿でセドリックと合流した。
互いの情報を突き合わせた。
「コルサ商会は表向き、南方産の香料と薬草の輸入業者だ。港湾局の記録では、ここ半年の取引量に不自然な増減はない。だが一点だけ引っかかった」
「何?」
「夜来花の輸入量が、この半年で三倍に増えている」
三倍。
「公爵家が潰れて、最大の顧客を失ったはずなのに需要が増えている?」
「そうだ。コルサ商会は、別の買い手を見つけたかあるいは、グスタフが自分で使っている」
「まだ作ってるってことだ。死の香を」
セドリックが頷いた。
「グスタフにとって、死の香は商品だ。公爵という顧客がいなくなっても、売り先があれば作り続ける」
新しい買い手がいる。あるいは、在庫を蓄えている。
どちらにしても、放置できない。
「セドリック。グスタフを捕まえるだけでは足りない」
「分かっている。死の香の原材料と製造設備、完成品の在庫全部押さえる必要がある」
「コルサ商会ごと」
「コルサ商会ごと」
セドリックが地図を広げた。港の倉庫区画の見取り図だ。
「踏み込むなら証拠を固めてからだ。港湾局の協力と、地方官の令状がいる。明日中に手配する」
「急いで。グスタフが動いていることに気づかれたら、逃げられる」
「分かっている。明日の夜までには整える」
カミラが夕食を運んできた。港街の魚料理だった。
白身魚のグリルと、柑橘の酢漬け。王都では見ない食材ばかりだ。
「美味しい」
「お嬢様、それ——骨に気をつけてください」
「カミラ。私、魚の骨くらい見分けられるよ」
「王都のお魚とは違います。南方の魚は骨が細くて見えにくいんです」
言われた通り、一口目で細い骨に当たった。
「……見えなかった」
カミラが何も言わずに、骨を取り除いた皿を差し出した。
セドリックが口元を隠して笑っていた。
「毒は見抜けるのに——骨は見抜けないのか」
「うるさい」
笑い声が部屋に広がった。
久しぶりだった。こうして笑うのは。
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夜、宿の窓から港を見下ろした。
月が海面に映っている。波の音が微かに聞こえた。
父が逮捕された日から、ずっと走り続けてきた。
東区の三千人。クラインフェルトの五百人。途中の集落の老人。
助けた人の顔は覚えている。名前も、症状も。カミラが記録をつけてくれたおかげだ。
だが、まだ終わっていない。
廃鉱山の浄化。グスタフの確保。死の香の完全な消滅。
父が残した毒を、全て消すまでは。
窓の外を見つめた。
月明かりの下、倉庫区画は静まり返っていた。
あの中のどこかに、グスタフがいる。
父と同じ毒を、まだ作り続けている男が。
明日には、決着をつける準備が整う。
目を閉じた。
波の音を聞きながら、眠りに落ちた。




