第40話 毒と蜜の果て
王妃の勅命は、翌日に下された。
「メルツ香房への立ち入り調査を許可する。王妃の健康を害した毒物の製造拠点として、関連する全ての物品と文書を押収せよ」
近衛騎士団が動いた。
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グスタフ・メルツは逃げていた。
近衛騎士がメルツ香房に踏み込んだとき、店は既に空だった。
調合台の上に、使いかけの道具が残されていた。急いで荷物をまとめた形跡。棚の瓶は半分が空で、帳簿は破り取られたページがあった。
だが、全てを持ち出す時間はなかったらしい。
床下の隠し収納から、三つの重要なものが出てきた。
一つ目。夜来花の乾燥花弁。大量に。南方から輸入された原材料の在庫。
二つ目。菌糸の培養器。特殊な条件で菌糸を増殖させる装置で、死の香の製造に必要な原材料を自家培養していた証拠。
三つ目。取引帳簿の断片。
破り取られたページの残骸から、騎士団の文書官が復元した記録には、二つの名前が記されていた。
「コルサ商会」と「V公爵」。
V。ヴァレンシア。
金の流れが記録されていた。V公爵から、コルサ商会を経由して、メルツ香房への定期的な支払い。月に一度。金額は大きい。
証拠が、繋がった。
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報告を受けたのは、王妃の東屋だった。
セドリックが報告書を持ってきた。王妃も同席していた。体はまだ本調子ではないが、椅子に座って話を聞ける程度には回復していた。
「グスタフ本人は逃亡中だ。王都の門を閉じたが——間に合わなかったかもしれない。南方への逃走が予想される」
「帳簿の記録は?」
「V公爵への言及がある。ケッテラーの自白と合わせれば、ヴァレンシア公爵の関与を立証できる可能性がある」
「ケッテラーが自白した?」
「グスタフが逃亡したことを伝えたら——話し始めた。口止めの約束をしていた相手が消えたことで、恐怖の方向が変わったんだろう。自分だけが罪を被ることになる、と」
セドリックの声は淡々としていたが、目に鋭い光があった。
「ケッテラーの供述。命令系統は二段階。直接の指示はグスタフ・メルツから。メルツの背後にヴァレンシア公爵がいることは——ケッテラー自身は直接は確認していないが、複数の状況証拠から推測していたと」
「直接の証拠ではない、か」
「帳簿がある。金の流れがある。状況証拠を積み上げれば——」
王妃が手を上げた。セドリックが黙った。
「リゼット」
王妃が私を見た。
「あなたの——お父様のことよ」
「はい」
「これ以上の調査を進めれば——あなたのお父様が、国家反逆の罪に問われる可能性がある。それでも——構わないの?」
王妃の声は穏やかだった。問い詰めているのではなく、確認しているのだ。この少女が、自分の父親を告発することの重さに耐えられるのかを。
「構いません」
声は震えなかった。
「お父様は——王妃陛下のお命を狙いました。それだけではなく、何年もかけて、ゆっくりと——殺そうとしていました。宮廷薬師として、薬師として、人として。それを許すことは——できません」
「復讐ではないのね?」
王妃の言葉に、息が詰まった。
復讐。
前世で殺された記憶がある。父に捨てられ、処刑台に送られた記憶がある。
それが動機ではないと、言い切れるのか。
「……分かりません。完全に復讐ではないとは——言い切れない部分があるかもしれません」
正直に言った。綺麗な言葉で飾ることはしなかった。
「でも——少なくとも、今の私が守りたいのは、王妃陛下のお命と、この国の人たちの安全です。父を罰したいという気持ちが——ないとは言いません。でも、それだけのために動いているのではありません」
王妃がしばらく私を見つめていた。青白い目が、何かを測っていた。
やがて、小さく頷いた。
「信じるわ」
王妃がセドリックに目を向けた。
「セドリック。調査を続けなさい。ただし——ヴァレンシア公爵への直接的な行動は、まだ控えて。証拠を固めてから動くこと」
「はい、母上」
「それから——リゼット」
「はい」
「あなたを——正式に宮廷薬師に任命するわ」
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
「今までは見習い扱いだったけれど——あなたの能力と功績は、正式な任命に値する。王妃の名において、リゼット・ヴァレンシアを宮廷薬師に任ずる」
セドリックが僅かに目を見開いた。
