第44話 地下への道
父が領地から戻ったのは翌日の昼過ぎだった。
馬車が門を入る音を、二階の窓から聞いた。
父は何も言わずに書斎に入った。一時間後に出てきて、食堂で昼食を取り、午後は来客と会っていた。
書斎に異常がないことを確認したのだろう。痕跡を残さなかったことが功を奏した。
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その夜、カミラが眠った後に部屋を出た。
今回は薬草園の小屋ではなく、小屋のさらに奥に向かった。
見取り図を思い出す。地下研究室の東側出口は、屋敷の東棟地下から外に延びる通路を経て、庭の東端付近に出る。
薬草園は屋敷の東側に広がっている。出口は、薬草園の奥、石垣に沿った区画の近くにあるはずだ。
月が出ていた。半月。暗すぎず、明るすぎない夜だった。
薬草園の奥を歩いた。石垣沿いに、蔦が絡まった一角がある。この場所は普段、手入れをしない。古い煉瓦が崩れかけていて、園丁も近づかない。
蔦を掻き分けた。
煉瓦の壁に、扉があった。
木製の扉。古びて、蔦に半分覆われている。取っ手は錆びていたが、形は残っている。
引いた。動かない。
押した。動かない。
鍵穴を探した。取っ手の下に、小さな鍵穴がある。
持っている鍵は、壁掛け時計裏の鍵しかない。それは書斎の扉用だ。
試しに差し込んだ。入らなかった。鍵穴の形が違う。
別の方法を考えた。
鍵穴を観察した。単純な構造だ。古い錠前で、機構が複雑ではない。
薬草園の小屋から道具を取ってきた。細い針金と、小さな金属のへら。薬草の根を掘るときに使う道具だ。
針金を鍵穴に差し込み、内部のピンを探った。
前世で覚えた技術だ。父の「教育」の一環として、錠前の構造を学ばされた。毒殺者は、施錠された部屋にも入れなければならない。それが父の論理だった。
皮肉なことに、その技術が今、父に対して使われようとしている。
三分かかった。
錠前が、回った。
扉を押した。重い扉が、軋みながら内側に開いた。
土の匂い。湿った空気。地下の匂いだ。
暗い通路が、地下に向かって続いていた。
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蝋燭を灯して、中に入った。
狭い通路だった。大人一人がやっと通れる幅。天井は低く、かがまないと頭がぶつかる。
壁は煉瓦造り。古いが、崩れてはいない。排水溝が足元に走っていて、僅かに水が流れている。
地下水脈が近いのだろう。
通路は緩やかに下っていた。十歩。二十歩。三十歩。
屋敷の地下に、確実に潜っている。
匂いが変わった。
土の匂いに混じって、別の匂いがある。
薬品の匂い。古い薬品が分解した匂い。そして、もっと奥から、かすかに。
甘い匂い。
夜来花の匂いだ。薄いが、間違いない。
死の香の製造に使われた原材料の残留物が、この地下に染みついている。
通路が二股に分かれた。
左は行き止まり、ではなく、崩れた壁で塞がっている。古い崩落だ。
右に進んだ。
通路がやがて広くなった。天井が高くなり、立って歩ける空間になった。
そして、扉があった。
今度は鉄の扉だ。重く、頑丈に見える。
取っ手を握った。
動いた。施錠されていなかった。
扉を開けた。
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部屋は、広かった。
蝋燭の光が届く範囲だけでも、十歩四方はある。
壁に沿って棚が並んでいた。ガラスの瓶が整然と置かれている。中身は、液体のもの、粉末のもの、乾燥した植物の断片。
作業台が部屋の中央にある。石の台。その上に、蒸留器と石臼の残骸。
ここが、「第七研究室」か。
実験室だ。毒物の調合と実験が行われていた場所。
棚の瓶にラベルが貼ってある。手書きの文字。父の筆跡だ。
一つずつ読んだ。
「砒素抽出液(三倍濃縮)」
「トリカブト粉末(秋採取)」
「白根草エキス(精製済)」
「特別品目A — 第三次精製物」
特別品目A。コルサ商会の取引記録にあった暗号。夜来花の別名だ。
死の香の原材料が、この地下室で保管・精製されていた。
棚を進んだ。奥の壁に、別の扉があった。
この扉を開けて、いいのか。
開けたら、もう戻れない何かを見ることになる気がした。
開けた。
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奥の部屋は、実験室ではなかった。
寝台があった。粗末な木の寝台が、五つ。壁に沿って並んでいる。
寝台の横に、鎖がついていた。手首を固定する拘束具。
汚れた毛布。錆びた水差し。壁に残る、爪の跡。
人が、ここに拘束されていた。
何人も。
長い間。
寝台の下に、布の端切れが落ちていた。使用人の制服の切れ端。
公爵家の使用人の制服だ。
失踪した使用人たち。「辞めた」と言われた者たち。「田舎に帰った」と説明された者たち。
ここにいた。
この地下の寝台に鎖で繋がれ、毒物の実験台にされていた。
壁の爪跡を見た。何度も何度も引っかいた痕。脱出しようとした痕。
できなかった。
蝋燭の光が揺れた。手が震えているのか、空気の流れか。
吐き気がした。
薬師として多くの毒を扱ってきた。死の香のサンプルを分析するとき、死を扱っている感覚はあった。
だが、これは違う。
死を扱うのではなく、人を死に向かわせていた。父の手で。この屋敷の地下で。
「被験体No.23~No.31」。あの報告書の番号は、人間の番号だった。
蝋燭を置き、部屋の隅にしゃがみ込んだ。
呼吸が乱れている。目の前が暗くなりそうだった。
深呼吸を三回した。
薬師の呼吸。感情を統制する呼吸。
震えを止めた。今ここで崩れるわけにはいかない。
この場所を記録しなければならない。証拠として残さなければならない。この部屋にあるもの全てが、父の罪の証明になる。
部屋の中を歩き回り、配置を記憶した。
寝台五つ。拘束具。作業台の残骸。棚の薬瓶のラベル。壁の爪跡の位置と数。床の染み。
全てを、頭に焼きつけた。
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地下から出た。
扉を閉め、蔦で隠し、薬草園の小屋に戻った。
小屋の中で、震えながら記録を書いた。
——地下研究室「第七研究室」を確認。毒物の調合施設と、人体実験のための拘束施設が存在。
——棚に毒物の在庫あり。死の香の原材料(夜来花精製物)を含む。
——拘束施設には寝台五基。使用人の制服の断片あり。長期拘束と人体実験の物的証拠。
——この施設の存在と記録は、公爵家の犯罪を立証する決定的な証拠となる。
——セドリック殿下と近衛騎士ヴェルナーへの報告が急務。
ペンを置いた。
手が、まだ震えていた。
父の顔を思い浮かべた。食卓で向かい合って座る、あの紫水晶の瞳。
あの目の奥に、この地下室があった。
毒の教育も、使用人の失踪も、私への暗殺指令も、全てはこの闇の延長線上にあった。
知っていたはずだ。父がどういう人間かは。
だが、実際に見ると、知っていたことと、見たことの間には、深い溝がある。
溝の底を覗き込んだ気分だった。
小屋を出て、夜空を見上げた。
星が出ていた。
星の光は地下まで届かない。あの寝台に繋がれた人たちは、星を見ることなく死んだのだろう。
「……終わらせる」
声に出した。誰に言うでもなく。
この闇を、終わらせる。




