第46話 ジークフリートの仮面
強制捜査の前日に、予期しない来客があった。
第一王子ジークフリート・アルシェーヌ。
私の婚約者。
門番の報告を受けたとき、書斎にいた。父は不在だった。午前中から王都の貴族会議に出席している。
「ジークフリート殿下がお見えです。お嬢様にお会いしたいと」
カミラの声に緊張が混じっていた。
「……通して。応接室に」
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応接室に入ると、ジークフリートが窓辺に立っていた。
金の髪。碧い瞳。端正な顔立ちに、読みにくい微笑みを浮かべている。
前世のジークフリートは、私を処刑台に送ることに、何の躊躇もなかった。婚約者が無実だと訴えても、一顧だにしなかった。
今世のジークフリートは、まだ何もしていない。だが、味方になる行動は何も取っていない。
「久しぶりだな、リゼット」
「殿下。お忙しい中、わざわざ公爵家まで」
「堅い挨拶は抜きにしよう。——二人きりで話がしたい」
カミラを下がらせた。扉が閉まった。
ジークフリートが椅子に座った。私も対面に座った。
「ケッテラーの件は聞いている。メルツ香房の押収も。——お前が裏で動いていたことも」
「情報が早いですね」
「王子の耳に入らない話は少ない。特に——弟が関わっている案件は」
セドリックのことを「弟」と呼んだ。声に皮肉はなかった。だが、親しみもなかった。
「リゼット。単刀直入に聞く。お前は——父上を告発するつもりか」
父上。ジークフリートにとっての「父上」は国王だ。
違う。ここで言う「父上」は、私の父。ヴァレンシア公爵のことだ。
「なぜ、そう思いますか」
「状況を見れば分かる。ケッテラーの逮捕。メルツ香房の押収。弟の動き。全てが一つの方向を指している。——ヴァレンシア公爵の排除だ」
ジークフリートの碧い瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
この人は、頭が切れる。セドリックとは違う種類の鋭さだ。セドリックが分析者なら、ジークフリートは政治家だ。局面全体を俯瞰して、各プレイヤーの動きを読む。
「殿下は——どちらの味方ですか」
「味方?」
「私の味方か、父の味方か。聞いておきたい」
ジークフリートが僅かに笑った。
「俺は——どちらの味方でもない」
「では、何をしに来たのですか」
「確認しに来た。お前の覚悟を」
ジークフリートが身を乗り出した。
「リゼット。お前がやろうとしていることは——公爵家の解体だ。ヴァレンシア家は建国以来の名門だ。四百年の歴史がある。それを——お前は、内側から壊そうとしている」
「壊すのではなく——膿を出す」
「結果は同じだ。公爵家が崩壊すれば——お前の社会的立場も消える。婚約も白紙になる。宮廷薬師の称号はあっても、後ろ盾がなくなる」
「覚悟の上です」
「本当に?」
ジークフリートが立ち上がった。窓際に歩き、外を見た。
「俺は——正直に言えば、お前に興味がなかった。父上が決めた婚約だ。政治的な取り決めに過ぎない。だが——この数ヶ月で、お前が見せたものは——予想外だった」
「何を見ましたか」
「八歳の少女が、宮廷の暗部に手を突っ込んで、王妃を救い、実行犯を逮捕した。——しかもそれが、自分の父親を敵に回す行為だと分かっていて」
ジークフリートが振り返った。碧い瞳に、初めて見る光があった。
「お前は——俺が思っていたより、ずっと危険な女だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてはいない。——警告だ」
ジークフリートの声が低くなった。
「リゼット。宰相ヘルムガルトが動いている。公爵を切り捨てる準備を始めている。だが——切り捨て方が問題だ。宰相は、公爵を排除すると同時に——お前も排除しようとしている」
血の気が引いた。
「どういうことですか」
「公爵の犯罪を告発する過程で、リゼットも共犯だったという筋書きを作ろうとしている。公爵家の令嬢が、父の犯罪を知りながら黙認していた——いや、加担していたと」
「加担なんてしていない」
「証拠がある。お前が父の暗殺指令を受けていた記録が——宰相の手元にある。ベルモント伯爵への件だ」
第12話。父からの最初の暗殺指令。私はそれを偽装し、ベルモント伯爵を傷つけず、結果だけを作って協力者に変えた。
だが、暗殺指令を「受けた」という事実は残っている。私が報告した偽の「遂行報告」も、父の記録に残っているはずだ。
宰相がその記録を入手したなら、「リゼットは暗殺者として活動していた」という物語を作れる。
「……殿下は、なぜそれを教えてくれるのですか」
「婚約者だからだ。俺の婚約者が犯罪者として裁かれるのは——王家の面子に関わる」
面子。政治的な計算だ。私を助けたいわけではなく、自分の立場を守りたい。
だが、理由が何であれ、情報は情報だ。
「ありがとうございます。——殿下。一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「婚約の件。公爵家が崩壊した後——殿下は、婚約を解消されますか」
ジークフリートが黙った。
数秒の沈黙。
「……考えている。正直なところ——まだ決めていない」
「決まったら教えてください。私は——どちらでも構いません」
ジークフリートが微かに目を細めた。
「どちらでも構わない、か。……強いな。だが覚えておけ、リゼット。この宮廷で完全に退路を断たれ、何もかもを奪い取られた時、人はどうするか」
ジークフリートの口元が歪み、音のない笑いの形を作った。
「ただ、嗤うことしかできなくなる。それしか自分を守る盾が残されていないからだ」
その引きつったような笑みを見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
前世の処刑台の下で彼が浮かべていたあの顔。私を嘲っているのだとばかり思っていたあの笑みは、全てを奪われ、壊れた男の顔だったのではないか。
私が息を呑むのを残し、ジークフリートが扉に向かった。
「リゼット。宰相の手は——俺が塞ぐ。お前の暗殺指令の件は、『公爵に強制された未成年の行為』として処理する。法的には——八歳の子供に刑事責任は問えない」
「殿下——」
「借りは作るなよ。——いずれ返してもらうからな」
扉が閉まった。
金の髪が消えた後、応接室に静寂が戻った。
紙片に書いた。
——ジークフリートからの警告。宰相がリゼットを共犯として排除する計画あり。
——ジークフリートが法的防御を提供。動機は政治的計算だが、結果として味方に回った。
——婚約の行方は未定。ジークフリートの真意は依然として読めない。
——宰相への対策が新たに必要。ベルモント伯爵の件の記録を確認し、反証を準備する。




