第27話 聖女の涙
その夜、王宮に用があった。
王妃への薬草茶の二回目の納品だ。週に二回、西庭園の東屋で王妃に茶を淹れる。
今回は夕方の約束だったが、王妃の体調が崩れて延期になり、薬草茶だけを侍女に預けて帰ることになった。
西庭園から正門への帰り道、回廊を歩いていた。夕暮れの王宮は、昼間とは違う顔をしていた。
壁に掛かった燭台の火が、石壁に揺れる影を落としている。侍女も衛兵も少ない時間帯で、回廊はほとんど人気がなかった。
角を曲がったとき——声が聞こえた。
泣き声だった。
小さく、抑えた泣き声。声を殺そうとして、殺しきれていない。
子供の声だ。
足を止めた。
声は、回廊の脇にある小さな礼拝室から聞こえていた。扉が細く開いている。
暗い室内に、蝋燭が一本だけ灯っていた。
覗く気はなかった。他人の涙を盗み見る趣味はない。
だが——声に聞き覚えがあった。
扉の隙間から、金色の髪が見えた。
エレノアだった。
白い修道服の裾が、石の床に広がっている。礼拝室の祭壇の前に膝をついて、両手を組んで額に押し当てていた。
肩が震えている。嗚咽を噛み殺す音が、石壁に反響していた。
聖女が、泣いていた。
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動けなかった。
立ち去るべきだ。見てはいけないものを見ている。
ここに私がいたことを知られたら、厄介なことになる。
だが、足が動かなかった。
エレノアの背中が、小さかった。サロンで見た堂々たる聖女の姿とは別人のように、縮こまっている。
修道服の肩の線が華奢で、十二歳の少女の体格がそのまま露わになっていた。
泣き声の合間に、言葉が漏れていた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい」
誰に謝っているのか。神にか。
それとも——。
「治せなくて、ごめんなさい。私には——本当は、何も」
声が途切れた。嗚咽が大きくなり、言葉が溶けて消えた。
治せなくて。
本当は、何も。
エレノアは自分の「奇跡」が偽りであることを——知っている。
知った上で、泣いている。治せない自分を責めて、偽りの奇跡を見せ続けなければならない自分を呪って、暗い礼拝室で一人で泣いている。
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足音を立てずに、その場を離れた。
回廊の先の角を曲がるまで、呼吸を止めていた。角を曲がってから、壁に背をつけて息を吐いた。
心臓が速い。
エレノアの涙は、演技ではなかった。
サロンでの微笑みは完璧な演技だった。穏やかで、慈愛に満ちて、計算を感じさせない笑顔。
だが、あの礼拝室の涙は——演じられるものではなかった。声を殺して泣く人間の背中に、演技の余裕はない。
エレノアは被害者だ。
少なくとも、完全な加害者ではない。偽りの奇跡を自ら望んで演じているのではなく、誰かに強いられて演じている。
そして、演じるたびに自分を責めている。
誰が強いているのか。
父——ヴァレンシア公爵。白根草の供給元として、最も疑わしい。
公爵が聖女に薬を供給し、「奇跡」を演じさせ、教会と宮廷の両方に影響力を行使している。
だが、なぜエレノアは従っているのか。逃げればいい。
拒否すればいい。聖女の地位を捨てて、偽りの奇跡をやめればいい。
やめられない理由がある。
脅迫か。人質か。
あるいは——エレノア自身が抱える、もっと深い事情か。
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屋敷に帰り、ベッドに座って考えた。
前世のエレノアを思い出す。
聖女エレノア・クレスティア。孤児として教会に引き取られ、幼少期から「神の子」として育てられた。
十歳で聖女に認定され、十二歳で宮廷に出入りするようになった。
前世のリゼットは、エレノアと個人的な会話を一度もしなかった。聖女は遠い存在で、王妃の治療に関わるときだけ名前を聞く程度だった。
エレノアがどんな人間で、何を考え、何に苦しんでいるのか——前世のリゼットは知ろうともしなかった。
今世では——知ってしまった。
