第54話 フローリアの涙
フローリアが宰相家の文献を持ってきたのは、翌日だった。
三冊の書物。古びた革装丁の本。
「父の書斎の奥にあった。南方植物誌、菌糸学要覧、それとこれ」
三冊目は、手書きのノートだった。表紙に「H. ヘルムガルト 私的研究記録」と書かれている。
「お父様の研究ノート?」
「父が若い頃に書いたものらしい。植物学を専攻していたのよ。政治家になる前は」
宰相が植物学者だった。父が夜来花の話を食卓で振ったとき、「植物に興味がある」と言っていた。あれは嘘ではなかったのだ。
ノートを開いた。
びっしりと書き込まれた文字。植物のスケッチ。化学反応の式。
ページをめくっていくと、ある項目で手が止まった。
「菌糸培養体の免疫抑制メカニズムに関する覚書」
免疫抑制。父の疫病の第四段階、免疫系の抑制に、直接関連する内容だ。
読んだ。
宰相の若き日の研究。菌糸培養体が免疫系に作用する仕組みを、詳細に分析していた。
そして、その対策として、ある植物の名前が書かれていた。
「白樺茸。北方森林帯に自生する樹木寄生菌。免疫活性化作用が極めて高く、菌糸培養体Dの免疫抑制効果を相殺する可能性がある」
白樺茸。聞いたことはあるが、使ったことはない。北方の民間薬として知られている。
「フローリア。この白樺茸入手できる?」
「分からない。北方の産物だから王都にはあまり流通していないと思う」
「薬草庫にあるかもしれない。確認する」
走った。王宮の薬草庫まで。
ランベルトがいた。
「白樺茸。あるかありますか」
「あるぞ。乾燥品が。北方の商人から仕入れたものだ。需要が少ないから棚の奥に眠っているが」
あった。
---
白樺茸を手に入れ、薬草園の小屋に戻った。
処方を組み直した。
菌糸培養体A(肝臓毒性):牛乳薊
菌糸培養体B(腎臓影響):甘草
菌糸培養体C(血液凝固):水蛭草
菌糸培養体D(免疫抑制):白樺茸
菌糸培養体E(神経作用):活性炭による吸着
五つの成分を一つの処方に組み合わせた。
配合比を決めるのに二日かかった。
白樺茸の免疫活性化作用が強すぎると、炎症反応が暴走する。弱すぎると、菌糸培養体Dの抑制効果を打ち消せない。
最適な配合比は、白樺茸の煎じ液を全体の八分の一。
実験した。
父の処方箋に基づいて、疫病の擬似サンプルを作った。全ての菌糸培養体を揃えることはできないが、個別の成分については代替物で近似できる。
擬似サンプルに、複合解毒薬を加えた。
反応を観察した。
菌糸培養体Aの活性、低下。牛乳薊が効いている。
菌糸培養体Bの活性、低下。甘草が効いている。
菌糸培養体Cの凝固作用、中和。水蛭草が効いている。
菌糸培養体Dの免疫抑制、打ち消し。白樺茸が効いている。
菌糸培養体Eの神経毒性、吸着除去。活性炭が効いている。
五つ全てが、一つの処方で対処できている。
手が震えた。
今度は、成功の震えだった。
---
セドリックに報告した。
「解毒法が見つかった。複合処方だ。五つの成分で、五つの毒に対応する」
「確実か」
「擬似サンプルでの実験では有効。だが人体での効果は、実際に投与してみないと分からない」
「東区の住民で初期症状が出ている者がいる。志願者を募れるか」
「募るのではなくまず、発症者全員に配布すべきだと思います。三千人分の薬を作るのに時間がかかる」
「三千人分...」
セドリックの顔に、初めて動揺が走った。
「材料は足りるのか」
「牛乳薊と甘草と活性炭は十分。水蛭草はランベルト先生の在庫で何とかなる。問題は白樺茸。在庫が少ない」
「北方から取り寄せる」
「間に合うか」
「間に合わせる。騎士を走らせる。王家の名で」
セドリックが動いた。
北方への緊急使者。白樺茸の大量確保。
同時に、王宮の薬草庫で、解毒薬の大量調合が始まった。
ランベルトが指揮を取った。私が処方を教え、ランベルトの弟子たちが調合を分担する。
「こんな大規模な調剤は四十年やっていて初めてだ」
ランベルトが呟いた。
「三千人分を二十日で作る。一日百五十人分。弟子五人で分担すれば一人一日三十人分。ぎりぎりだが——やれる」
「お願いします」
---
その夜、薬草園の小屋で、一人になった。
カミラは王宮の宿舎で眠っている。屋敷には戻れない。公爵家は封鎖されているからだ。
小屋の中で、蝋燭の光を見つめた。
フローリアの涙を思い出した。
「これからどうしたらいいか、分からない」
フローリアの言葉。あの子は、父を失った。宰相の娘としての立場を失った。
私も、父を失った。公爵家の令嬢としての立場を失った。
でも、私にはやるべきことがある。三千人の命を守ること。解毒薬を作ること。
やるべきことがある限り、立っていられる。
フローリアにも、やるべきことを見つけてあげたかった。文献を届けてくれたこと。あれが、フローリアの最初の一歩だ。
紙片に書いた。
——解毒法確立。複合処方:牛乳薊+甘草+水蛭草+白樺茸+活性炭。
——三千人分の大量調合を開始。期限は二十日。
——白樺茸の追加在庫を北方から取り寄せ中。
——フローリアの提供した宰相の研究ノートが決定的な手がかりになった。
——残り二十三日。間に合う。間に合わせる。
蝋燭を消した。
暗闇の中で、薬草の匂いに包まれて眠った。
牛乳薊の苦い匂い。甘草の甘い匂い。白樺茸の土の匂い。
全部が、命を救う匂いだ。




