第61話 水脈の警鐘
公爵家の解体から二ヶ月が過ぎた。
秋が深まり、薬草園の木々が色づき始めていた。牛乳薊は花期を終え、種子をつけている。来年の春にはまた白い花を咲かせるだろう。
宮廷薬師としての日々は穏やかだった。
王妃への薬草茶は継続していた。体調は安定しているが、長年の死の香の蓄積が完全に抜けるまでには時間がかかる。
ランベルト先生との共同研究。父の処方箋集の解読作業。一ページずつ、毒の成分を分析し、対応する解毒法を考案していく。
地味な作業だった。派手な事件はもう起きない。そう思っていた。
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異変の報せが届いたのは、十月の半ばだった。
セドリックが薬草園の小屋に来た。顔が険しかった。
「南部のクラインフェルトという街から、緊急の報告が入った」
「クラインフェルト……。王都から馬で三日ほどの街ですか」
「ああ。人口八千ほどの地方都市だ。そこで原因不明の集団発熱が起きている」
紙を渡された。地方官からの報告書だった。
『十月十日より、住民の間に高熱、倦怠感、食欲不振を訴える者が続出。現時点で二百名以上が発症。死者は出ていないが、症状は日を追って悪化している。地元の薬師では原因の特定も治療もできず、王都への支援を要請する』
報告書を読み終えて、手が止まった。
高熱。倦怠感。食欲不振。
東区の疫病の前駆症状と、同じだ。
「セドリック。この症状」
「俺も気づいた。お前の父親が流した疫病と、同じ症状だ」
「でも東区の汚染は解決した。三千人全員が治癒したはずです」
「王都の上水路は浄化した。だが地下水脈は、上水路だけで完結していない」
地下水脈。
考えた。
父が毒を流したのは、屋敷の地下研究室の排水溝だ。排水溝は王都の上水路に繋がっていた。だから東区の住民が影響を受けた。
だが、地下水脈は、地上の上水路よりもはるかに広い。
地下深くを流れる水脈は、王都の下を通り、さらに南へと流れている。
父が流した毒が、深層の水脈にも浸透していた場合。
毒は地表の上水路だけでなく、地下深くの帯水層を伝って、南へ、ゆっくりと広がっている可能性がある。
二ヶ月かけて。百キロ以上の距離を。
「水脈の地図はありますか」
「水利局に確認する。だが地下深層の水脈は、正確な地図が存在しないかもしれない」
「作る必要がある。汚染がどこまで広がっているか、水脈の流れに沿って予測しないと」
セドリックが頷いた。
「水利局に話をつける。お前は」
「解毒薬の追加生産の準備を始めます。東区のときと同じ処方で対応できるはずですが、規模が」
「三千人では済まない可能性がある」
「はい。水脈の流れ次第では万単位の住民が影響を受けるかもしれない」
声に出して言って、自分でも血の気が引いた。
万単位。
東区の十倍。百倍。
「材料は足りるか」
「牛乳薊と甘草と活性炭は王都の在庫で対応できる。水蛭草も、前回の残りがある。問題は」
「白樺茸」
「はい。北方からの輸入に頼っている。大量に必要になった場合前回のように騎士を走らせるだけでは間に合わない」
「エレノアの修道院で栽培を始めていたはずだ」
「始めたばかりです。収穫できる量はまだ少ない」
沈黙が落ちた。
薬草園の木々が風に揺れている。赤い葉が一枚、窓から小屋の中に入ってきた。
「まず、現地を見る必要がある」
「クラインフェルトに行くのか」
「行きます。発症者の症状を直接確認して、東区の疫病と同一のものか判定する。それから現地の水源を調べて、汚染の経路を追う」
「一人で?」
「カミラを連れていきます」
「俺も行く」
「殿下が王都を離れるのは」
「殿下はやめろと言っただろう。母上には話をつける。王子の地方視察という名目なら、問題ない」
セドリックの暗い紫の瞳が、こちらを見ていた。
反対する理由はなかった。セドリックが一緒なら、現地の地方官との交渉がスムーズになる。王子の権限で、必要な物資や人員を調達できる。
「……ありがとう。助かる」
「礼は」
「要らない。知ってる」
セドリックが口元を僅かに緩めた。
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出発の準備は翌日から始めた。
薬草庫から解毒薬の材料を詰めた。携帯用の調合キット。蒸留器の小型版。薬草辞典。
父の処方箋集も持っていく。汚染の成分が変質している可能性がある。現地で分析が必要になるかもしれない。
カミラが荷物を整えてくれた。
「お嬢様。旅の準備はあまり経験がないのですが」
「私もないよ。王都を出るの初めてだし」
「え、初めてなんですか?」
「屋敷と王宮の往復しかしたことない。今世では」
「今世では?」
「何でもない。荷物、これで足りるかな」
カミラが首を傾げたが、深く追及しなかった。
王妃にも報告した。
「地方で疫病が広がっている可能性があります。直接確認に行かせてください」
「行きなさい。宮廷薬師の権限と、王妃の名で。必要なものがあれば何でも使いなさい」
「ありがとうございます」
「リゼット」
「はい」
「気をつけて。あなたの体も、大事にしなさい。自分を犠牲にしすぎないで」
王妃の目が、母親の目だった。
「はい」
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翌朝、王都の南門を出た。
馬車一台。護衛の近衛騎士二名。セドリック。カミラ。私。
馬車の窓から、王都の城壁が遠ざかっていくのを見た。
初めて見る景色だった。
前世のリゼットも、王都の外に出たことはほとんどなかった。公爵家の令嬢は、屋敷と社交界を往復するだけの生活だった。
街道沿いの畑。農民たちの小屋。遠くに見える丘陵。紅葉した森。
広い世界だった。
この世界の、どこまで、父の毒が広がっているのか。
カミラが隣で居眠りを始めた。
セドリックは向かいの席で、水脈の古い地図を広げて読んでいた。
「リゼット」
「何」
「クラインフェルトまで三日。道中で他の街でも同じ症状が出ていないか確認する」
「うん。街道沿いの村に立ち寄りながら行きましょう」
「計画的だな」
「計画しないと不安だから」
「不安か。お前が不安を口にするのは珍しいな」
「王都の中では、やることが見えていた。でも外に出たら、何が起きるか分からない。知らない土地で、知らない人たちが苦しんでいる」
「それでも行くんだろう」
「行く。薬師だから」
セドリックが地図から目を上げた。暗い紫の瞳が、穏やかだった。
「お前は強いな」
「強くない。怖い。でも怖くても行くのが、薬師だと思う」
馬車が揺れた。街道の石畳が途切れ、土の道に変わった。
王都の外の世界が、広がっていた。




