第32話 聖女と毒花
エレノアとの接触は、偶然を装った。
宮廷サロンの後、回廊で王妃の東屋に向かう途中、礼拝堂の前を通りかかる動線を選んだ。エレノアが礼拝堂に立ち寄る時間帯は、サロンの後の夕刻だと分かっていた。
あの夜の涙を見た、あの礼拝室。
狙い通り、礼拝堂の扉が開いていた。
中に入った。
エレノアが祭壇の前に跪いていた。だが今回は泣いていなかった。
目を閉じ、静かに両手を組んでいる。祈りの姿勢。
蝋燭の光が金の髪を柔らかく照らしていた。
足音に気づいて、エレノアが振り返った。
「リゼット様?」
「ごめんなさい。お邪魔しましたか」
「いいえ。——祈りは終えたところです」
エレノアが立ち上がった。修道服の裾が床を掃く音がした。
碧い瞳がこちらを見ている。穏やかな微笑。
サロンで見せるのと同じ、いや、少しだけ違う。サロンより、力が抜けている。
人前で被る仮面が、半分だけ外れている顔。
「お一人ですか」
「ええ。侍女には先に行ってもらいました。一人で祈りたいときがあるので」
「私も——一人で考えたいときがあります」
エレノアの瞳が、微かに揺れた。
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並んで礼拝堂を出た。
回廊を歩きながら、他愛のない話をした。天気のこと。
サロンのお菓子のこと。今年のアカシアの花が早く咲いたこと。
エレノアは話し上手だった。声が柔らかく、間の取り方が丁寧で、相手に話す余地を残す。
聞き上手でもある。
だが、自分のことは話さなかった。話題は常に周囲のことに向けられ、エレノア自身の感情や考えには触れない。
仮面だ。隙を見せまいとする、よく出来た仮面。
「エレノア様」
「はい」
「私のことを——どう思いますか」
直接的な問いだった。社交界の作法から外れている。
だが、遠回りをしている時間はなかった。
エレノアが足を止めた。
「突然ですね」
「ええ。すみません」
「……毒花の令嬢。公爵家の異端児。薬草の天才。——色々な噂を聞いています」
「どれが本当だと思いますか」
「全部、少しずつ本当なのでしょう」
エレノアの目が、鋭くなった。穏やかな微笑の下に、別の光が灯っている。
「では——私のことは、どう思いますか、リゼット様」
「聖女。神の子。奇跡の使い手。——色々な噂を聞いています」
「どれが本当だと」
「全部、少しずつ嘘だと思っています」
空気が凍った。
回廊に二人きりだった。夕暮れの光が壁に長い影を落としている。
エレノアの碧い瞳が、私の紫水晶の瞳を射抜いていた。
五秒。十秒。
沈黙が続いた。
エレノアの微笑が、消えた。
初めて見る顔だった。仮面のない顔。
笑ってもいない、泣いてもいない、ただ、疲れ切った少女の顔。
「……どこまで、知っているの」
声のトーンが変わった。聖女の敬語が剥がれ、年相応の少女の口調が覗いている。
「白根草のこと。経皮投与のこと。ブランケンハイム伯爵夫人の膝が翌日には元に戻ったこと」
エレノアの顔が蒼白になった。
「——どうやって」
「私は薬師です。匂いで分かりました」
「匂い……」
「エレノア様の手から、白根草の代謝物の匂いがしました。あの日のサロンで」
エレノアが壁に手をつけた。体が揺れていた。
「誰かに——話しましたか」
「いいえ。誰にも」
「嘘」
「嘘じゃない。私があなたを告発して、何の得があるの」
エレノアの目が揺れていた。恐怖と警戒と、ほんの僅かな期待が、混じり合っている。
「リゼット様は——私を脅しに来たの?」
「違う」
「じゃあ、何のために」
「聞きたいことがあったから。——あなたは、自分の意志でやっているの? それとも——誰かにやらされているの?」
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長い沈黙だった。
回廊の窓から、夕陽が差し込んでいた。橙色の光がエレノアの金の髪を燃えるように染めていた。
「……やらされている、と言ったら?」
「助けたい」
「なぜ」
「あなたが泣いていたから」
エレノアが息を呑んだ。
「いつ——」
「先週。この礼拝堂で。『治せなくて、ごめんなさい』って」
エレノアの目から、涙がこぼれた。
今度は、声を殺さなかった。口元を押さえ、肩を震わせ、静かに泣いていた。
蝋燭の光がない回廊で、夕陽だけが彼女を照らしていた。
「——私は、何も治せない」
声が掠れていた。
