第33話 宰相の食卓
ヘルムガルト家の晩餐会への招待は、フローリアの名義で届いた。
『リゼット様。母が主催する小さな晩餐会に、ぜひお越しいただきたく存じます。
ご多忙のことと存じますが、フローリア・ヘルムガルト』
小さな晩餐会。宰相家がそう名づけるものは、小さくない。
政治的な意図のない宴席を、宰相家は開かない。
「行くべきですか、お嬢様」
カミラが不安そうに聞いた。
「行く。断る方が不自然だし、宰相家の内部を見る機会は貴重だから」
「でも——フローリア様は、お嬢様に良い感情を持っていないのでは」
「だからこそ、招いたんだと思う。近くで観察したいのか、何かを試したいのか。どちらにしても、こちらも同じことをすればいい」
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ヘルムガルト家の邸宅は、王都の北区にあった。
壮大な石造りの館。正門の両脇に衛兵が立ち、玄関ホールには大理石の柱が並んでいる。
公爵家ほどの広さはないが、装飾の密度が濃い。壁には油絵、天井には金箔、床には東方の絨毯。
権力を視覚で主張する趣味の屋敷だった。
晩餐の客は十二名。貴族の夫人と令嬢が中心で、男性客は宰相本人と、その側近と思しき中年の男が二人。
宰相ヘルムガルトは、食卓の上座に座っていた。
初めて間近で見た。五十代半ば。
銀色の短い髪を撫でつけ、顎髭を整えている。体格は中肉中背だが、存在感が大きい。
声は低く、よく通る。食卓の会話を仕切る手際が滑らかで、全員の視線を自然に集めている。
政治家だ。この男は、空気を支配する術を知っている。
フローリアは父の隣に座り、私は対面の席に通された。フローリアの琥珀色の瞳が、食器越しにこちらを見ている。
観察の目。サロンで交わした舌戦の続きを、今夜やるつもりかもしれない。
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前菜が運ばれてきた。薄切りの鹿肉に、ベリーのソース。
食べながら、宰相の話に耳を傾けた。
「最近の王妃陛下のお加減がよろしいとか。ヴァレンシア家のお嬢様のおかげだそうで」
宰相が、私に話を振ってきた。穏やかな声。
だが、目は笑っていなかった。
「恐縮です。まだ道半ばでございます」
「八歳の宮廷薬師とは、前代未聞ですな。お父上の教育の賜物でしょう」
「父は厳しい人ですから」
「ヴァレンシア公爵は——私の古い友人でもある。お嬢様の活躍を、きっと喜んでおられるでしょう」
古い友人。
コルサ商会の裏顧客リストに、並んでいる名前。友人という言葉の裏に、共犯関係が透けている。
「父にも、宰相閣下のお名前はよく聞いております」
「光栄です。——ところで、お嬢様。薬草の知識がおありだとか。私も少々、植物に興味がありましてね」
宰相の目が、一段階鋭くなった。
「南方の植物に、面白いものがあると聞いている。夜にしか咲かない花があるそうで——何と言ったかな」
夜来花。
宰相が、夜来花の話を、食卓で、私に振ってきた。
心臓が跳ねた。だが、顔には出さなかった。
「夜来花ですね。南方の熱帯地域に自生する希少種で、夜間にのみ開花します。香料の原料として珍重されていますが、入手は困難です」
「詳しいですな。——実物をご覧になったことは」
「文献でのみ存じております」
「そうですか。いつか機会があれば、実物をお見せできるかもしれませんな」
宰相が微笑んだ。
その微笑の意味は、二通りに解釈できた。
一つは、単なる知的好奇心からの話題提供。植物に興味がある男が、薬草に詳しい少女に話を振った。
もう一つは、牽制。夜来花の名前を出すことで、私がどこまで知っているかを測ろうとしている。
反応を見ている。
私は文献の知識だけだと答えた。嘘だ。
コルサ商会の倉庫を調べ、メルツ香房で夜来花の成分を検出している。だが、それは見せない。
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メインディッシュが運ばれてきた頃、フローリアが口を開いた。
