第29話 王妃の目覚め
薬草茶の処方を始めて三週間が経った。
週に二回の納品を続けている。毎回、西庭園の東屋で王妃の目の前で茶を淹れ、まず自分が飲み、それから王妃に差し出す。
手順は変えない。信頼は、手順の一貫性から生まれる。
王妃の体に、変化が現れ始めていた。
「リゼット。今朝——朝食の味が、少しだけ分かったの」
東屋のテーブル越しに、王妃がそう言った。
「味覚が戻ってきましたか」
「全部ではないわ。パンの味は分からない。でも——バターの塩気と、苺ジャムの酸味は感じた。ほんの少しだけど」
塩味と酸味。味覚の回復は、刺激の強い味から戻る傾向がある。
甘味と旨味はまだ先だろう。だが、回復の兆候が出ていること自体が重要だった。
牛乳薊の肝機能強化が、死の香の毒素の排出を促し始めている。完全な解毒ではない。
毒の投与が続いている限り、体内の毒素をゼロにすることはできない。だが、排出速度が投与速度を上回れば——症状は改善に向かう。
「陛下。もう少し続けましょう。味覚が戻ってくるなら、嗅覚の異常も改善する可能性があります」
「あの甘い匂い?」
「はい。あの匂いが——お体の不調の原因と関係しているかもしれません」
直接的には言わなかった。「毒を盛られている」とは。
まだ、そこまでは踏み込めない。王妃が動揺すれば、周囲に悟られる。
毒の投与者が警戒して手段を変える。
段階を踏む。まず症状を改善し、王妃の体力を回復させる。
その上で、真相を伝える。
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侍医長カスパールは、不機嫌だった。
王妃の症状が改善し始めたことで、カスパールの立場は微妙になっていた。二年間治せなかった症状が、八歳の少女の薬草茶で改善している。
それは侍医長の面目を——どころか、存在意義を揺るがすものだった。
「ヴァレンシアの嬢ちゃん」
西庭園から医務局の前を通りかかったとき、カスパールが廊下に立っていた。恰幅のいい体を揺らし、白い髭を撫でながら、こちらを見下ろしていた。
「侍医長殿」
「王妃陛下のご機嫌がよろしいそうだな。お前の茶のおかげだと」
「恐れ入ります」
「一つ聞く。お前の処方に、何が入っている」
「牛乳薊の抽出液、ウラル甘草の煎じ液、活性炭の微粉末。以上です」
「それだけか」
「はい。成分表をお渡しすることもできます」
カスパールの目が、鋭くなった。
「嬢ちゃん。お前の処方が効いているのは認める。だが——何が起きているか、お前には分かっているのか」
「何が——」
「王妃陛下のご病状が改善すれば、喜ぶ者もいるが、困る者もいる。宮廷は——そういう場所だ」
カスパールの声が、低くなっていた。
この男は——知っている。
王妃の病が自然のものではないことを。誰かが意図的に病ませていることを。
知っていて——手を出せずにいる。
「侍医長殿は——」
「余計なことは言うな。老人の独り言だ」
カスパールが背を向けて歩き去った。白衣の背中が、廊下の奥に消えていく。
あの男は、味方にも敵にもなりうる。今の段階では——見守ることしかできない。
ただ、完全な無関心ではなかった。「困る者もいる」と警告してくれたのは、微かな善意か、それとも自分自身の保身か。
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王妃の改善は、宮廷の中で少しずつ話題になり始めていた。
サロンで、ヘルムガルト夫人が言った。
「最近、王妃陛下のお顔色がよろしいとか。ヴァレンシア家のお嬢様の薬草茶のおかげですって?」
銀髪の宰相夫人の目は、穏やかに笑っていた。だが、穏やかさの裏に情報収集の意図が透けていた。
「わずかな改善に過ぎません。まだまだこれからです」
「ご謙遜を。八歳の宮廷薬師なんて、前代未聞ですわ。お父上もお喜びでしょう」
父。
その名前が出た瞬間、背中を冷たいものが走った。
父は——まだ、何も言っていない。宮廷薬師見習いの任命について、父から直接のコメントはなかった。
それが、逆に怖い。喜んでいるのか、警戒しているのか。
沈黙の裏で、何を考えているのか。
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三日後、王妃から呼び出しがあった。
いつもの東屋ではなく、王妃の私室だった。侍女に案内されて奥の部屋に入ると、王妃が寝台の端に座っていた。
表情が、いつもと違っていた。嬉しそうだった。
目に光があり、頬に血の色がある。
「リゼット。今日は特別な報告があるの」
「何でしょう」
「昨日——歩いたの。庭を。一人で」
「一人で——」
「侍女を断って、自分の足で。東屋まで。往復で三百歩。息は切れたけれど——歩けた」
三百歩。
二週間前まで、王妃は五十歩で休憩が必要だった。それが三百歩に伸びている。
体力が回復している。
「陛下——」
「嬉しいの。こんなに体が動くのは、もう何ヶ月ぶりか分からないわ。セドリックに話したら、あの子——」
王妃の声が、詰まった。
「あの子が、泣いたの」
セドリックが泣いた。あの氷のような表情の少年が。
「母上が歩いたと聞いて——黙って、じっと立っていて、それから——涙がぽろっと」
王妃の目からも、涙が溢れていた。
「あの子が泣くのを見たのは、三歳の頃以来よ」
私も、泣きそうだった。
だが、泣くわけにはいかなかった。薬師は泣かない。
患者の前では。
「陛下。改善は続いています。ですが——」
「ですが?」
「油断はできません。お体の回復を——快く思わない方が、宮廷にはいるかもしれません」
王妃の表情が、わずかに曇った。
「分かっているわ。——カスパールにも、似たようなことを言われた」
カスパールが王妃にも警告していた。あの男は、やはり何かを知っている。
「陛下。今後、薬草茶の処方を少し変えます。解毒の成分を強化しつつ、体力の回復を促す配合に切り替えます」
「任せるわ、リゼット。もう——あなたを信じているから」
王妃の手が、テーブル越しに私の手を握った。
前回より、握る力が強くなっていた。
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帰り道、セドリックが門まで来ていた。
暗い紫の瞳が——少しだけ、赤かった。
「泣いたの」
「……誰から聞いた」
「王妃陛下から」
「母上は余計なことを」
セドリックが視線を逸らした。耳の先が赤い。
「泣いて、いいと思うよ」
「……」
「お母上が歩けるようになったんだから。嬉しいでしょう」
「……うるさい」
セドリックが足早に去っていった。
その背中が——いつもより少し軽く見えた。
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屋敷に戻り、紙片に書いた。
——王妃の改善報告。味覚の部分回復、歩行距離の増加(300歩)。
——薬草茶の効果が継続している。死の香の毒素の排出が投与速度を上回り始めた可能性。
——侍医長カスパール:状況を把握している。直接的な協力はないが、敵ではない。
——リスク:改善が目立ちすぎると、投与者が対応を変える。処方の変更を急ぐ。
——セドリック:泣いた。
最後の一行は、記録として必要ない情報だった。
でも、書いておきたかった。あの少年が泣いたこと。
母親の回復を聞いて涙をこぼしたこと。
それは——この戦いが正しい方向に進んでいる証だから。




