第43話 書斎の影
父が領地の視察に出たのは、三日後の朝だった。
公爵領の北部で、小麦の収穫に関する報告があるという名目。日帰りではなく、一泊二日。
カミラが出発を確認した。
「旦那様が東門から出られました。供は四人。馬車一台」
「新しい使用人は?」
「半分が一緒に出ました。残りは屋敷に」
半分。六人のうち三人が残っている。それでも、全員がいるよりはましだ。
「カミラ。私が書斎に入っている間——廊下の見張りをお願い」
「分かりました。でもお嬢様——鍵は」
「鍵は——開ける方法がある」
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父の書斎は屋敷の一階、西棟の奥にある。
重い樫の扉。常に施錠されている。鍵は父が持ち歩いている。
だが、もう一つ、鍵がある場所を知っている。
前世の記憶だ。
前世のリゼットは、父の書斎に何度も呼ばれた。報告をさせられ、指示を受け、時には罰を受けた。あの部屋の匂いは、今でも覚えている。
ある日、父が書斎の鍵を忘れて出かけたことがあった。執事のハインリヒが予備の鍵を持っていた。鍵の在り処は、廊下の壁掛け時計の裏だった。
今世でも、同じ場所にある保証はない。だが、試す価値はある。
廊下を歩いた。西棟の通路。壁掛け時計が同じ場所にかかっていた。
時計を持ち上げた。
裏に、小さな釘。釘に引っかけてある鉄の鍵。
あった。
ハインリヒが解雇された今、この鍵の存在を知っている人間は少ない。父は知っているかもしれないが、回収し忘れた可能性がある。
鍵を取り、書斎の扉に差し込んだ。
回った。
扉を開け、中に入った。
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書斎は暗かった。カーテンが引かれている。
カーテンを少しだけ開けた。細い光が机の上を照らした。
整然とした部屋だった。大きな樫の机。革張りの椅子。壁一面の書棚に、法典、領地の管理記録、歴史書が並んでいる。
机の上には何もなかった。父は机の上に物を置かない主義だ。
引き出しを開けた。
一段目。筆記用具、封蝋、公爵家の印璽。事務用品。
二段目。領地の税収記録。数字が几帳面に並んでいる。異常なし。
三段目。鍵がかかっている。
別の鍵が必要だ。壁掛け時計の鍵では開かない。
引き出しの鍵穴を見た。小さい。机の裏に手を伸ばした。机の天板の裏側に、テープで固定された小さな鍵。
これも前世の記憶だ。父は大事な鍵を机の裏に隠す癖があった。
引き出しが開いた。
中に、書類の束があった。
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書類を一枚ずつ確認した。
手が震えていた。時間は限られている。カミラが廊下で見張っているが、新しい使用人がいつ巡回に来るか分からない。
一枚目。コルサ商会との取引契約書。南方シルヴァーノ港からの輸入品目が列挙されている。香料、薬品、希少植物。夜来花の名前は直接は書かれていない。代わりに「特別品目A」という暗号が使われている。
二枚目。グスタフ・メルツへの支払い記録。月一回、定額の金貨。備考欄に「調合費」とだけ書かれている。
三枚目。ケッテラーへの「謝礼」の記録。典礼局副局長への定期的な支払い。金額は少額だが、年単位で継続している。
四枚目。
これは、違った。
便箋ではなく、羊皮紙に書かれた古い文書。公爵家の家紋が押印されている。文体が古い。二十年、いや、もっと前の文書だ。
読んだ。
『第七研究室 進捗報告
被験体No.23~No.31の経過観察結果を記す。
投与量を段階的に増加させた結果、No.25とNo.28に顕著な耐性獲得が確認された。他の被験体は投与開始から十四日以内に機能停止。
No.25の耐性メカニズムについては、肝機能の異常亢進が関与していると推測される。さらなる——』
読むのをやめた。
手が凍りついていた。
被験体。番号で管理されている。機能停止、死亡の婉曲表現だ。
人体実験だ。
毒物の人体実験が、公爵家の管轄下で行われていた。
「第七研究室」。この屋敷の中にあるのか。それとも別の場所か。
文書の日付を見た。二十三年前。父がまだ若い頃だ。
だが、「進捗報告」という形式は、これが一回限りではないことを示している。継続的な研究が行われていた。
書類の束の奥に、もう一枚、地図があった。
この屋敷の見取り図。だが、通常の見取り図にはない空間が描かれている。
地下。
屋敷の地下に、正規の間取りには存在しない空間がある。西棟の地下、書斎の真下あたりに、広い空間が描かれていた。
「第七研究室」と、手書きで注記されている。
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書類を元に戻した。
正確に。一枚一枚、同じ順番で。鍵をかけ、机裏のテープに鍵を戻し、引き出しを閉じた。
見取り図の内容だけを記憶した。持ち出さない。持ち出せば痕跡が残る。
書斎を出て、鍵を壁掛け時計の裏に戻した。
廊下でカミラが待っていた。
「お嬢様。大丈夫でしたか」
「大丈夫。——見つけた」
「何を」
「この屋敷の地下に——研究室がある。父が毒の実験をしていた場所」
カミラの顔から血の気が引いた。
「実験って——」
「人体実験。使用人たちが失踪した理由——たぶん、これだ」
カミラが口元を手で押さえた。
「ひどい……」
「まだ確定じゃない。地下の部屋を実際に確認しないと。——だけど今日はここまで。父が戻る前に、動いた痕跡を消さないと」
自室に戻り、記憶した見取り図を紙に描き起こした。
屋敷の一階平面図。書斎の位置。その真下に広がる地下空間。
入口は、どこだ。
見取り図には、地下への入口の記載があった。書斎の書棚の裏に、隠し扉がある。
明日、もう一度入る必要がある。
だが、父が不在の保証はない。一泊二日の視察は今日の夜までだ。明日の朝には戻ってくる。
別の入口を探す必要がある。
見取り図を見直した。
地下空間の反対側、東棟の地下にも、細い通路が伸びている。その先に、屋敷の外に出る出口らしき記号がある。
薬草園の方角だ。
薬草園の小屋の近くに、地下への出口がある可能性。
明日の夜、確認する。
紙を折り畳み、靴の中敷きの下に挟んだ。この屋敷の中で、誰にも見つからない場所は、自分の体の上しかない。




