第60話 灰の上の花
公爵家が消えた。
爵位は剥奪され、領地は接収され、屋敷は国有化された。
「リゼット・ヴァレンシア」という名前の「ヴァレンシア」はもう、公爵家の名ではない。ただの姓だ。
カミラと二人で、王宮の小さな官舎に住むことになった。宮廷薬師としての居室。狭いが、清潔で、窓から薬草園が見える。
荷物は少なかった。屋敷から持ち出せたものは、衣服と薬草辞典と、父から渡された毒の処方箋集だけだ。
引っ越しの日、カミラが紅茶を淹れてくれた。
「新しいお部屋ですね、お嬢様」
「うん。狭いけど」
「前のお部屋も広すぎましたから。このくらいが、ちょうどいいです」
カミラの笑顔は、いつも通りだった。
場所が変わっても、カミラが淹れる紅茶の味は変わらない。
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ジークフリートから手紙が届いた。
『リゼット。
婚約の件について、正式に通知する。
ヴァレンシア公爵家の解体に伴い、政治的な婚約の根拠が消失した。よって、本婚約を解消する。
ただし、宮廷薬師リゼットに対しては、王子として敬意を表する。いつか、対等な立場で会える日を楽しみにしている。
ジークフリート・アルシェーヌ』
婚約解消。
予想通りだった。公爵家がなくなった以上、政治的な婚約を維持する理由がない。
「対等な立場で」。この一文にジークフリートなりの誠意が滲んでいた。
ふと、彼が去り際に浮かべたあの引きつった笑みを思い出した。
もし前世の私が、何もできずに処刑されるだけの存在だったなら。彼もまた、宰相の力に抗うすべを持たないただの無力な王子だったなら。
処刑台でのあの笑みは、私を嘲っていたのではなく、運命に抗えなかった己への冷笑だったのだろう。
もう、あの笑みを思い返しても恐怖は湧かなかった。ただ一人の人間としての哀れみと、かすかな同情があるだけだ。
紙を折り畳んだ。
本当に自由になった、のかもしれない。
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ユーリが王立学院から手紙を送ってきた。
『お姉ちゃんへ
学院は楽しいです。友達ができました。名前はフェリクスといいます。一緒に虫を捕まえました。
お父様のことは聞きました。悲しいけど、お姉ちゃんが正しかったと思います。
今度、お姉ちゃんに会いに行っていいですか。薬草園を見たいです。
ユーリより』
泣いた。
カミラに見られないように、窓際で手紙を読んで、静かに泣いた。
この子は、大丈夫だ。
友達がいる。虫を捕まえている。普通の六歳の男の子の生活をしている。
それが、一番嬉しい。
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エレノアが訪ねてきた。
聖女の称号は返上されたが、教会は、エレノアを追放しなかった。
「告白した勇気を認める」という声が教会内部にもあったらしい。エレノアは修道女として、教会に残ることが許された。
「リゼット」
「エレノア。久しぶり」
「新しいお部屋、素敵ね」
「狭いけどね」
「私の修道室はもっと狭いわよ」
エレノアが笑った。以前のような完璧な微笑みではない。少し崩れた、不格好な笑みだ。でも、それが良い。
「ねえ。聞いていい?」
「何」
「リゼットはこれから、どうするの?」
「薬師を続ける。宮廷薬師として。それから父の処方箋集を解読して、全ての毒に対する解毒法をまとめたい」
「すごい。でも、それって、すごく時間がかかるんじゃない?」
「たぶん。何年もかかる」
「一人で?」
「一人じゃない。ランベルト先生がいるし、薬師組合の人たちも協力してくれる。あと、カミラがいる」
「セドリック殿下は?」
「……いる。たぶん」
「たぶん、じゃないでしょう」
エレノアの碧い瞳が、いたずらっぽく光った。
「何の話」
「何でもない。リゼット。私も、手伝いたい」
「手伝う?」
「薬のこと。私薬師の知識は全然ないけど、修道院には薬草を育てる畑がある。育てることなら手伝える」
「ありがたい。白樺茸も、栽培できるか試してみたいんだけど」
「やってみる。失敗するかもしれないけど」
「失敗してもいい。そこから学べばいいから」
エレノアが頷いた。
帰り際、扉の前で振り返った。
「リゼット」
「何」
「ありがとう。仮面を外してくれて」
「外したのはエレノア自身だよ」
「でも外す勇気をくれたのは、あなた」
エレノアが微笑んだ。本物の笑みだった。
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夕方、薬草園に出た。
旧ヴァレンシア家の薬草園は、王宮に移管されて、新しい管理者のもとで手入れが続けられていた。
牛乳薊の白い花が咲いている。甘草の葉が風に揺れている。
ベンチに座った。
考えた。
公爵家はなくなった。父は獄中にいる。婚約は解消された。屋敷も爵位もない。
何も、持っていない。
いや。
持っている。
薬師の知識。解毒の技術。宮廷薬師の称号。
セドリック。エレノア。カミラ。ユーリ。マリアンヌ。エリーゼ。ソフィア。フローリア。ランベルト先生。王妃。
味方がいる。友がいる。守りたい人がいる。
それだけあれば、十分だ。
父の処方箋集を膝の上に置いた。
分厚い革装丁の本。ヴァレンシア家三十代の毒の知識が詰まっている。
この本を、薬に変える。全ての毒を、全ての解毒法に変換する。
何年かかるか分からない。十年かもしれない。二十年かもしれない。
でも、やる。
毒花令嬢は、二度目の人生で復讐を選ばなかった。
代わりに、薬を選んだ。
日が沈みかけていた。薬草園に夕暮れの光が差し込んでいる。
牛乳薊の白い花が、橙色の光に染まっていた。
灰の上に、花が咲いている。
公爵家という灰の上に。毒の歴史という灰の上に。
カミラが官舎の窓から顔を出した。
「お嬢様。夕食の準備ができましたよ」
「行く。今日は何?」
「パンとスープです。あと紅茶」
「甘くして」
「もちろんです」
立ち上がった。処方箋集を抱えて、官舎に向かった。
夕暮れの空が、赤く燃えていた。
明日も、薬を作ろう。
明後日も。その先も。
毒花が、薬の花に変わる日まで。




