第38話 解毒
暗殺は阻止した。
だが、終わっていなかった。
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翌朝、王妃の侍女から伝言が届いた。
『王妃陛下のお体の具合が、今朝から急に悪くなっています。薬師殿にお越しいただきたく——』
血の気が引いた。
昨夜、香炉の交換は止めた。だが、既に入っていた香にも、何かが仕込まれていた可能性がある。
ケッテラーが新しい香料を持ってきたのは、二度目の投与だったのではないか。
一度目は、もっと前に、既に仕込み済みだった。
走った。
ドレスの裾を片手で掴み、革の袋を抱えて、王宮の回廊を駆けた。
宮廷薬師が走るのは異例だ。すれ違う文官たちが驚いた顔をしていた。構っている余裕はなかった。
王妃の私室に着いた。
衛兵に通され、居間に入った。
王妃は寝台にいた。侍女が二人、傍についている。
顔色が、灰色だった。
唇に血の色がない。額に汗が浮き、呼吸が浅い。
昨日の夜会で見た血色の良い顔が、一晩で崩れていた。
「王妃陛下」
「リゼット……。朝から——少し、苦しくて」
声が弱い。話すのも辛そうだった。
脈を取った。速い。弱い。不規則な拍動。
手首の内側に、試薬布を当てた。
赤褐色の反応。昨日よりも、濃い。
死の香の代謝物が、急激に増えている。
新しい投与があった。昨夜の夜会の前か、あるいはもっと前から。ケッテラーが持ってきた香料だけが手段ではなかった。
食事か。飲み物か。それとも、寝具に染み込ませたか。
原因の特定は後だ。今は、目の前の王妃を救うことが先。
「侍女の方。白湯を用意してください。すぐに」
「は、はい」
「それから——部屋の窓を全て開けてください。換気を」
侍女が動いた。窓が開かれ、朝の風が部屋に入ってきた。
革の袋を開いた。
三つの小瓶。
牛乳薊の抽出液。活性炭の粉末。甘草の煎じ液。
実験室で何度も確認した処方。死の香のサンプルに対して有効性が確認されたものだ。
だが、人体に使うのは初めてだ。
手が震えた。
実験室のガラス瓶相手なら失敗しても平気だ。だがこの人は生きている。一国の王妃だ。配合を間違えれば、助けるどころか、
震えを止めた。
薬師の手は、震えてはいけない。
白湯が届いた。陶器の杯に注がれた白湯。
杯に、活性炭の粉末を入れた。微量。匙の先ほど。多すぎれば体に負担がかかる。
かき混ぜた。白湯が薄い灰色に濁った。
次に、牛乳薊の抽出液を三滴。
最後に、甘草の煎じ液を加えた。杯の中の液体が、僅かに緑がかった。
実験室で見た反応と同じだ。甘草の成分が、死の香の揮発性成分と反応して、無毒化された沈殿を作る。
「王妃陛下。お飲みいただけますか」
「それは——」
「解毒の薬草茶です。いつもお飲みいただいているものの、強い処方です。お体の中に——良くないものが溜まっています。それを出すための薬です」
説明は正確だった。嘘は含めていない。
王妃の青白い目がこちらを見た。
「……信じているわ、リゼット」
杯を受け取り、ゆっくりと口に運んだ。
一口。二口。三口。
杯の中身を、全て飲み干した。
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効果は、すぐには現れなかった。
一時間。王妃の呼吸は変わらず浅いままだった。
侍女たちが不安そうに見ている。
侍医団の長が呼ばれるべきではないかと、侍女の一人が言った。
「もう少し待ってください。この薬は即効性ではありません。体内の毒素を吸着して排出するまでに、時間がかかります」
自分でもどこまで確信があったか分からない。
実験室の溶液と、生きた人間の体は違う。体重、代謝速度、臓器の状態。変数が多すぎる。
だが、この処方しか手がない。
椅子に座り、王妃の手を握った。
冷たい手だった。
前世では、この手が冷たくなったまま、二度と温まらなかった。
二時間が経った。
王妃の額から、汗が引き始めた。
呼吸が、少しだけ深くなった。
三時間。
脈を取った。拍動が、安定してきている。速度が落ち着き、リズムが整い始めた。
試薬布を手首に当てた。
反応は、まだ赤褐色だが、朝よりも薄い。
代謝物の排出が進んでいる。
「王妃陛下。お加減はいかがですか」
「……少し——楽になった気がするわ」
声に力が戻り始めていた。
その瞬間、目頭が熱くなった。泣きそうになったのを堪えた。薬師が患者の前で泣いてはいけない。
