第28話 メルツ香房
カミラと二人で、王都の南区に出た。
変装した。リゼット・ヴァレンシアとして歩けば、人目を引く。
銀色に近い白金の髪は目立ちすぎるから、カミラが用意してくれた茶色のウィッグを被った。服は侍女用の質素なワンピース。
靴はカミラのお古。
「お嬢様、そのお姿だと——普通の女の子みたいですわ」
「普通の女の子だよ、中身は」
「嘘おっしゃい」
カミラも地味な服に着替えている。二人並んで歩けば、商家の姉妹に見えなくもない。
南区は職人街だ。織物屋、靴屋、鍛冶屋が軒を連ね、通りには職人たちの声と金属を叩く音が充満している。
北区の貴族街とは空気が違う。人の密度が高く、匂いが濃い。
鉄と革と炭の匂いに、食べ物の匂いが混じっている。
「織物通りは、この先ですわ」
カミラが手書きの地図を見ながら案内してくれた。セドリックからもらった情報では、グスタフ・メルツの調香師の店は織物通りの東端にあるはずだった。
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メルツ香房は、思っていたより小さな店だった。
木造の二階建て。一階が店舗で、二階が住居か作業場だろう。
看板は色褪せていて、「メルツ香房——香料・調合品」と書かれている。窓に薄い布がかかっていて、中は見えない。
扉を開けた。
匂いが——壁のように押し寄せてきた。
百種類を超える匂いが、狭い室内で混ざり合っている。ラベンダー、ローズ、ジャスミン、白檀、麝香。
花の匂い、木の匂い、動物性の匂い。どれも単独では心地よいはずだが、これだけ重なると暴力的だった。
鼻の奥が痺れた。
「お嬢様、大丈夫ですか」
「うん。——すごい匂いだね」
店内は薄暗かった。棚に小瓶がぎっしりと並んでいて、瓶の中にはそれぞれ異なる色の液体が入っている。
奥にカウンターがあり、秤と乳鉢が置かれていた。
カウンターの奥から、男が現れた。
四十代後半。痩せ型。
髪は短く刈り込まれ、白髪が混じっている。目は細く、鼻が大きい。
職人の手——指先が太く、爪の間に何かの粉末が詰まっている。
この男を——前世では知らない。
グスタフ・メルツ。前世のリゼットの記憶に存在しない人物。
歴史のズレ。
「いらっしゃい。——お嬢さん方、何をお探しで」
声は低く、穏やかだった。商売人の愛想の良さはないが、不快でもない。
職人が客に向ける、事務的な丁寧さだった。
「母の誕生日に、香水を贈りたいのです。花の香りで——甘すぎないものを」
カミラが事前に考えてくれたカバーストーリーだ。
「花の香り。甘すぎないもの、ね」
グスタフが棚から小瓶を三本取り出した。
「これはラベンダー基調。落ち着いた香りだ。こちらはベルガモットにネロリを合わせたもの。もう一本は——」
三本目の瓶を開けた瞬間——鼻が反応した。
甘い匂い。花の匂い。
だが、ただの花ではない。匂いの構造の中に、知っている成分が隠れていた。
夜来花。
死の香の原材料の一つである夜来花の、希薄な香りが、この香水の中に含まれている。
心臓が跳ねたが、顔には出さなかった。
「この三本目は、何の花ですか」
「南方の花だ。名前は——まあ、一般には馴染みがない。うちの仕入先から入る希少な原料でね」
「仕入先」
「コルサ商会。南方の港町を拠点にしている輸入業者だ」
コルサ商会。
名前が出た。探すまでもなく、グスタフ自身が口にした。
「コルサ商会さんの香料は、品質が良いのですか」
「悪くない。ただ——扱いが難しい原料も多い。南方の植物は気候が違うから、保存にも気を遣う」
グスタフの声のトーンが、微かに変わった。「扱いが難しい」という言葉に、二重の意味が含まれている可能性がある。
カミラが隣で香水の匂いを嗅ぎながら、「いい香り」と呟いていた。カミラは気づいていない。
この店が持つ裏の意味に。
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香水を一本買った。ラベンダー基調のもの。
カミラの母——ではなく、屋敷で使う消臭用にする。
店を出た後、路地裏に入ってからカミラに言った。
「カミラ。あの店の二階を、外から見てほしい」
「二階を?」
「窓がいくつあるか。煙突の有無。荷物の搬入口があるか」
「……お嬢様、何か分かったんですか」
「まだ確定していない。でも、あの店は——表の商売だけじゃない可能性がある」
カミラの表情が引き締まった。この子は、危険を察知する嗅覚がある。
「分かりました。少し離れたところから見てきます」
カミラが通りに戻り、香房の建物を遠目に観察し始めた。
私は路地裏に残り、紙片に書いた。
——メルツ香房。織物通り東端。
二階建て。——グスタフ・メルツ。
前世の記憶に存在しない人物(確認済み)。——香水に夜来花の成分が含まれている。
仕入先はコルサ商会。——グスタフ自身がコルサ商会の名前を出した。
隠す気がないのか、信頼できる客にだけ話すのか。——店の裏に、調合設備がある可能性。
死の香の製造拠点?
カミラが戻ってきた。
「お嬢様。二階には窓が三つ。裏手に小さな扉と——煙突があります。普通の住居にはない大きさの煙突です。蒸留器を使うような」
「蒸留器」
「はい。南区の染物屋さんにある煙突と似ていました。染料を煮出すときに使う——」
蒸留器。香料の精製に使う設備だ。
調香師が自前の蒸留器を持っているのは不自然ではない。だが、住居兼店舗の二階に設置するほどの規模ということは——量産体制がある。
「カミラ、ありがとう。帰ろう」
「はい。——お嬢様、怖いことが起きてるんですか」
「起きてる。でも、カミラがいるから大丈夫」
「お世辞を言っても何も出ませんわ」
「お世辞じゃない。本気」
カミラが耳まで赤くなった。
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帰りの道すがら、考えを整理した。
グスタフ・メルツ。調香師。
コルサ商会から南方の植物原料を仕入れ、香料を精製している。その中に、夜来花の成分が含まれている。
死の香の製造者は、ch15で父の書斎に来たフードの男だった。あの男がグスタフなのか。
体格は似ている。痩せ型、四十代後半。
だが、あの日はフードで顔が隠れていて、確認できなかった。
声は——どうだったか。
思い出した。フードの男の声は低く、掠れていた。
グスタフの声も低く、穏やかだった。掠れてはいなかった。
だが、意図的にトーンを変えている可能性はある。
確定はできない。だが、状況証拠は積み上がっている。
グスタフ・メルツ。コルサ商会。
ヴァレンシア公爵。死の香。
線が繋がりかけている。
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屋敷に戻り、セドリックに手紙を書いた。
『メルツ香房を訪問した。コルサ商会からの仕入れを確認。
香水に夜来花の成分あり。二階に蒸留設備。
裏の製造拠点の可能性。グスタフと「死の香」の製造者の同一性は未確定だが、状況証拠は強い。
次の一手について相談したい。リゼット』
手紙を封じた後、窓の外を見た。
南区の方角に、煙突の煙は見えない。距離がありすぎる。
だが、あの店の二階で——何かが作られている。花の匂いに隠されて、毒が生まれている。
握った拳の中に、ラベンダーの香水の残り香がまだ漂っていた。




