第30話 父の二手目
父の書斎に呼ばれたのは、五月の半ばだった。
春の陽気が窓の外を満たし、屋敷の薬草園ではセージが紫色の花を咲かせている。穏やかな午後のはずだったが、クラウスが「旦那様がお呼びです」と告げた瞬間、空気が変わった。
書斎に入った。
父は椅子に座っていた。机の上に、二つのものが置かれている。
一つは封書。赤い封蝋に、見覚えのない紋章が押されている。
もう一つは小瓶だった。
ガラスの小瓶。中に、黒い粉末。
死の香。
心臓が止まりかけた。
「座れ、リゼット」
父の声は平時と変わらなかった。感情の温度がない、事務的な声。
だが、机の上の小瓶が、その声に重みを加えていた。
向かいの椅子に座った。膝が震えないように、スカートの下で太腿を掴んだ。
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「お前の成長は、目覚ましい」
父が口を開いた。
「宮廷薬師見習い。王妃陛下への薬草茶の処方。社交界での立ち回り。八歳にしては——いや、大人でも容易ではない成果だ」
褒めている。父が私を褒めることは珍しい。
だが、褒め言葉の後に来るものが怖かった。
「ありがとうございます、お父様」
「次の仕事がある」
来た。
封書を手に取り、私の前に置いた。
「宰相ヘルムガルトの政敵に、クロイツァー男爵という人物がいる。軍部寄りの議員で、宰相の予算案に反対票を投じ続けている。ヘルムガルトが——排除を望んでいる」
排除。
暗殺の依頼。宰相ヘルムガルトから父への依頼。
対象はクロイツァー男爵。前回のベルモントと同じ構図だ。
「クロイツァー男爵殿を——」
「殺す必要はない。病に伏せさせれば良い。議会に出席できなくなれば、反対票が消える。二、三ヶ月の体調不良を演出しろ」
殺すのではなく、病ませる。
前回のベルモントの件と同じだ。ただし、今回は病ませるだけでいい。
毒を使うにしても、致死量ではなく、一時的に体調を崩させる量。
「方法は」
「任せる。お前の薬学の知識なら、適切な手段を選べるだろう。——期限は一ヶ月だ」
一ヶ月。
ベルモントのときは、暗殺対象を「治療」して味方に変えた。今回も同じ手が使えるか。
クロイツァー男爵。軍部寄りの議員。
宰相の敵。だが、宰相の敵が味方とは限らない。
軍部寄りということは、王族直属の勢力に近い可能性がある。ジークフリートやセドリックとの関係も調べる必要がある。
情報が足りない。まず、クロイツァー男爵の人物像を調べる必要がある。
「承知いたしました」
「もう一つ」
父が、小瓶を持ち上げた。
黒い粉末が、ガラスの中で微かに揺れた。
「死の香の完成品が届いた。五瓶のうち、一瓶をお前に預ける」
体が凍った。
「私に——」
「お前は毒物の扱いに長けている。この毒の特性を理解した上で、保管と運用を任せられると判断した」
保管と運用。
父は、八歳の娘に解毒法の存在しない毒物を渡そうとしている。
「お父様。この毒は——」
「扱いには注意しろ。吸入型だ。瓶を開ける際は、必ず換気の良い場所で。保管は鍵のかかる場所に。使用は——僕の指示があるまで待て」
使用は指示があるまで待て。
つまり、いずれ使えと言うつもりだ。クロイツァーの件とは別に、死の香を使う場面を想定している。
「……かしこまりました」
小瓶を受け取った。
ガラスが冷たかった。掌の中に収まる小さな瓶。
この中に、前世の私を殺した毒が入っている。
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書斎を出た後、自分の部屋に戻った。
扉を閉め、鍵をかけた。
小瓶を机の上に置いた。黒い粉末が、窓からの光を受けてかすかに輝いている。
手が震えていた。
この瓶の中に、あの処刑台の記憶が詰まっている。甘い花の匂い。
味覚の消失。体が動かなくなっていく恐怖。
首に触れる刃の冷たさ。
