第50話 毒の晩餐
眠れなかった。
寝台の中で、天井を見つめていた。
父の言葉が、頭の中で繰り返されている。
「お前は私が作った最高傑作だ」
傑作。道具としての完成形。
違う。私は道具ではない。薬師だ。人を救う薬師だ。
だが、父の言葉を完全に否定できない自分がいる。
私の薬学知識は、父の「教育」から始まった。毒を飲まされ、耐性を鍛えられ、毒の性質を叩き込まれた。その知識を反転させて薬に変えたのは私の意志だが、出発点は、父が作った。
父なしに、今の私はいなかった。
その事実が、重い。
カミラが隣の寝台で静かに寝息を立てている。
起き上がって、窓を開けた。
夜明け前の空。東の空が、薄く白み始めている。
あと数時間で、近衛騎士団が来る。
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朝日が屋敷の屋根を照らし始めた頃、門の外に、馬蹄の音が聞こえた。
多くの馬。十頭以上。
窓から見下ろした。
近衛騎士団の軍旗。白と金の紋章。
先頭に、ヴェルナー騎士団長が馬上にいた。横にセドリックが馬に乗っている。
門番が慌てた声を上げている。
「ヴァレンシア公爵家に対し、王妃陛下の勅命による強制捜査を執行する。門を開けよ」
ヴェルナーの声が、朝の空気を切り裂いた。
門が、開かれた。
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私は階段を降り、玄関ホールに出た。
近衛騎士たちが屋敷に入ってきた。甲冑の金属音が石の床に響く。
ヴェルナーが私を見た。
「リゼット・ヴァレンシア嬢。案内を頼む」
「はい。地下への入口は、二箇所あります。書斎の書棚の裏と、薬草園の東端。どちらから入りますか」
「両方だ。部隊を二手に分ける」
セドリックが馬から降りて近づいてきた。
「父上はどこだ」
「お父様は」
書斎の方に目を向けた。
書斎の扉が、内側から開いた。
父が、出てきた。
黒いコート。銀の髪。紫水晶の瞳。
姿勢がよく、顔色も悪くなかった。昨夜と同じ、穏やかな表情だ。
追い詰められた男の顔ではなかった。
「ヴェルナー騎士団長。お待ちしていた」
「ヴァレンシア公爵。王妃陛下の勅命により、本邸宅および関連施設への強制捜査を執行します」
「ご苦労なことだ。だが、案内は不要だ。私が自ら開放する」
父が、書斎に戻り、書棚の一冊を引いた。
棚が、動いた。
書棚の一角が手前にスライドし、その奥に、下り階段が現れた。
暗い、石の階段。地下への道。
「見たいものは下にある。全てだ」
父が階段の入口に立ち、振り返った。
近衛騎士たちを見た。セドリックを見た。
そして、私を見た。
紫水晶の瞳が、朝日の中で光っていた。
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地下に降りた。
近衛騎士が先行し、松明を灯した。
私が案内した通路とは別のルートだった。書斎からの階段は広く、造りがしっかりしている。こちらが正規の出入口だ。
階段を降りきると、広い空間に出た。
私が見た「第七研究室」だ。
だが、昨夜とは様子が違っていた。
棚の薬瓶が、全て、蓋が開いていた。
中身が、空だ。
「公爵。薬品が処分されている」
ヴェルナーの声に警戒が混じった。
「処分はしていない。使った」
父の声が、地下室に響いた。
使った?
何に。
「昨夜、地下の水路に流した。全ての薬品を」
地下の水路。
この地下室の床に走っている排水溝。あの水は、どこに繋がっている。
「公爵。その水路はどこに流れている」
ヴェルナーの問いに、父は答えなかった。
代わりに、私を見た。
「リゼット。お前なら分かるだろう」
考えた。
屋敷の立地。王都の東区。東区の地下水脈は、
「王都の上水路に繋がっている」
声が掠れた。
王都の上水路。市民の飲料水を供給する地下水脈。
父は、毒を、上水路に流した。
「何を流したのですか。お父様」
「死の香ではない。もっと遅効性のものだ」
父が微笑んだ。
「ヴァレンシア家の、最後の贈り物だ。お前が阻止できるかどうかは、お前の腕次第だ」
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空気が凍った。
ヴェルナーが剣に手をかけた。
「公爵。何を流した。即座に答えろ」
「答える義理はない。だが、娘には教えてやろう」
父が書斎の机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
「処方箋だ。俺が三十年かけて完成させた、遅効性の経口感染毒。水に溶ければ無色無臭。潜伏期間は三十日。発症すれば高熱、出血、臓器不全。致死率は処置しなければ七割」
紙を受け取った。
手が震えていた。
処方箋を読んだ。複雑な調合だ。夜来花の抽出物に、五種類の菌糸培養体を混合し、特定の温度条件で熟成させた生物毒。
これは、毒ではなく、疫病だ。
人工的に作られた疫病。
「三十日の猶予がある。解毒法を見つけるか、見つけられないかは、お前の腕次第だ」
父が、両手を上げた。
降伏の姿勢。
「俺は抵抗しない。好きにしろ」
ヴェルナーが近衛騎士に合図した。
二人の騎士が父の両腕を掴み、後ろ手に拘束した。
父は、抵抗しなかった。
紫水晶の瞳が、最後まで私を見ていた。
「リゼット。見事になれ」
それが、父の、最後の言葉だった。
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父が連行された後、地下室に残った。
セドリックが隣に立っていた。
「聞いたか」
「聞いた」
「三十日」
「三十日ある。三十日しかない、とも言える」
処方箋を握り締めた。
紙が、汗で湿っていた。
「セドリック。上水路の汚染範囲を確認して。どこまで流れたか。汚染された水を飲んだ人がいるかどうか」
「分かった。ヴェルナーに水利局への連絡を頼む」
「私は解毒法を探す。処方箋がある。毒の成分が分かれば対抗策を作れる。作れるはずだ」
「リゼット」
「何」
「震えてる」
手を見た。確かに、震えていた。
「止める。薬師の手は、震えてはいけないから」
震えを、止めた。
地下室の薄暗い空気の中で、処方箋を開いた。
父の字。几帳面な、癖のない文字。
三十年かけて完成させた疫病の処方箋。
父の最後の「教育」だ。
解毒法を見つけろ。国民を救え。お前が本当に薬師なら。
「……受けて立つ」
声に出した。
父への返事であり、自分への宣言だった。




