第37話 王妃暗殺未遂
予測は外れた。
秋ではなかった。
七月の半ば。真夏の夜に、事件は起きた。
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前兆はあった。
三日前、エレノアから伝言が届いた。告解室に残された紙片。
『グスタフが来た。いつもより多い量の薬を置いていった。次の配達は三週間後ではなく、来週だと言われた。——E』
配達の間隔が縮まっている。何かが動いている。
同じ日、セドリックからも連絡があった。
『ケッテラーが典礼局の備品庫から、王妃の寝室用の香料を三ヶ月分まとめて受領した。通常は一ヶ月ごとの補充だ。——C』
三ヶ月分。なぜ、まとめて。
嫌な予感がした。
翌日、マリアンヌからの報告。
『フローリア様が、ここ数日で三回もお父様のお屋敷を訪ねていらっしゃいます。普段は月に一度程度なのに、急に頻繁に。——M』
宰相家に何かが伝わっている。動きが加速している。
紙片を並べた。全ての情報が、同じ方向を指していた。
前倒しだ。秋の晩餐会を待たずに、仕掛けてくる。
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問題は、いつ、どこで仕掛けるか。
秋の晩餐会という「舞台」がなくなった以上、別の機会を使うはずだ。
カミラに調べさせた七月の行事表を見た。
七月十六日。王妃主催の夏の夜会。
規模は秋の晩餐会に次ぐ。王族と主要貴族が出席する。
この日だ。
直感ではない。論理だ。犯人が計画を前倒しにするなら、元の計画に最も近い条件の行事を選ぶ。大人数が集まり、王宮が混乱し、犯人のアリバイが作りやすい夜。
夏の夜会は、三日後だった。
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セドリックに緊急の伝言を送った。
『七月十六日。夏の夜会の夜。王妃の寝室の香炉を確認して。——R』
返事は半日後。
『分かった。当日、俺は夜会の後に母上の部屋を訪ねる理由を作る。——C』
エレノアにも伝えた。
『十六日の夜、何か異変があったら——すぐに私のところに来て。場所は王宮の薬草園。——R』
解毒薬を準備した。
牛乳薊の抽出液。活性炭の粉末。甘草の煎じ液。三つを別々の小瓶に詰め、革の袋に入れた。
即座に調合できるよう、配合比を袋の内側に書いておいた。
手順を何度も確認した。粉末を白湯に溶かす。抽出液を加える。煎じ液を最後に入れる。混ぜすぎない。沈殿が出たら上澄みだけを飲ませる。
実験室では何度も成功した処方だ。
だが、人体に使うのは初めてになる。
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七月十六日。夏の夜会。
大広間は蝋燭の光で満たされていた。銀の燭台が長い食卓に並び、壁際の花瓶には白百合が活けられている。
楽隊が軽やかな曲を奏でている。夏の夜にふさわしい、明るい旋律。
王妃アーデルハイトは上座に座っていた。薬草茶の効果で顔色が良くなり、薄い微笑みを浮かべている。
その姿を見て、少しだけ安心した。体力は回復しつつある。前世のように衰弱しきった状態ではない。
だが、油断はできない。
食卓の向かいに、ジークフリートが座っている。金の髪、碧い瞳。婚約者としての席。ジークフリートは私を一度ちらりと見たが、すぐに視線を外した。
セドリックは離れた席にいた。目が合った。微かに顎を引いた。準備はできている、という合図。
エレノアは王妃の近くに座っていた。聖女として、王妃の祝福を祈る役割を与えられている。碧い瞳がこちらを一瞬だけ見た。
夜会は滞りなく進んだ。食事、歓談、踊り。
何も起きなかった。
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夜会が終わったのは、夜の十時だった。
客が三々五々に退出していく。王妃は侍女に付き添われて、私室へ戻った。
私も退出した、ふりをした。
大広間を出て、回廊を東に進んだ。王妃の私室がある棟の方角だ。
途中で薬草園に寄り、革の袋を取った。解毒薬の材料が入った袋。ドレスの下に隠した。
薬草園を出て、王妃の棟に向かった。
回廊は暗かった。夜会の後片付けで、使用人たちは大広間の方に集中している。この棟は静かだ。
王妃の私室の前に、衛兵が立っていた。
通常の警備だ。衛兵は私を見て、軽く会釈した。宮廷薬師として顔は知られている。
「夜分に失礼します。王妃陛下に明朝の薬草茶の件でお伝えしたいことが」
「王妃陛下は既にお休みの準備をされています。明朝にお願いできますか」
「分かりました。——あの、一つだけ。今夜の香炉のお香は、いつも通りのものですか」
衛兵が怪訝な顔をした。
「香炉……? それは侍女が管理しておりますが」
「すみません、薬師として少し気になることがあって。お香の種類によっては、王妃陛下のお体に影響が出ることもありますので」
衛兵は迷った顔をしたが、頷いた。
「侍女に確認いたします。少々お待ちを」