深呼吸した。三回。
四回。五回。
考えろ。感情ではなく、頭で考えろ。
父が死の香を渡してきた意味。二つある。
一つは、道具としての信頼。娘がここまで成長したのだから、最も危険な毒物の管理も任せられると判断した。
父は私を「進化した毒殺者」として認めている。
もう一つは試験だ。この毒を預けて、どう扱うかを観察している可能性がある。
使うか、隠すか、報告するか。反応を見て、娘の忠誠度を測ろうとしている。
どちらにせよ、瓶を返すわけにはいかない。返せば、疑われる。
拒否すれば、裏切りと見なされる。
受け取って、保管する。使う振りをする。
ベルモントのときと同じだ。
だが、今回はもう一つの選択肢がある。
死の香を手元に持っている。解毒法の開発のために、実物のサンプルがある。
これまでは推測と文献だけで解毒薬の試作を進めていたが、実物があれば、成分の分析ができる。
毒を薬に変える。
それが私の方法だ。
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クロイツァー男爵の件は、セドリックに相談した。
『父から二度目の暗殺指令。対象はクロイツァー男爵(軍部寄り議員)。
殺すのではなく、一時的な病に伏させよ、とのこと。前回と同じ手法を使えるか検討中。
男爵の人物像と政治的立場について情報を求む。リゼット』
セドリックからの返事は早かった。
『クロイツァー男爵は僕も知っている。軍務省の予算委員。
宰相の予算案に反対しているのは、軍の装備費を守るためで、反宰相というより軍寄りの立場。人としては真面目で融通が利かない。
家族は妻と息子二人。借金なし、スキャンダルなし。
まっとうな人物だ。——前回のベルモントと同じ手が使えるなら、敵を味方に変えた方がいい。
S』
まっとうな人物。
それなら、前回と同じだ。暗殺を「治療」に変え、対象を協力者にする。
だが、問題は時間だ。一ヶ月しかない。
その間に、クロイツァー男爵に接触し、父への偽装報告を作り、男爵を味方にする。同時に、王妃の治療を続け、死の香のサンプル分析を進める。
手が足りない。
「カミラ」
「はい、お嬢様」
「忙しくなるよ」
「いつものことですわ」
カミラが微笑んだ。いつもの笑顔。
どれだけ忙しくても、どれだけ危険でも、この子は笑ってくれる。
「ありがとう」
「何がですか」
「いてくれて」
カミラの目が潤んだ。すぐに手の甲で拭った。
「目にゴミが入っただけですわ」
「嘘つき」
「お嬢様ほどでは」
同じやり取り。何度目だろう。
でも、毎回少しだけ救われる。
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夜、机の上の小瓶を見つめた。
黒い粉末。死の香。
この毒が前世で王妃を殺し、私を処刑台に送った。
今世では、この毒の解毒法を作る。サンプルが手元にある。
分析できる。成分を解明し、中和できる物質を見つける。
毒を渡した父は、娘が自分の道具になることを期待している。
だが、娘はその毒を武器に変える。父を倒すための武器に。
小瓶を鏡台の裏にしまった。鍵のかかる引き出し。
カミラにも見つからない場所に。
紙片に書いた。
——父から死の香のサンプルを入手。分析と解毒法開発に着手する。
——クロイツァー男爵の件:前回同様、暗殺を治療に転換。期限一ヶ月。
——並行タスク:王妃の治療継続、エレノアへの接触準備、死の香の成分分析。
タスクが多すぎる。八歳の体に、これだけの重荷を載せている。
ペンを置いた。手の震えが止まっていた。
いつの間にか、恐怖が覚悟に変わっていた。
怖い。でも、止まれない。
止まったら、前世と同じ場所に立つことになる。処刑台の上に。
窓の外で、夜風が薬草園の葉を揺らした。セージの花の匂いが、微かに漂ってきた。
苦い匂い。薬の匂い。
この匂いがある限り、私は薬師だ。毒殺者ではなく。




