第56話 父の逃走
解毒薬の配布が軌道に乗り始めた二十日目。
予想していなかった報告が入った。
「ヴァレンシア公爵が脱獄した」
セドリックの声は平坦だったが、目が鋭くなっていた。
「脱獄?」
「昨夜。地下牢の壁に穴を開けて、下水道経由で逃亡した。夜明けの巡回で発覚した」
「壁に穴?」
「酸だ。何らかの腐食剤で石壁を溶かした。腐食剤は」
「父が自分で作った」
セドリックが頷いた。
「拘束時に身体検査は行った。だが爪の間、歯の裏、衣服の縫い目。ヴァレンシア公爵は、人間が隠し持てる限界の場所に薬品を仕込んでいた」
父らしかった。
毒と薬の知識。それは、逃走にも使える。
「逃走先は」
「下水道から王都の外に出た痕跡がある。南門の外で足跡が途絶えた。馬を用意していた可能性がある」
「南方」
「グスタフ・メルツと同じ方角だ。合流するつもりかもしれない」
考えた。
父は逃げた。「逃げない」と言っていたのに、逃げた。
いや。違う。
父が「逃げない」と言ったのは、強制捜査の前夜だ。あのとき、父は娘に最後の試験を課し、地下室を開放し、疫病を流した。
やるべきことを全て終えた後に、拘束された。
だが、疫病の解毒法が見つかった。三千人が救われようとしている。
父にとって、「最後の贈り物」が無効化されたことは、屈辱だっただろう。
逃げた理由は、屈辱からではない。
まだ、やり残したことがあるのだ。
「セドリック。父はどこに行くと思う?」
「分からない。だがお前は何か心当たりがあるんじゃないか」
「ある」
「どこだ」
「屋敷」
「屋敷は封鎖されている」
「だから行く。封鎖された屋敷に。あの屋敷には父が最後に確認したいものがある」
「何だ」
「地下研究室の奥にもう一つ、部屋がある。私が見つけたとき鍵のかかった扉があった。開けなかった。開ける時間がなかった」
「その部屋に何が」
「分からない。だけど——父があれだけ几帳面に記録を残す人間なら、最も重要なものは最も深い場所に隠す」
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騎士団に先行して、屋敷に向かった。
セドリックが止めた。
「一人で行くな」
「一人じゃない。カミラがいる」
「カミラは戦えないだろう」
「戦う必要はない。父は私を殺さない」
「なぜ断言できる」
「殺すなら昨夜の毒の茶で殺していた。あのとき殺さなかったということは私を殺す気がない」
セドリックの暗い紫の瞳が揺れた。
「……三十分だ。三十分以内に俺と騎士団が到着する。それまでに何かあれば逃げろ。約束しろ」
「約束する」
「嘘は下手だと言ったはずだが」
「今回は本当」
セドリックが歩き出した。振り返らなかった。
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屋敷に着いた。
門は封鎖されていたが、薬草園側の裏口は、まだ開いていた。
蔦に覆われた小さな扉。地下への入口。
扉が、開いていた。
誰かが、先に入っている。
カミラの手を握った。
「ここで待ってて」
「お嬢様」
「お願い。もし私が十五分で出てこなかったらセドリック殿下に伝えて」
「でも」
「カミラ。信じて」
カミラが、手を放した。
「……十五分です。一秒でも遅れたら私、入りますから」
「分かった」
地下への階段を降りた。
蝋燭は持たなかった。代わりに、父が残していった松明の火が、通路の壁に見えた。
誰かが、先に松明を灯して進んでいる。
足音を殺して歩いた。
第七研究室を通り抜けた。棚は空だ。近衛騎士団が全てを押収した。
奥の拘束施設を通り過ぎた。寝台は撤去されていた。
そして、その奥に。
鍵のかかった扉。
扉が、開いていた。
中から光が漏れている。
足を踏み入れた。




