第49話 父の手紙
屋敷に戻ると、食卓に手紙が置いてあった。
父の筆跡だった。
封蝋はなく、二つ折りの便箋が、ナプキンの下に無造作に挟んであった。
『リゼット
今夜、書斎で食事をする。来なさい。
ヴィクトル』
三行。
短い手紙だ。命令口調ですらない。穏やかな文面。
それが、逆に重かった。
カミラが背後から覗き込んだ。
「お嬢様——」
「読んだ」
「行くのですか」
「行かない選択肢は、ない」
明日の朝、強制捜査が入る。近衛騎士団が屋敷に踏み込む。
父は、知っているのかもしれない。エレノアの告白が宮廷中に広まった。ケッテラーの供述も、メルツ香房の押収も。全てが公爵家に向かっていることを。
追い詰められた父が、最後の晩餐に娘を招いている。
罠かもしれない。
だが、行かなければ、父は逆に警戒を強める。明朝の捜査に支障が出る可能性がある。
「カミラ。今夜——私が書斎から一時間以内に出てこなかったら、王宮に走って。セドリック殿下に伝えて」
「一時間」
「一時間あれば、話は終わる。終わらなかったら、何かが起きている」
カミラが頷いた。顔は蒼白だったが、目は揺れていなかった。
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解毒薬の準備をした。
小瓶三本。牛乳薊、薬炭、甘草。いつものセット。
それに加えて、もう一本。
汎用的な嘔吐剤。吐根草の抽出液を濃縮したもの。万が一、未知の毒を飲まされた場合に、胃の内容物を全て吐き出すための最終手段。
四本の小瓶を、ドレスの内ポケットに忍ばせた。
鏡で自分を見た。
紫水晶の瞳が映っている。父と同じ色の瞳。
「……行ってくる」
鏡の中の自分に言った。
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書斎の扉を開けた。
部屋の中は、予想外の光景だった。
書斎の机が片付けられ、白い布が敷かれていた。その上に、銀の皿と杯が二組。蝋燭が二本、柔らかい光を灯している。
父が、椅子に座っていた。
いつもの黒いコート。銀の髪を撫でつけ、姿勢よく腰掛けている。
「座りなさい」
机の向かいの椅子を示された。
座った。
机の上の料理は質素だった。パンとチーズ、干し肉、葡萄。そして、ティーポットが一つ。
「お茶を淹れた。私が直接」
父が、自分でティーポットから杯に茶を注いだ。二つの杯。一つを私の前に、もう一つを自分の前に。
匂いを嗅いだ。
茶の匂い。ハーブティーだ。カモミールをベースにした、そこに、微かな甘さ。
夜来花の甘さではない。蜂蜜の甘さだ。
匂いだけでは、毒の有無は判断できない。死の香以外にも、無臭の毒は存在する。
「飲まないのか」
「……いただきます」
杯を手に取った。だが、まだ口をつけなかった。
父が自分の杯を持ち上げ、一口飲んだ。
「お前の番だ」
「お父様。率直に聞きます。この茶に、何か入っていますか」
父の紫水晶の瞳が、蝋燭の光を映してゆらめいた。
「入っている」
「何が」
「お前なら、分かるだろう」
父が微笑んだ。
冷たい微笑みではなかった。不思議なことに、穏やかな微笑みだった。
「お前を試している。最後の試験だ。毒を見抜き、解毒し、私の前で飲んで見せろ。お前が本当に私を超える薬師になったのかを」
最後の試験。
父は、最後まで、教師のつもりなのだ。
娘を毒で育て、毒で試し、毒で送り出す。歪んだ、だが、父なりの一貫性がある。
杯の中の茶を見た。
薄い琥珀色。カモミールの色。蜂蜜の甘い匂い。
もう一度、鼻を近づけた。
カモミールと蜂蜜の下に、もう一層、匂いがある。
極めて微かな。ほとんど検出できない。
金属の匂い。鉄と、銅の中間のような。
砒素だ。
微量の砒素が溶かされている。致死量ではない。だが、反復投与を前提とした量だ。
父が長年、使用人やユーリに使っていた手口と同じ。少量を繰り返し飲ませて、耐性を測る。
「砒素ですね。微量の」
父の眉が、僅かに上がった。
「匂いで分かったか」
「はい」
「いつから、匂いで毒を判別できるようになった」
「薬草園で働き始めた頃からです。毎日、何百種類もの植物と薬品の匂いを嗅いでいれば、鼻が鍛えられます」
「……そうか」
父が杯を置いた。
「解毒できるか」
「できます」
ドレスの内ポケットから小瓶を取り出した。柳の枝を焼き、薬草の灰と合わせて何度も晒した薬炭の粉末。
杯の茶に、ひとつまみの炭を落とした。軽くかき混ぜた。
薬炭は毒を抱き込み、茶の底へ沈める。これだけで砒素が消えるわけではない。だが、舌に触れる毒の量を薄め、体に入る毒を鈍らせることはできる。
沈んだ黒い粉が杯の底に溜まるのを待った。三十秒。
杯を持ち上げ、飲んだ。
カモミールと蜂蜜の味。薬炭のざらつきが僅かに残る。金属の味も、完全には消えていない。
だが、牛乳薊は先に飲んである。甘草も舌の下で溶かしてある。
この程度なら、耐えられる。
杯を空にして、父の前に置いた。
「いただきました」
父が、目を閉じた。
長い沈黙があった。
蝋燭の光が揺れ、書斎の壁に影を落としている。
「見事だ」
父の声は、静かだった。
怒りも、失望も、混じっていなかった。
認めた、のかもしれない。
「リゼット。お前は、私が作った最高傑作だ」
「傑作」
「毒を操り、毒を見抜き、毒を無効化する。私がお前に与えた教育の全てが完成した」
「お父様。私はあなたの作品ではありません」
「そうだな。もう、道具でもない」
父が目を開けた。
紫水晶の瞳。同じ色の瞳が、向かい合っている。
「明日何が来るか、知っている」
「……知っているのですか」
「近衛騎士団だろう。強制捜査。地下の研究室もお前が見たことは分かっている」
「見張りの使用人が報告した?」
「いや。お前の靴に、地下の土がついていた。あの土は地上にはない種類の粘土だ」
靴の土。気づかなかった。
父は、最後まで、観察者だった。
「止めないのですか」
「止めてどうする。お前を殺すか。逃げるか」
父が立ち上がった。窓に歩いた。
「俺は逃げない。ヴァレンシア公爵は逃げない」
「では」
「明日、来い。連中を連れて。地下も全部見せてやる」
父の背中が、蝋燭の光に照らされていた。
大きな背中だった。子供の頃、あの背中が怖かった。前世でも今世でも。
今は、怖くなかった。
「お父様」
「何だ」
「最後に一つだけ聞いていいですか」
「何でも聞け」
「使用人たちは苦しみましたか。地下で」
沈黙が落ちた。
父は、振り返らなかった。
「……苦しんだだろうな」
それだけだった。謝罪はなかった。後悔の色も、分からなかった。
書斎を出た。
扉を閉めた瞬間、廊下でカミラが待っていた。
「お嬢様」
「大丈夫。四十分で出てきた。明日の準備をしよう」
カミラの手が、私の手を握った。
私の手は、冷たくなっていた。




