第45話 実験場
セドリックに地下研究室のことを報告したのは、翌日の午前だった。
図書塔の三階。いつもの古い法典の棚の間で、記録を渡した。
セドリックは読んだ。
表情が変わらないことに慣れていたが、今回は、紙を持つ指の関節が白くなっていた。
「人体実験か」
「はい。拘束施設がありました。寝台と鎖。使用人の制服の断片」
「何人だ」
「寝台は五つ。だけど——書斎の文書に被験体の番号がありました。No.23からNo.31。少なくとも三十一人以上が——」
「やめろ」
セドリックが紙を机に置いた。
沈黙が落ちた。窓の外で鳩が鳴いている。
「……すまない。続けてくれ」
「いいの?」
「聞かなければならない。目を逸らしている場合じゃない」
セドリックの声は低く、硬かった。怒りを、抑えている。
「文書の日付は二十三年前です。だけど、地下室の状態を見る限り——もっと最近まで使われていた形跡がある。薬瓶のラベルが新しいものもあった。死の香の原材料が、精製済みの状態で保管されていた」
「つまり——今も稼働している可能性がある」
「薬品の在庫から見て、最後に使われたのは——半年以内だと思う」
セドリックが立ち上がり、窓に歩いた。
「これだけの証拠があれば——強制捜査の令状を出せる。公爵家の敷地内に違法な実験施設がある。人体実験の痕跡がある。王妃暗殺未遂の物的証拠も合わせれば——」
「待って。セドリック」
「何だ」
「強制捜査をかけるなら——ユーリを先に出さないと。父が追い詰められたとき、ユーリを人質にする可能性がある」
セドリックが振り返った。
「弟か。——学院への入学手配は進めている。王妃の名による推薦状が、今日中に出る」
「今日中?」
「母上に事情を説明した。母上は——すぐに動いてくれた」
王妃の推薦状。公爵であっても、王妃の名に逆らうことは難しい。
「ありがとう」
「弟を出した後に——強制捜査をかける。準備に二日。合計で三日後だ」
「三日……」
三日あれば、ユーリを屋敷から出し、証拠を最終確認し、近衛騎士団を動かせる。
だが、三日の間に、父が地下室を片付ける可能性がある。
「父が証拠を隠滅する前に、動かないと」
「分かっている。だが——拙速に動けば、法的な手続きに瑕疵が出る。公爵家相手の強制捜査だ。手続きが完璧でなければ、後で覆される。宰相が弁護につく可能性もある」
「宰相は——まだ動いてない?」
「表面上は沈黙している。だが——裏で動いているはずだ。公爵を切り捨てるか、庇うか、判断を保留しているんだろう」
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午後、屋敷に戻った。
ユーリの部屋を訪ねた。
「ユーリ。明後日——王宮の学院に行くことになったよ」
ユーリの目が大きくなった。
「本当?」
「王妃陛下の推薦状が出る。お父様も——表向きは断れない」
「お父様は——怒る?」
「怒るかもしれない。でも——王妃の名前には逆らえない」
ユーリが小さく頷いた。安堵が顔に滲んでいたが、同時に、不安も消えていなかった。
「お姉ちゃんは——屋敷に残るの?」
「残る。もう少しだけ——やることがあるから」
「危ないこと?」
「大丈夫。すぐ終わるから」
嘘だった。すぐには終わらない。危険でないはずもない。
だけど、弟には、それでいい。
「ユーリ。学院に行ったら——勉強を頑張って。友達を作って。外の空気をたくさん吸って」
「うん」
「薬は——引き続き飲んで。毎朝一回。体が慣れるまで」
「分かった」
ユーリが立ち上がり、私の前に来た。
小さな腕が、腰のあたりに回された。
抱きついてきた。
「お姉ちゃん——ありがとう」
声が震えていた。
この子は、自分が毒を飲まされかけていたことを、完全に理解している。六歳の子供が理解するには重すぎる現実だ。
頭を撫でた。
「ありがとうはこっちのセリフ。お父様のお茶を花にすり替えたの——あれは本当にすごかった」
「お姉ちゃんに教わったから」
「教えてないよ、あんなこと」
「教わった。——嘘のつき方」
ユーリが笑った。少し得意げな笑みだった。
胸が痛んだ。六歳の子供に嘘のつき方を教えた姉。立派な姉とは言えない。
でも、生き延びるためには、必要な嘘だった。
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翌日。
王妃の推薦状が届いた。
正式な文書。王妃の署名と印璽が押されている。
「ヴァレンシア公爵家のユーリ・ヴァレンシアを、王立学院初等部への特別入学生として推薦する。王妃アーデルハイト」
父に文書を渡したのは、夕食の場だった。
「お父様。王妃陛下より、ユーリへの推薦状が届きました」
父が文書を受け取り、読んだ。
表情は変わらなかった。
長い沈黙があった。食卓の蝋燭が、パチパチと音を立てた。
「……王妃が、うちの息子に目をかけてくださるとはな」
「ユーリは聡い子です。学院で学ぶ機会があれば——」
「お前が手を回したのか」
「いいえ。王妃陛下のご判断です」
嘘だ。分かっている。父も分かっている。
だが、王妃の名前が入った文書を突き返すことは、公爵であっても政治的なリスクが大きすぎる。
「……いいだろう。ユーリには良い経験になるだろう」
父の承諾を得た。
声は穏やかだったが、紫水晶の瞳の奥で、何かが計算されていた。
ユーリが屋敷からいなくなれば、私への人質としての価値がなくなる。
父は、別の手段を考え始めるだろう。
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翌朝、ユーリが屋敷を出た。
王宮からの迎えの馬車。近衛騎士が一人、護衛としてついた。セドリックの手配だ。
ユーリが馬車に乗る前に、振り返った。
「お姉ちゃん」
「行っておいで」
「——また会える?」
「会えるよ。すぐに」
ユーリが頷いた。馬車の扉が閉まった。
車輪が回り、砂利を踏む音が遠ざかっていった。
門が閉じた。
屋敷の中庭に、私と、新しい使用人たちだけが残された。
カミラが隣にいた。
「ユーリ様——行かれましたね」
「うん。これで——安心」
「次は——」
「次は、明日。強制捜査が入る」
カミラが息を呑んだ。
「明日——」
「セドリックから連絡が来ている。近衛騎士団が動く。令状は今日中に発行される」
「お嬢様は——どうされるのですか」
「屋敷にいる。証拠の場所を知っているのは私だけだから。——騎士たちを地下に案内する」
カミラの手が、私の袖を掴んだ。
「お嬢様——」
「大丈夫。一人じゃない」
カミラの黒い瞳が揺れていた。怖がっている。当然だ。
「カミラ。明日の朝——屋敷を出て、王宮に行ってて」
「嫌です」
即答だった。
「お嬢様のお傍にいます」
「危ないかもしれない」
「それでも」
カミラの声は震えていなかった。
この子は、いつも、ここぞという場面で震えない。
「……分かった。一緒にいて」
「はい」
庭の牛乳薊が、朝日を浴びて白く光っていた。
明日、この屋敷に、嵐が来る。