衛兵が扉を開け、中に声をかけた。
その隙に、回廊の奥から、足音が聞こえた。
靴音。硬い革靴の音。宮廷の官吏が履く種類の。
足音は近づいてきて、止まった。
振り返った。
回廊の薄暗がりに、男が立っていた。
灰色の髪。典礼局の制服。襟に銀の飾り。
ケッテラーだった。
「これは——ヴァレンシア嬢。こんな夜更けに、王妃陛下のお部屋の前で何を?」
声は穏やかだった。だが目が笑っていない。
「薬師として、明朝の薬草茶の件でお伝えしたいことがありまして。——副局長こそ、こんな時間に?」
「典礼局の責任として、夜会後の王妃陛下のお世話の確認に。いつもの巡回です」
嘘だ。巡回にしては、遅すぎる。夜会が終わって一時間近く経っている。
ケッテラーが歩み寄ってきた。手に小さな包みを持っていた。
「香炉のお香を、新しいものに交換しに来たのですよ。夏は特別な調合のものを使いますのでね」
香料の包み。
あの中に、死の香が混ぜてあるのか。
心臓が叩いていた。喉が渇いた。
だが、今、ここで問い詰めることはできない。証拠がない。ケッテラーが持っている包みを強引に奪えば、私が不審者になる。
「副局長。その香料——私に確認させていただけませんか。薬師として、王妃陛下のお体に影響のある成分が含まれていないか」
ケッテラーの目が細くなった。
「お嬢様には——香料の管理権限はございませんが」
「宮廷薬師として、王妃陛下の健康に関わる全ての物品を確認する権限はあります」
王妃から直接与えられた権限だ。薬草茶の処方だけでなく、王妃の体調に影響する一切のものについて助言する権利。
ケッテラーの表情が変わった。穏やかな仮面の下に、何か硬いものが透けた。
「……失礼ですが、お嬢様。深夜にお一人で、王妃のお部屋の前をうろつかれるのは——少々、誤解を招くのではありませんか」
脅しだ。お前が不審者に見えるぞ、と言っている。
前世と同じ罠だ。リゼットが王妃の部屋の近くにいた、という証言。ケッテラーは今、この瞬間を利用して、私を「現場にいた人物」に仕立てようとしている。
背筋が冷えた。
そのとき、背後から声がした。
「リゼット。まだいたのか」
セドリックだった。
回廊の反対側から、ゆっくりとした足取りで歩いてきた。夜会の正装のまま。
「母上への薬草茶の件で、俺もリゼットに確認したいことがあった。——ケッテラー副局長。こんな夜更けに、ご苦労なことだな」
セドリックの声は平坦だった。だが、王子という立場の重さが、その一言に乗っていた。
ケッテラーが姿勢を正した。
「殿下。夜会後の巡回でございます」
「香料の交換か。見せてくれ」
命令ではなく、依頼の形だった。だが王子の依頼は、断れない。
ケッテラーの指先が微かに震えた。
それでも、包みを差し出した。
セドリックが包みを受け取り、私に渡した。
「リゼット。お前が確認しろ。薬師としての見解を聞きたい」
包みを開いた。手が震えないように、意識して指先に力を入れた。
灰色がかった粉末。香料の基剤に混ぜてある。
匂いを嗅いだ。
白檀の香りが表層にある。その下に、甘い花の匂い。
夜来花の匂い。
間違いない。
死の香が混入されている。
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顔を上げた。
「セドリック殿下。この香料は——王妃陛下のお体には不適切です。成分の一部が、王妃陛下の現在の処方と干渉する可能性があります」
嘘は言っていない。干渉どころではなく、命を奪う毒が入っている。
「交換は見合わせるべきです。今夜の香炉には、既に入っているお香をそのまま使用していただくのが安全です」
セドリックが頷いた。
「ケッテラー。聞いた通りだ。今夜の香料の交換は中止しろ。この包みは預かる」
ケッテラーの顔から、完全に表情が消えた。
「……かしこまりました、殿下」
一礼して、ケッテラーが去っていった。
硬い靴音が回廊に響き、やがて消えた。
セドリックが私を見た。
「あったか」
「あった。匂いで分かった。死の香が混ぜてある」
セドリックの手が包みを握り締めた。
「証拠だな」
「物的証拠。これがあれば——」
「まだだ。これだけではケッテラーが知らずに使っていた可能性を排除できない。供給元を押さえなければ」
セドリックの冷静さに、助けられた。私一人なら、感情が先走っていたかもしれない。
「でも——今夜の暗殺は、阻止できた」
「ああ。お前の読みがなければ、母上は——」
セドリックは最後まで言わなかった。言わなくても分かっている。
回廊の窓から、夏の月が見えた。白い月光が石の床を照らしていた。
「リゼット」
「何」
「——ありがとう」
王子が、公爵家の令嬢に礼を言った。暗い回廊で、二人きりで。
「お互い様。あなたが来てくれなかったら、私がケッテラーの代わりに犯人にされていた」
セドリックが僅かに目を細めた。笑ったのかもしれない。暗くて、よく見えなかった。
包みを抱えたまま、別々の方角に歩いた。
月だけが、私たちの背中を照らしていた。