「もう一杯、同じ薬草茶をお作りしてもよろしいですか。二回目の投与で、さらに排出が進むと思います」
「お願いするわ」
二杯目を調合した。配合比は同じだが、甘草の量を僅かに増やした。体が受け入れる余裕が出てきたなら、中和作用を強めても大丈夫だ。
王妃が二杯目を飲んだ。
四時間後。王妃の顔に、血の色が戻り始めた。唇が薄い桃色を取り戻し、目に光が差した。
「リゼット」
「はい」
「……ありがとう」
「いつもの薬草茶の効果です」
「嘘おっしゃい」
王妃が小さく笑った。弱い笑みだったが、目に芯が通っていた。
「あなたの顔——真っ青だったわよ。いつもの薬草茶なら、あんな顔にはならないでしょう」
見抜かれていた。
王妃は賢い人だ。体が弱っていても、頭は冴えている。
「正直に話してくれる? 何が起きたの」
「……お話しします。ただ——もう少し、お体が回復されてからでも」
「今、聞きたいわ。体が動かない間に、頭を使わせて頂戴」
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話した。
全てではない。だが、核心は隠さなかった。
王妃の病が自然な病ではないこと。死の香という毒の慢性投与によるものだと判明したこと。昨夜の夏の夜会の裏で、決定的な攻撃が仕掛けられようとしていたこと。
セドリックと共に、香料への毒の混入を阻止したこと。
だが、別のルートでも投与が行われていた可能性があること。
王妃は黙って聞いていた。表情は変わらなかった。
全てを聞き終えた後、長い沈黙があった。
「……そう。やはり、そうだったのね」
「やはり——?」
「気づいてはいたの。何年も体が弱り続けて、どの医師の治療も効かなくて。自然な病ではないのかもしれないと——思ったことはあった。でも、確かめるのが怖かった」
王妃の声は静かだった。怒りも、悲しみも、表には出ていない。長年の苦痛を受け入れた人間の、凪いだ声。
「犯人の——見当はついているの」
「はい。ただ——まだ、完全な証拠が揃っていません」
「ケッテラーね」
王妃が名前を口にした。
「あの男は——最近、妙に私の部屋に出入りするようになったから。以前はそうではなかったのに」
「お気づきでしたか」
「動けない体でも、目と耳は動くわ」
王妃がこちらを見た。青白い目に、鋼のような光が宿っている。
「リゼット。あなたは——私の息子と一緒に、動いてくれているのね」
「はい」
「セドリックは——元気にしている?」
「とても。王妃陛下のことを、誰よりも心配しています」
「あの子は——昔から、気持ちを表に出すのが苦手で」
王妃が微笑んだ。今度の微笑は、王妃のものではなく、母親のものだった。
「ありがとう、リゼット。あなたがいなければ——私はもう」
「いいえ。私は薬師として当然のことをしただけです」
「当然のことを、誰もしてくれなかった。何年も」
王妃の手が、私の手を握った。
朝は冷たかった手が、温かくなっていた。
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夕方、セドリックが見舞いに来た。
王妃の部屋に通された王子は、寝台の母親の顔を見て、足を止めた。
「母上」
「セドリック。久しぶりね、こうして顔を見るのは」
「昨日の夜会でお会いしたばかりですが」
「あれは——公式の場でしょう。二人きりでは——いつ以来かしら」
セドリックが寝台の横に立った。椅子に座らなかった。立ったまま、母親の顔を見下ろしている。
言葉が出てこないようだった。
普段は冷静で、饒舌で、皮肉も吐けるこの王子が、母親の前では、ただの不器用な少年だった。
「リゼットから——聞きました。全部」
「そう」
「俺が——もっと早く気づくべきだった」
「あなたのせいではないわ」
「でも——」
「リゼット。少し、二人にしてくれる?」
王妃がこちらを見た。
「はい。薬草茶をもう一杯準備してきます」
部屋を出た。
扉を閉める直前に、背後で、セドリックの声が聞こえた。
掠れた、小さな声。
何を言ったかは聞き取れなかった。
聞き取れなくてよかったと思った。あれは私が聞くべき言葉ではない。
薬草園に向かいながら、空を見上げた。
夏の夕暮れ。空が朱色に染まっている。
今日、初めて、人の命を救った。
実験室の溶液ではなく、生きた人間の体に、自分の手で作った薬を飲ませて。
震えていた手を見た。
もう震えていなかった。




