第63話 薬師の旅
翌朝、教会の療養所を回った。
五歳の男の子が、目を開けていた。
「おねえちゃん」
「おはよう。熱、どう?」
母親が額に手を当てた。
「下がってます。昨日の夜から嘘みたいに」
子供の頬に赤みが戻っていた。目に光がある。
他の重症者も確認した。十人中八人が、明確な回復の兆候を見せていた。残り二人は改善が遅いが、悪化はしていない。
解毒薬は、効いている。
「すごい薬ですな。地元の薬師にも見せたことがあるが、こんなに早く効くものは見たことがない」
地方官のダンツィヒが感嘆した。
「薬が良いのではなく、投与が早かったんです。発症初期に飲めば回復も早い。遅れるほど難しくなる」
「王都からの追加分は」
「二日後に届きます。それまで発症者には煮沸水を飲ませてください。井戸水は使わないように徹底を」
ダンツィヒが頷き、街の役人たちに指示を飛ばした。
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クラインフェルトを出たのは昼前だった。
馬車ではなく、馬を借りた。廃鉱山への道は馬車が通れない山道だ。
セドリック、近衛騎士一名、私の三人。カミラはクラインフェルトに残した。
「カミラ。追加の薬が届いたら、配布の手伝いをお願い」
「分かりました。お嬢様、お気をつけて」
「大丈夫。すぐ戻るから」
馬に乗るのは初めてだった。カミラが鐙の踏み方を教えてくれたが、実際に走り出すと、揺れが凄まじい。
セドリックは慣れた手つきで馬を操っていた。
「馬は初めてか」
「見れば分かるでしょう」
「腰が浮いている。鐙に体重を預けろ。馬のリズムに合わせて」
言われた通りにした。少し楽になった。
山道を進んだ。森が深くなり、道幅が狭くなった。
木々の隙間から差す光が、苔むした地面に斑模様を作っている。
途中、小さな集落があった。
家が五軒ほどの、村とも呼べない集落だ。
馬を止めた。
集落の入口に、老婆が座っていた。
「すみません。ここの方で体調を崩している方はいますか」
老婆が顔を上げた。日焼けした顔に深い皺が刻まれている。
「あんたは誰だい」
「王都から来た薬師です。リゼットと言います」
「薬師? こんな山奥に?」
「近くの水が——汚れている可能性があります。それで具合が悪くなっている人がいるかもしれないと」
老婆の目が変わった。
「うちの爺さんが三日前から寝込んでるよ。熱が出て、飯も食えない」
「見せてもらえますか」
老婆に案内されて、一番奥の家に入った。
薄暗い室内。藁の寝台に、痩せた老人が横たわっていた。
脈を取った。速い。弱い。
手首に試薬布を当てた。反応あり。
クラインフェルトの患者と同じ症状だ。
持参した材料で、一人分だけ、解毒薬を作った。
白樺茸はもう手元にない。だが、代替策がある。
父の処方箋集を開いた。菌糸培養体Dへの対抗策のページ。白樺茸の項目の横に、父の手書きの注記がある。
『代替:霊芝。効果は白樺茸の六割だが、温帯林に自生するため入手が容易』
霊芝。この森に、生えているかもしれない。
「この辺りに木の幹に生えるキノコで、赤褐色の固いものありませんか」
老婆が首を傾げた。
「赤い固いキノコ? ああ。あるよ。裏の樫の木に。何に使うんだい」
「薬に使います」
老婆が裏庭に案内してくれた。
樫の古木の幹に、霊芝が生えていた。手のひらほどの大きさの、赤褐色の傘。
採取した。
小屋に戻り、霊芝を砕いて煎じた。白樺茸の代わりに配合した。
効果は六割。完全ではないが、ないよりは遥かにいい。
老人に飲ませた。
「苦いが飲みなさい。明日には楽になるはずだ」
老人が咳き込みながら飲んだ。
老婆が頭を下げた。
「ありがとうよ。あんた、若いのに、いい薬師だね」
「……ありがとうございます」
その言葉が、不思議と、胸に沁みた。
王宮では「八歳の天才」「異例の任命」と評された。だが、ここでは、ただの「いい薬師」だ。
それで、いい。それが、いい。
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集落を出て、さらに山道を進んだ。
午後の光が傾き始めた頃、道の先に、古い坑道の入口が見えた。
木枠で支えられた穴が、山の斜面に口を開けている。周囲には石積みの跡と、朽ちた小屋の残骸。
廃鉱山だ。
馬を下りた。
坑道の入口から、水が流れ出していた。
細い流れ。岩の隙間から滲み出すように、透明な水が地表に出てきている。
その水が、下の谷を流れる小川に合流し、クラインフェルトの方向に流れていく。
水を汲んだ。試薬を落とした。
濃い緑色。
王都の上水路で検出した反応より、はるかに濃い。
「ここだ。汚染源」
セドリックが坑道の入口を覗き込んだ。
「中に入れるか」
「木枠が朽ちている。崩落の危険がある」
「入口付近だけ確認する。中に何が溜まっているか」
松明を灯して、坑道の中に数歩入った。
天井が低い。かがんで進む。
壁が湿っている。水が壁面を伝って流れている。
匂いがした。
甘い匂い。夜来花の残留した匂い。そして、菌糸の匂い。湿った、土の匂い。
この坑道の中で、父の毒が、地下水に溶け込んで蓄積している。
坑道そのものが、巨大な「毒の貯水槽」になっている。
地下水脈が坑道を通過するたびに、蓄積された毒を少しずつ溶かし出し、地表の川に排出する。
だから、時間差で、離れた街にまで汚染が広がった。
「セドリック。この坑道の水を浄化しなければ汚染は止まらない」
「どうやって」
「解毒剤を大量に、坑道の水源に投入する。坑道内部の蓄積された毒を中和して、流出する水を無害化する」
「量は」
「……計算が必要だ。坑道の規模と、蓄積されている毒の濃度から算出する」
坑道を出た。
山の斜面に座り、日没の光を浴びながら、計算を始めた。
坑道の推定容積。水の流量。毒の濃度。解毒剤の中和効率。
紙に数字を書き殴った。
結果が出た。
「解毒剤、二千リットル」
「二千リットル」
セドリックが繰り返した。声に驚きが混じっていた。
「二千リットルの解毒剤を、坑道の最深部に投入する必要がある。一度に全量を流し込めれば、坑道内の毒を完全に中和できる」
「材料は」
「牛乳薊と甘草と活性炭は大量に必要。霊芝か白樺茸も。王都の在庫だけでは足りない。全国の薬師組合に協力を要請する規模になる」
セドリックが黙った。
夕日が山の稜線に沈んでいく。空が赤く燃えている。
「やるしかないな」
「やるしかない」
「帰ったら母上に話す。王妃の名で、全国規模の薬務令を出す」
「前回の東区のときより、もっと大きな規模になる」
「ああ。だが前回できたことは、もう一度できる。規模が大きいだけだ」
セドリックの声には迷いがなかった。
帰路は暗くなった山道を、松明を頼りに馬で下った。
クラインフェルトの灯りが、谷の向こうに小さく見えた。
あの街の人たちが待っている。
この山道の途中の集落の老人が待っている。
ヴァイデンの村の人々が待っている。
まだ症状が出ていない、だが、いずれ出るかもしれない人たちが。
全員を、救う。
父の最後の毒を、完全に消す。
それが、「毒花」が咲かせる、最後の花だ。