「リゼット様。聖女エレノア様とお親しいのですか?」
「親しいというほどでは。サロンでご挨拶した程度です」
「回廊で二人でお話しされているのを、見た人がいるんですけれど」
監視されていた。
エレノアとの接触が、目撃されていた。
誰が見ていたのか。フローリアの手の者か、父の使用人か、それとも、偶然か。
「ちょうどお会いしたので、少しだけ立ち話を。エレノア様のお庭の花が綺麗だと伺って」
「そう。——エレノア様は、不思議な方ですわね。聖女とか、奇跡とか。信じている方も多いですけれど」
フローリアの声に、皮肉が混じっていた。この少女は、エレノアの奇跡を信じていない。
宰相の娘として、政治の裏側を知っている可能性がある。
「フローリア様は——信じていらっしゃらないの?」
「私は現実主義者ですから。奇跡よりも——お薬の方が確かだと思いますわ」
フローリアが微笑んだ。琥珀色の瞳が、挑発的に光っていた。
この少女は知っている。エレノアの奇跡が薬だということを。
宰相の娘として、情報にアクセスできる立場にいる。
だが、どこまで知っているのか。父と宰相の共謀を知っているのか。
死の香を知っているのか。それとも、表層だけを見て皮肉を言っているだけなのか。
測りきれなかった。この少女は十歳だが、宰相の娘として育てられた知性がある。
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晩餐が終わり、デザートの時間になった。
食卓を離れ、隣室のサロンに移った。宰相夫人が紅茶を淹れ、焼き菓子が配られた。
宰相は側近の二人と別室に消えた。政治の話をするのだろう。
その隙に、食堂を振り返った。
使用人たちが食器を片付けている。食卓の配膳、食材の管理。
宰相家の使用人たちの動きを観察した。
気になったのは、食器棚の奥にある扉だった。使用人が出入りするたびに、奥の廊下が見える。
その廊下の先に、鍵のかかった部屋の扉が見えた。
書斎か。保管庫か。
入る機会はなかった。晩餐会の客が屋敷の奥に踏み込む理由はない。
だが、場所は記憶した。
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帰りの馬車の中で、考えた。
宰相ヘルムガルトは、父の共犯者なのか。
夜来花の話を振ってきた。あれは牽制だ。
私がどこまで知っているか、探りを入れてきた。反応を見て、「文献の知識しかない」と判断したはずだ。
だが、安心はしていないだろう。八歳の少女が宮廷薬師になり、王妃を回復させつつある。
宰相にとって、それは想定外の事態だ。王妃の衰弱を望んでいたのなら、私の存在は邪魔になる。
フローリアの目。琥珀色の、鋭い瞳。
あの少女は宰相の駒であり、同時に宰相の目でもある。サロンでフローリアが見ているものは、宰相にも伝わっている。
紙片に書いた。
——宰相ヘルムガルト:夜来花の存在を知っている。牽制の意図あり。
——フローリア:エレノアの奇跡が薬であることを推察している可能性。情報収集の役割を担っている。
——宰相家の内部構造:食堂奥に施錠された部屋あり。用途不明。
——リスク評価:エレノアとの接触が目撃された。今後の接触方法を変更する必要あり。
——宰相と父の関係:共犯か、それとも利害の一致による並走か。まだ判別できない。
カミラが隣で眠っていた。馬車の揺れに身を任せて、小さな寝息を立てている。
この子だけは、この闇に巻き込みたくない。
だが、もう遅い。カミラは私の傍にいる以上、巻き込まれている。
せめて、守る。何があっても。
カミラの肩にそっと毛布をかけた。馬車が屋敷の門をくぐる音で、カミラが目を覚ました。
「……あれ。寝てましたか」
「うん。ぐっすり」
「すみません。お嬢様のお帰りの途中に——」
「いいよ。おやすみ、カミラ」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
カミラの寝ぼけた笑顔が、夜の暗さの中でぼんやりと光っていた。