宮廷薬師。正式な称号。
それは、王宮における公的な立場を意味する。
公爵家の令嬢ではなく、宮廷薬師リゼットとして。父の道具ではなく、王妃の臣下として。
「あなたの身を守る盾にもなるわ。宮廷薬師への害は、王妃への害と同義として扱われる。——お父様が、あなたに何かしようとしたときに」
王妃は、分かっている。父が私を排除しようとする可能性を。
この任命は、信頼の証であると同時に、防護の布陣だ。
「……ありがとうございます。——精一杯、務めます」
「頼りにしているわ」
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東屋を出た。
中庭を歩きながら、セドリックが隣に並んだ。
「宮廷薬師、か。八歳で正式任命は、王国の歴史上最年少だ」
「嬉しいはずなんだけど——実感がない」
「実感はそのうち来る。今は——次のことを考えるべきだ」
「次のこと」
「父上……いや、お前の父親への対応だ。証拠は集まりつつあるが、まだ足りない。公爵家の屋敷の中に——何かがある。グスタフの帳簿に書かれていた『V公爵』だけでは、弁護の余地が残る」
「父の書斎に——記録があるかもしれない。毒の発注書、コルサ商会との契約書。父は几帳面な人だから、記録を残しているはず」
「公爵家の屋敷に踏み込むには——もう一段階の証拠が必要だ。それか——内部からの協力者」
内部からの協力者。
私だ。
公爵家の令嬢であり、宮廷薬師であり、父の書斎を知っている人間。
「私が——やる」
セドリックが足を止めた。
「危険だ」
「分かっている」
「お前の父親は——人を殺すことに躊躇しない男だ。娘であっても」
「知ってる。前世で——殺されたから」
言葉が滑り出た。前世の記憶を他人に明かすつもりはなかった。だが、セドリックの前では、隠しておく気力が残っていなかった。
セドリックが眉を顰めた。
「前世?」
「……何でもない。言い間違えた」
「嘘が下手だな」
セドリックの暗い紫の瞳が、こちらを見据えている。だが、追及しなかった。
「聞かない。お前が話したいときに聞く」
「……ありがとう」
「礼は要らないと言っただろう」
セドリックが歩き出した。私も続いた。
中庭の噴水が、夏の日差しに光っていた。
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屋敷に戻った。
自分の部屋で、カミラと二人きりになった。
カミラが紅茶を淹れてくれた。いつもの、少し甘い紅茶。
「お嬢様。——お顔の色が良くないです」
「疲れただけ。色々あって」
「宮廷薬師の正式任命——おめでとうございます」
カミラが微笑んだ。でも、目の奥に不安が滲んでいた。
「ありがとう」
「これから——もっと大変になりますか」
「なる。たぶん」
「お嬢様のお傍にいて——いいですか」
「いるよ。ずっと」
カミラが頷いた。
紅茶を飲んだ。甘さが、舌の上で溶けた。
窓の外に夏の空が広がっている。青い空に白い雲。
社交界という戦場での戦いが、一区切りを迎えようとしている。この数ヶ月で、得たものと失ったものを数えた。
得たもの。王妃の信頼。宮廷薬師の称号。セドリックとの同盟。エレノアとの共闘。令嬢ネットワーク。死の香の解毒法。
失ったもの。父との最後の糸。
いや、糸は最初からなかったのかもしれない。父と私の間にあったのは糸ではなく、鎖だった。
その鎖が、切れかかっている。
紙片を書いた。最後の記録。
——王妃暗殺未遂事件:阻止完了。解毒薬の実戦投与に成功。
——ケッテラー:拘束済み。供述開始。指示系統の解明が進行中。
——グスタフ・メルツ:逃亡中。メルツ香房から物的証拠を押収。
——父ヴィクトル:関与がほぼ確定。直接対決は次のアークへ持ち越し。
——宮廷薬師の称号:正式に授与。公爵家の令嬢から、王妃の臣下へ。
——次の戦場:公爵家の内部。父の書斎。あの屋敷の闇の奥に——何がある。
紙を折り畳んだ。
社交界の毒と蜜。両方を味わった。
蜜は甘かった。王妃の信頼、セドリックの言葉、エレノアの涙、カミラの紅茶。
毒は苦かった。父の紫水晶の瞳、ケッテラーの空洞の目、宰相の牽制、フローリアの監視の視線。
次の戦場は、毒の方が多くなるだろう。
公爵家の闇。父との、最終決着。
カミラが空になった茶碗を下げようとした。
「お嬢様。もう一杯いかがですか」
「いる。——甘くして」
「はい」
カミラが紅茶を淹れ直してくれた。
砂糖を一匙多く入れた、甘い紅茶。
その甘さを噛み締めながら、次の戦場のことを、考え始めた。




