第39話 裏返しの罠
王妃が回復に向かっていることで、宮廷の空気が変わった。
二日後には王妃が起き上がり、侍女と会話ができるまでになった。三日後には軽い食事を取った。
侍医団の長が驚いた顔で寝台を覗きに来たが、何もしなかった。何もできなかった人間が、回復した王妃の前に立っても、やれることはない。
セドリックが動き始めた。
王子として、王妃の安全を脅かした人物の調査を、という名目で、近衛騎士団に協力を求めた。
近衛騎士団長ヴェルナーは、セドリックの数少ない信頼できる味方だった。王妃派の筆頭であり、王妃への忠誠が厚い。
ヴェルナーに渡したのは、あの夜ケッテラーが持っていた香料の包みだ。
「この包みの中身を、信頼できる薬師に分析させてください。毒物が混入されていることが確認されるはずです」
ヴェルナーは包みを受け取り、重々しく頷いた。
「殿下。もし分析の結果が——その通りであれば」
「ケッテラーを拘束する。その権限は、近衛騎士団にある」
王族の安全に対する脅威。それは典礼局の管轄を超え、近衛騎士団が直接対処できる案件だった。
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分析結果は翌日に出た。
ヴェルナーが選んだ薬師は、王宮付きの老薬師ランベルトだった。四十年の経験を持つ、宮廷でも随一の調剤師だ。
ランベルトの報告書を、セドリックが持ってきた。
「香料の基剤に、未知の植物性毒物が混入されている。主成分は揮発性の有機化合物で、吸入により呼吸器系と循環器系に深刻な障害を引き起こす。致死量に近い濃度で調合されている」
「未知の、か」
「ランベルトでも特定できなかった。正式な記録にない毒だ」
「死の香。名前はあるけど、公式な文献にはない毒です。私が独自に分析した結果と一致している」
セドリックが頷いた。
「十分だ。毒物の混入は確認された。ケッテラーがその包みを持っていた。動機と機会もある。——ヴェルナーに拘束を命じる」
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ケッテラーの拘束は、翌朝行われた。
典礼局の執務室。ケッテラーが朝の業務を始めようとした瞬間、近衛騎士二名が扉を開けた。
「典礼局副局長、ヘルマン・ケッテラー。王妃陛下への害意ある毒物の持ち込みの疑いにより、近衛騎士団の権限をもって拘束する」
ケッテラーは、抵抗しなかった。
椅子に座ったまま、近衛騎士を見上げた。灰色の髪の下の目が、空洞のようだった。
抵抗しないことに、違和感を覚えた。追い詰められた人間は、言い訳をするか、暴れるか、逃げようとするか。何らかの反応を見せる。
ケッテラーは何もしなかった。覚悟していたかのように。あるいは、こうなることを、既に知らされていたかのように。
拘束の報告は、昼までに宮廷内に広まった。
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午後、セドリックと図書塔で落ち合った。
「ケッテラーの尋問が始まった。だが——口を割らない」
「何も?」
「毒物については認めた。だが、『上からの命令だった』としか言わない。誰の命令かは——言わない」
「殴っても?」
「ヴェルナーはそういう手は使わない。それに——殴っても出てこないだろう。あの男の目を見たか。恐怖がない。口を割らない人間の目だ」
「脅されている」
「ああ。口を開けば殺される。口を閉じていれば、家族が守られる。そういう取引がされているんだろう」
セドリックが窓際に立った。いつもの癖だ。考えるときにこの男は窓の外を見る。
「背後の人間を突き止める必要がある。ケッテラーに命じた人物。毒を供給した人物」
「グスタフ・メルツ。毒の製造者。そして——供給元は」
言葉が途切れた。
セドリックが振り返った。暗い紫の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
「お前の父親だろう。ヴァレンシア公爵」
「……はい」
声が掠れた。分かっていた。ずっと分かっていた。
でも、他人の口から言われると、重さが違う。
「リゼット」
「大丈夫。分かっているから」
「大丈夫かどうかは聞いていない。——覚悟があるかを聞いている」
セドリックの声は冷たかった。だが、冷たさの中に、配慮があった。感情を排除して、事実だけを突きつけてくれている。
「ある。覚悟は——とっくにできている」
前世の処刑台で、この覚悟は始まった。
父が私を道具として使い、捨て、殺した。その記憶を持って生まれ直した瞬間から、この対決は避けられなかった。
「だけど——今ではない。今、父を追い詰めれば、父は逃げるか、証拠を隠滅する。ケッテラーを切り捨てて、自分は無関係だと主張する。宰相ヘルムガルトも同様に逃げる」
「何が必要だ」
「二つ。まず、ケッテラーから公爵への指示系統を証明する物的証拠。手紙、伝言、金の流れ。何でもいい」
「もう一つ」
「グスタフ・メルツの確保。死の香の製造者を押さえれば、誰が発注したかを辿れる」
セドリックが考え込んだ。
「ケッテラーの執務室は近衛騎士団が押さえている。書類を調べれば、何か出るかもしれない」
「お願いします」
「グスタフの方は——メルツ香房への踏み込みが必要だ。だが、王子の権限で民間の商店に踏み込むのは——法的に厳しい」
「王妃の命に関わる毒物の製造拠点として、令状を取れませんか」
「取れる。だが、時間がかかる。そして——令状を請求した時点で、情報が宰相の耳に入る可能性がある。司法官僚の中にも、宰相の息がかかった者がいる」
厄介だった。宰相が敵にいることの重さが、ここに来て効いている。
「時間との勝負です。ケッテラーの拘束が父の耳に入れば——父は次の手を打ってくる」
「分かっている。——俺は母上に直接、協力を請う。王妃の勅命であれば、令状は即日発行できる」
「王妃陛下のお体は——」
「回復してきている。お前の薬のおかげで。——勅命を出すだけの体力はある」
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夕方、屋敷に戻った。
門を入った瞬間に、空気が違うことに気づいた。
使用人たちの顔が、強張っている。
カミラが駆け寄ってきた。
「お嬢様。——お父様がお呼びです」
カミラの声が震えていた。
「書斎で——お待ちです」
父が、呼んでいる。
ケッテラーの拘束から、半日も経っていない。もう、伝わったのか。
「分かった。行くわ」
「お嬢様——」
「大丈夫」
大丈夫ではなかった。足が重い。書斎に向かう廊下が、前世の地下牢へ続く階段と重なった。
だが、行かなければならない。
書斎の扉を開けた。
父、ヴィクトル・ヴァレンシア公爵が、窓を背にして立っていた。
逆光で、顔が見えなかった。
「座りなさい、リゼット」
低い声。怒りは、感じなかった。むしろ、平坦な声。
椅子に座った。
父が机に歩み寄り、椅子に腰を下ろした。正面から、紫水晶の瞳が、同じ色の瞳を見据えてきた。
この目の色は、父から受け継いだものだ。
「ケッテラーが拘束されたそうだな」
「はい。——ご存知でしたか」
「一時間前に知った」
一時間。速い。父の情報網は健在だ。
「お前が——関わっているか」
「はい」
嘘は言わなかった。ここで嘘をつけば、後で発覚したときに状況が悪化する。
父の顔に、表情の変化はなかった。
「理由を聞こうか」
「王妃陛下の身の回りの品に、毒物が混入されていました。宮廷薬師として——看過できませんでした」
「宮廷薬師として」
父が、その言葉を繰り返した。
「リゼット。お前に宮廷薬師の立場を与えたのは誰だ」
「王妃陛下です」
「王妃がお前を取り立てた。だが——お前を王宮に送り込んだのは誰だ」
私は、答えなかった。
答えは分かっている。父だ。社交界デビューも、王宮への出入りも、全ては父の計画の一部だった。
「お前は——私の道具として王宮に入った。忘れたか」
「忘れていません」
「ならば——なぜ、私の手駒を潰した」
父の声に、初めて感情が混じった。
怒りではなかった。困惑だ。
父は、本当に理解できないのだ。なぜ道具が、主人の意に反する行動を取るのか。
「ケッテラーは——お前の手駒だったのですか、お父様」
「答える義務はない」
「私も——答える義務はありません。宮廷薬師として、王妃陛下の安全を守ることは、私の職責です」
父の紫水晶の瞳が、僅かに細くなった。
長い沈黙があった。
書斎の柱時計が、秒を刻む音だけが部屋に響いていた。
「……いいだろう。今日は——これで下がりなさい」
それだけだった。
叱責も、罰も、脅しもなかった。
それが、一番恐ろしかった。
書斎を出た後、廊下で壁に手をついた。
膝が震えていた。
父は怒らなかった。それは、私を切り捨てる判断を、既に始めているということだ。
道具が壊れたら、捨てる。新しい道具を探す。あるいは、壊れた道具を修理するのではなく、排除する。
前世と同じだ。父は、不要になった私を処刑台に送った。
今世でも、同じことをする可能性がある。
だが、今世の私には、味方がいる。
カミラが廊下の先で待っていた。
「お嬢様——」
「大丈夫。怒られなかった」
「怒られなかった方が——怖いです」
カミラは正しかった。この子は、誰よりもこの屋敷の空気を読める。
「うん。怖い。——だけど、止まれない」
紙片に書いた。
——父との対峙。ケッテラーが父の手駒であることを暗に認めた。
——父の反応:怒りではなく困惑。道具の離反を理解できていない。
——今後の予測:父は証拠隠滅と、リゼットの排除に動く可能性がある。
——時間がない。グスタフの確保と証拠の収集を急ぐ必要がある。
最後の一行。
——背後にいるのは父。公爵ヴィクトル・ヴァレンシア。この対決は——もう避けられない。




