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毒花令嬢は二度目の人生で復讐を選ばない  作者: 黒豆子犬
3章 公爵家の闇

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第49話 父の手紙

屋敷に戻ると、食卓に手紙が置いてあった。


父の筆跡だった。


封蝋はなく、二つ折りの便箋が、ナプキンの下に無造作に挟んであった。


『リゼット


今夜、書斎で食事をする。来なさい。


ヴィクトル』


三行。


短い手紙だ。命令口調ですらない。穏やかな文面。


それが、逆に重かった。


カミラが背後から覗き込んだ。


「お嬢様——」


「読んだ」


「行くのですか」


「行かない選択肢は、ない」


明日の朝、強制捜査が入る。近衛騎士団が屋敷に踏み込む。


父は、知っているのかもしれない。エレノアの告白が宮廷中に広まった。ケッテラーの供述も、メルツ香房の押収も。全てが公爵家に向かっていることを。


追い詰められた父が、最後の晩餐に娘を招いている。


罠かもしれない。


だが、行かなければ、父は逆に警戒を強める。明朝の捜査に支障が出る可能性がある。


「カミラ。今夜——私が書斎から一時間以内に出てこなかったら、王宮に走って。セドリック殿下に伝えて」


「一時間」


「一時間あれば、話は終わる。終わらなかったら、何かが起きている」


カミラが頷いた。顔は蒼白だったが、目は揺れていなかった。


---


解毒薬の準備をした。


小瓶三本。牛乳薊、薬炭、甘草。いつものセット。


それに加えて、もう一本。


汎用的な嘔吐剤。吐根草の抽出液を濃縮したもの。万が一、未知の毒を飲まされた場合に、胃の内容物を全て吐き出すための最終手段。


四本の小瓶を、ドレスの内ポケットに忍ばせた。


鏡で自分を見た。


紫水晶の瞳が映っている。父と同じ色の瞳。


「……行ってくる」


鏡の中の自分に言った。


---


書斎の扉を開けた。


部屋の中は、予想外の光景だった。


書斎の机が片付けられ、白い布が敷かれていた。その上に、銀の皿と杯が二組。蝋燭が二本、柔らかい光を灯している。


父が、椅子に座っていた。


いつもの黒いコート。銀の髪を撫でつけ、姿勢よく腰掛けている。


「座りなさい」


机の向かいの椅子を示された。


座った。


机の上の料理は質素だった。パンとチーズ、干し肉、葡萄。そして、ティーポットが一つ。


「お茶を淹れた。私が直接」


父が、自分でティーポットから杯に茶を注いだ。二つの杯。一つを私の前に、もう一つを自分の前に。


匂いを嗅いだ。


茶の匂い。ハーブティーだ。カモミールをベースにした、そこに、微かな甘さ。


夜来花の甘さではない。蜂蜜の甘さだ。


匂いだけでは、毒の有無は判断できない。死の香以外にも、無臭の毒は存在する。


「飲まないのか」


「……いただきます」


杯を手に取った。だが、まだ口をつけなかった。


父が自分の杯を持ち上げ、一口飲んだ。


「お前の番だ」


「お父様。率直に聞きます。この茶に、何か入っていますか」


父の紫水晶の瞳が、蝋燭の光を映してゆらめいた。


「入っている」


「何が」


「お前なら、分かるだろう」


父が微笑んだ。


冷たい微笑みではなかった。不思議なことに、穏やかな微笑みだった。


「お前を試している。最後の試験だ。毒を見抜き、解毒し、私の前で飲んで見せろ。お前が本当に私を超える薬師になったのかを」


最後の試験。


父は、最後まで、教師のつもりなのだ。


娘を毒で育て、毒で試し、毒で送り出す。歪んだ、だが、父なりの一貫性がある。


杯の中の茶を見た。


薄い琥珀色。カモミールの色。蜂蜜の甘い匂い。


もう一度、鼻を近づけた。


カモミールと蜂蜜の下に、もう一層、匂いがある。


極めて微かな。ほとんど検出できない。


金属の匂い。鉄と、銅の中間のような。


砒素だ。


微量の砒素が溶かされている。致死量ではない。だが、反復投与を前提とした量だ。


父が長年、使用人やユーリに使っていた手口と同じ。少量を繰り返し飲ませて、耐性を測る。


「砒素ですね。微量の」


父の眉が、僅かに上がった。


「匂いで分かったか」


「はい」


「いつから、匂いで毒を判別できるようになった」


「薬草園で働き始めた頃からです。毎日、何百種類もの植物と薬品の匂いを嗅いでいれば、鼻が鍛えられます」


「……そうか」


父が杯を置いた。


「解毒できるか」


「できます」


ドレスの内ポケットから小瓶を取り出した。柳の枝を焼き、薬草の灰と合わせて何度も晒した薬炭の粉末。


杯の茶に、ひとつまみの炭を落とした。軽くかき混ぜた。


薬炭は毒を抱き込み、茶の底へ沈める。これだけで砒素が消えるわけではない。だが、舌に触れる毒の量を薄め、体に入る毒を鈍らせることはできる。


沈んだ黒い粉が杯の底に溜まるのを待った。三十秒。


杯を持ち上げ、飲んだ。


カモミールと蜂蜜の味。薬炭のざらつきが僅かに残る。金属の味も、完全には消えていない。


だが、牛乳薊は先に飲んである。甘草も舌の下で溶かしてある。


この程度なら、耐えられる。


杯を空にして、父の前に置いた。


「いただきました」


父が、目を閉じた。


長い沈黙があった。


蝋燭の光が揺れ、書斎の壁に影を落としている。


「見事だ」


父の声は、静かだった。


怒りも、失望も、混じっていなかった。


認めた、のかもしれない。


「リゼット。お前は、私が作った最高傑作だ」


「傑作」


「毒を操り、毒を見抜き、毒を無効化する。私がお前に与えた教育の全てが完成した」


「お父様。私はあなたの作品ではありません」


「そうだな。もう、道具でもない」


父が目を開けた。


紫水晶の瞳。同じ色の瞳が、向かい合っている。


「明日何が来るか、知っている」


「……知っているのですか」


「近衛騎士団だろう。強制捜査。地下の研究室もお前が見たことは分かっている」


「見張りの使用人が報告した?」


「いや。お前の靴に、地下の土がついていた。あの土は地上にはない種類の粘土だ」


靴の土。気づかなかった。


父は、最後まで、観察者だった。


「止めないのですか」


「止めてどうする。お前を殺すか。逃げるか」


父が立ち上がった。窓に歩いた。


「俺は逃げない。ヴァレンシア公爵は逃げない」


「では」


「明日、来い。連中を連れて。地下も全部見せてやる」


父の背中が、蝋燭の光に照らされていた。


大きな背中だった。子供の頃、あの背中が怖かった。前世でも今世でも。


今は、怖くなかった。


「お父様」


「何だ」


「最後に一つだけ聞いていいですか」


「何でも聞け」


「使用人たちは苦しみましたか。地下で」


沈黙が落ちた。


父は、振り返らなかった。


「……苦しんだだろうな」


それだけだった。謝罪はなかった。後悔の色も、分からなかった。


書斎を出た。


扉を閉めた瞬間、廊下でカミラが待っていた。


「お嬢様」


「大丈夫。四十分で出てきた。明日の準備をしよう」


カミラの手が、私の手を握った。


私の手は、冷たくなっていた。

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