「聖女なんて嘘。奇跡なんて嘘。私にできるのは、渡された薬を手に塗って、祈る振りをして、人の手を握ることだけ。治ったように見せるだけ。嘘。全部、嘘」
「薬を渡しているのは——誰」
「……言えない。言ったら——」
「殺される?」
エレノアが黙った。それが答えだった。
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回廊の窓辺に、二人で座った。
石のベンチが冷たかった。エレノアの涙が止まるまで、黙って隣にいた。
「……三歳のときに、教会に引き取られたの」
エレノアが話し始めた。声は小さく、震えていたが、止まらなかった。
「孤児だった。両親の顔も知らない。教会の人たちが育ててくれた。六歳のとき、男の人が来た。高い身なりの——」
「公爵?」
エレノアが頷いた。
「その人が、教会に寄付をした。たくさんの金貨を。そして——私に薬の使い方を教えた。手に塗る薬。祈りの間に、相手に移す方法を。最初は意味が分からなかった。でも——やれば、教会の人たちが喜んだ。『エレノアは神の子だ』って。食事が良くなった。部屋が広くなった。人が優しくなった」
「逆らえなくなった」
「逆らったことがある。八歳のとき。薬を使いたくないって言った。そしたら——教会の修道院長が代わった。新しい院長は、厳しい人だった。食事が減って、部屋が暗くなって。『神のお恵みを拒む者は、神に見捨てられる』って」
八歳。私と同じ年齢の頃に、エレノアは選択肢を奪われた。
「それから——ずっと」
「ずっと。薬が届くたびに、使う。祈る振りをして、手を握って。みんなが喜ぶ。感謝される。泣いて感謝される。でも——治ってない。翌日には元に戻る。でも、誰も確認しない。奇跡を信じたいから。信じていたいから」
エレノアの声が、硬くなった。
「私は——嘘をつくことでしか、生きていけなかった」
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その言葉が、私の胸を貫いた。
嘘をつくことでしか生きていけない。
私もだ。父の前で「忠実な道具」を演じ、暗殺指令を治療に変え、毒を薬に変え、嘘を重ねて生き延びている。
「エレノア」
様づけを外した。意図的に。
「私も——嘘をつきながら生きてる」
エレノアが目を上げた。涙で赤くなった碧い瞳が、まっすぐに見つめてきた。
「毒花の令嬢。父の道具。暗殺者の娘。——でも、私がやっているのは薬を作ること。父に渡された毒を薬に変えること。それも——嘘の上に立っている」
「リゼット様——」
「様はいらない。今は——二人とも、仮面を外しているから」
エレノアの唇が震えた。
「……リゼット」
「うん」
「私を——助けてくれるの? 本当に?」
「約束する。時間はかかるけど——あなたを操っている人間を、止める。あなたが嘘をつかなくていい日を、作る」
大きな約束だった。実現できるかどうかも分からない。
父と宰相が相手だ。八歳の少女二人が立ち向かうには、あまりに巨大な敵だ。
だが、言った。言ってしまった。
エレノアが、小さく頷いた。
「信じて——いいの?」
「いいよ。私は——嘘つきだけど、約束は守る」
矛盾した言葉だった。嘘つきが約束を守ると言っている。
だが、エレノアは笑った。涙を流しながら、笑った。
「変な人」
「よく言われる」
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帰り際、エレノアが囁いた。
「薬を届ける人が来るの。月に一度。教会の礼拝堂に。——いつも、黒い外套を着ていて」
黒い外套。
グスタフ・メルツ。
「次にその人が来たら——日時を教えて」
「分かった。——リゼット」
「何」
「ありがとう。こうやって話せる人がいるなんて——思わなかった」
エレノアの微笑は、サロンで見せる完璧な微笑とは違っていた。ぎこちなくて、少し歪んでいて、でも、本物だった。
回廊の角で別れた。エレノアが東へ、私が西へ。
振り返らなかった。だが、背中に視線を感じた。
碧い瞳の視線。仮面を外した少女の、剥き出しの目。
紙片に書いた。
——エレノアとの対話。共闘の同意を得た。
——薬の供給者は公爵家(エレノアの証言)。六歳から操られている。
——薬の配達人は黒い外套の男(グスタフと推定)。月一回、教会の礼拝堂。
——エレノアは被害者。だが、同時に、強い子だ。
最後の一行は、記録としては余計だった。
でも、書いておきたかった。