あの涙を見てしまった。
見なかったことにはできない。見たからには、判断しなければならない。
エレノアを敵として扱い続けるか。それとも——。
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翌朝、セドリックに手紙を書いた。
『エレノアについて、新しい情報がある。直接話したい。
次の薬草茶の納品日に、西庭園で。リゼット』
セドリックからの返事は夕方に届いた。
『了解。庭園の南端の温室で待つ。
周囲に人がいない場所だ。S』
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温室は、ガラス張りの小さな建物だった。冬でも熱帯の植物が育つように設計されていて、中は蒸し暑い。
背の高いシダ類が天井近くまで伸び、葉の隙間から光が斑に差し込んでいた。
セドリックが棚の前に立ち、鉢植えの葉を観察していた。
「これ、夜来花の近縁種だ」
「えっ」
駆け寄った。セドリックが指差した鉢植えに、白い蕾がついていた。
花弁は閉じている。夜にしか開かない花——夜来花。
死の香の原材料。
「王宮の温室に、なぜ」
「元々は観賞用だ。南方から持ち込まれた希少種として、植物目録に記載がある。だが——これは近縁種であって、死の香の原材料になる品種とは異なる。成分が違う」
セドリックの知識は正確だった。この少年は、私が死の香について話して以来、独自に調査を続けている。
「エレノアの件を話す」
礼拝室で見たことを伝えた。泣いていたこと。
「治せなくて、ごめんなさい」と言っていたこと。偽りの奇跡を自覚していること。
セドリックの表情は変わらなかった。だが、瞳の奥に何かが動いた。
「操られている」
「そう思う。自発的にやっているなら、あんな泣き方はしない」
「供給元は」
「まだ確定していない。だけど——」
「ヴァレンシア公爵」
「可能性が高い」
セドリックが温室のガラスの向こうを見た。西庭園の緑が、午後の光の中で揺れている。
「エレノアを——味方にできると思うか」
核心の問いだった。
「分からない。でも——敵のままにしておくよりは、味方にする方がいい。エレノアが公爵家の支配下にあるなら、その支配を解くことが、公爵家を追い詰めることにもつながる」
「リスクは」
「大きい。エレノアが罠の可能性もある。泣いていたのが演技だった可能性も、ゼロではない」
「君はどう見る」
「演技じゃなかった」
セドリックがこちらを見た。暗い紫の瞳が、私の言葉を量っていた。
「根拠は」
「声を殺して泣く人間の背中に、演技の余裕はない。——あれは、本物の涙だった」
セドリックが長い沈黙の後、小さく頷いた。
「分かった。——ただし、接触するなら慎重に。エレノアの周囲には、公爵家の監視がある可能性がある」
「分かってる」
「もう一つ。宮廷医務局の薬品庫の在庫記録を手に入れた。白根草の在庫と消費量に、齟齬がある。月に二十リットルの精製液が記録上は使用されているが、実際の医療記録と照合すると五リットル分しか使途が確認できない」
「十五リットルが消えている」
「どこかに流れている。流出先の記録はない」
十五リットルの白根草精製液。毎月。
それだけの量があれば、エレノアの「奇跡」を何十回も演じられる。さらに余りが出る。
「余った分は——別の用途に使われている可能性がある」
「調べる」
セドリックが頷き、温室を出ていった。
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一人になった温室で、夜来花の近縁種の鉢植えを見つめた。
白い蕾が、閉じたまま沈黙している。夜が来れば開く。
闇の中でだけ咲く花。
エレノアも——闇の中でだけ、本当の顔を見せている。
紙片に書いた。
——エレノアの涙を目撃。偽りの奇跡への自責。
被害者の側面が強い。——操り手は公爵家と推定(未確定)。
——宮廷医務局から白根草精製液が月15リットル流出。使途不明。
——エレノアとの接触は慎重に。だが——接触する。
最後の一行を書いてから、ペンを止めた。
接触する理由は、戦略的なものだけではなかった。
あの泣き声が、耳から消えない。




