第64話 民の声
クラインフェルトに戻ったのは翌朝だった。
教会の療養所に入ると、空気が変わっていた。
患者の家族たちが、こちらを見ている。昨日までとは違う目で。
敵意とまでは言わない。だが、警戒。距離を置こうとする気配。
カミラが駆け寄ってきた。声をひそめた。
「お嬢様。昨夜、噂が広まりました」
「噂?」
「お嬢様がヴァレンシア公爵の娘だと」
止まった。
知られた。
宮廷薬師リゼットとだけ名乗っていた。姓は言わなかった。だが、セドリック王子が同行していること、近衛騎士がいること。調べれば分かることだ。
地方官のダンツィヒは知っていたはずだ。王都からの公文書にはリゼット・ヴァレンシアと記載されている。
誰かが、住民に話した。
「どこまで広まっている?」
「街中、です。今朝から患者さんの家族が、何人か療養所から帰ってしまいました」
「帰った? まだ治療が終わっていないのに」
「毒殺者の娘が作った薬は飲みたくないと」
胸に、冷たいものが落ちた。
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広場に出た。
街の人々が集まっていた。朝の市場の時間だが、買い物をする雰囲気ではない。
私を見て、ざわめきが起きた。
「あの子だ。公爵の娘」
「水に毒を撒いた男の」
「あの薬本当に安全なのか」
「毒殺者の血筋が作った薬なんて」
声が聞こえた。抑えた声。だが、隠す気もない声。
足が止まりそうになった。
止まらなかった。広場を横切り、教会の前に立った。
振り返った。
「皆さん。聞いてください」
声を張った。広場に響いた。
ざわめきが、少し、収まった。
「私の名前はリゼット・ヴァレンシアです。ヴァレンシア公爵の娘です」
隠しても仕方がない。ここで嘘をつけば、後で発覚したときにもっと信頼を失う。
「父がこの水を汚しました。それは事実です。否定しません」
広場の人々が、固まった顔で見ている。
「でもその毒を解毒する薬を作ったのも、私です。昨日、この療養所で十人の方に飲んでいただきました。今朝八人の方の熱が下がりました。五歳の男の子も、もう元気です」
沈黙が続いた。
「私は父の罪を背負っています。公爵の娘であることは変えられない。でも薬師として、皆さんの体を治すことはできます。毒を撒いた人間の娘だからこそその毒のことを誰よりも知っていて、解毒法を作れました」
言葉が途切れた。
次に何を言えばいいのか、分からなくなった。
広場の空気は重かった。信じてもらえている感触はなかった。
そのとき、療養所の扉が開いた。
あの五歳の男の子が、母親の手を引いて出てきた。
「おねえちゃん!」
子供が駆け寄ってきた。
昨日は寝台から動けなかった子が、走っている。頬に赤みがあり、目が生き生きとしていた。
「おねえちゃん、もう元気だよ。お薬苦かったけど」
「うん。よかった。元気になって」
母親が後ろから追いついてきた。
目に涙を浮かべていた。
「この子を助けてくださって。ありがとうございます」
母親が頭を下げた。広場の全員が見ている前で。
沈黙が、揺れた。
もう一人、療養所から老人が出てきた。昨夜、重症で寝込んでいた一人だ。
「薬師殿。俺も、だいぶ楽になった。ありがとうよ」
二人。三人。療養所の中から、昨夜薬を飲んだ患者たちが、一人、また一人と出てきた。
足取りはまだ弱い。だが、立っている。歩いている。
広場のざわめきが、変わった。
敵意が薄れ、代わりに、戸惑いが広がっていた。
毒殺者の娘が作った薬で、家族が回復している。その事実が、感情に先行する偏見と、ぶつかっている。
「公爵の娘だろうが何だろうがうちの婆さんを治してくれるなら、俺は文句ない」
声を上げたのは、市場の隅にいた中年の男だった。
「俺の女房も三日前から寝込んでる。その薬、うちにも分けてくれないか」
男の言葉が、堰を切った。
「うちの爺さんも」
「隣の家の子供が」
「薬師殿、お願いします」
声が重なった。
全員が納得したわけではない。距離を置いたまま去った人もいた。
だが、目の前で起きている回復という事実を、否定することは、難しい。
「薬は王都から追加分が届きます。明日か明後日には。届き次第、全員に配布します」
「それまでは」
「煮沸水を飲んでください。井戸水は使わない。必ず沸かしてから。それだけでリスクはかなり下がります」
人々が頷いた。市場に散っていった。
広場に、私とカミラと、五歳の男の子だけが残った。
男の子が、私の手を握っていた。
小さな手。温かい手。
「おねえちゃん。また来てくれる?」
「来るよ。薬が届いたら、また」
「約束?」
「約束」
男の子が笑った。
母親に連れられて走っていった。
カミラが隣にいた。
「お嬢様」
「うん」
「泣いてます」
「泣いてない」
泣いていた。
カミラが何も言わずにハンカチを差し出した。受け取った。
拭った。
「……カミラ」
「はい」
「公爵の娘って言われるの——やっぱり、辛いね」
「はい」
「でも逃げなくて、よかった」
「お嬢様は最初から、逃げるつもりなんてなかったでしょう」
「なかった。でも、逃げたくなった瞬間は、あった」
「それでも逃げなかったからあの子が笑ったんです」
カミラの黒い瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
いつも通りの、揺るぎのない目だ。
「ありがとう、カミラ」
「お嬢様。お昼ご飯、食べましょう。朝から何も召し上がっていないでしょう」
「……そうだった」
カミラに引っ張られるようにして、教会の裏口に向かった。
パンとチーズの簡素な昼食。それでも、美味しかった。
空腹だったからか。泣いた後だったからか。
たぶん、両方だ。




