第22話 聖女の光
三日後のサロンで、それは起きた。
中央のソファに座ったエレノアの前に、車椅子の老婦人が運ばれてきた。ブランケンハイム伯爵夫人。
六十代後半。両足が不自由で、五年前から歩けないという話だった。
「エレノア様、どうか——お力を」
伯爵夫人の声が震えていた。その横に立つ若い侍女も、目を伏せている。
エレノアが車椅子の前に膝をついた。白い修道服の裾が、大理石の床に広がった。
金の髪が流れ落ちて、伯爵夫人の膝を覆った。
「お手を」
伯爵夫人の両手を、エレノアの両手が包んだ。
碧い瞳を閉じた。
サロンが、静まった。茶碗を置く音も、衣擦れの音も消えた。
三十人以上の貴婦人と令嬢が、呼吸を止めて見守っている。
エレノアの唇が、祈りの言葉を紡いだ。声にならない声。
唇だけが動いている。
光は見えなかった。劇的な演出はなかった。
ただ——空気が変わった。サロンの温度が、ほんの少しだけ上がったように感じた。
あるいは、そう感じたかっただけかもしれない。
三十秒ほどが過ぎた。
エレノアが目を開けた。
「ブランケンハイム様、右足を——動かしてみてください」
伯爵夫人が息を呑んだ。恐る恐る、ブランケットの下で右足を動かそうとした。
膝が、上がった。
五年間動かなかった膝が、震えながら持ち上がった。
サロンが、どよめいた。
「聖女様——」
伯爵夫人が泣いていた。エレノアの手を握りしめ、嗚咽を漏らしている。
周囲の貴婦人たちが口々に「奇跡だ」「聖女様の御業だ」と囁き合う。
エレノアは穏やかに微笑んでいた。碧い瞳に涙が光っている。
——泣いているのか、泣いて見せているのか。
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私はその光景を、窓際の席から見ていた。
目を凝らしていた。エレノアの手の動き、指の位置、伯爵夫人の表情の変化。
見落としてはいけないものがあるはずだった。
だが、サロンの距離と角度では、細部が見えなかった。エレノアの両手が伯爵夫人の手を包んでいる間、何が起きたかを確認できなかった。
「リゼット様——」
マリアンヌが、感動した声で言った。
「すごい。本当にすごい。五年間も歩けなかった方が、足を動かせるなんて」
「そうね」
「信じられないですわ。聖女様のお力って、本当にあるんですね」
マリアンヌは信じている。この場にいるほぼ全員が信じている。
目の前で「奇跡」が起きたのだから。
信じない私の方が、異端だった。
エリーゼが、膝の上で指を組んでいた。ノートを出したい衝動を必死に抑えているのが分かった。
この子は記録者だ。目の前の出来事を記録したくて仕方がない。
「エリーゼ」
「はい」
「帰ってから、今日見たことを全部書いて。時間、場所、伯爵夫人の症状、エレノア様の動作、所要時間。全部」
エリーゼの目が光った。
「はい。——分かりました」
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サロンの後、廊下を歩いていると、後ろから足音がした。
「ヴァレンシア様」
振り返った。
エレノアが立っていた。侍女を二人従え、白い修道服が廊下の光を受けて輝いていた。
近くで見ると、肌の透明感が際立っていた。ほとんど毛穴が見えない。
産毛すら光に溶けている。作り物のように完璧な容姿だった。
「お初にお目にかかります。リゼット・ヴァレンシアです」
「エレノア・クレスティアです。お噂はかねがね」
噂。どんな噂だ。
毒花の令嬢。暗殺者の娘。
公爵家の異端児。どれも正確で、どれも不正確だ。
「光栄です」
「先ほどの治療、ご覧になりましたか」
「ええ。素晴らしいお力ですね」
「ありがとうございます。でも——私の力ではないのです。神の御業を、私はただ伝えているだけですから」
台詞が、前世と同じだった。
聖女エレノアは、いつもこう言う。「私の力ではない」「神の御業だ」と。
謙遜に聞こえるが、反論を封じる効果がある。奇跡を疑うことは、神を疑うことになる。
「リゼット様は、お体がお丈夫でいらっしゃいますか」
「おかげさまで」
「何かお辛いことがございましたら、いつでもお声がけくださいませ。私にできることがあれば——」
「お気持ちだけで十分です」
会話を早めに切り上げた。長く話すと、尻尾を掴まれる。
エレノアの観察力がどの程度かは、まだ測れていない。
エレノアが微笑んで去っていった。金の髪が、廊下の空気を薙いで揺れた。
すれ違いざまに——匂いを嗅いだ。
花の匂い。甘くて、柔らかくて、どこかの庭園で嗅いだことのある匂い。
ローズウォーターか。いや、もう少し複雑な香り。
何かの薬草が混じっている。
薬草。
足を止めた。
今の匂いの中に、知っている成分があった。微かだが、確実に。
カモミール、ラベンダー、そして——白根草。
白根草。
筋弛緩作用のある薬草だ。高濃度で使えば筋肉の緊張を解き、関節の可動域を一時的に広げる。
経皮吸収が可能で、手から手へ——触れるだけで、成分を移せる。
エレノアが伯爵夫人の手を握ったとき。あの祈りの三十秒間に。
白根草の濃縮液が、エレノアの掌から伯爵夫人の皮膚に浸透したとしたら。
五年間固まっていた膝の筋肉が、薬理的に弛緩して、一時的に動くようになる。奇跡ではなく、薬だ。
ただし、効果は一時的だ。白根草の筋弛緩作用は数時間で切れる。
伯爵夫人の膝は、明日には元に戻る。
だが、「足が動いた」という事実は消えない。一度動いた。
聖女の祈りで動いた。その記憶が残る。
次に動かなくなったとき、それは「信仰が足りないから」と解釈される。
完璧な仕組みだった。
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屋敷に戻り、薬草園に直行した。
白根草は栽培していない。だが、文献に記載がある。
父の書斎で読んだ薬物辞典に、白根草の薬理作用と処方が載っていた。
部屋に戻り、紙片を取り出した。
——エレノアの「奇跡」の正体。——白根草の濃縮液の経皮投与と推定。
——エレノアの手から対象者の皮膚へ、祈りの間に成分が移行。——筋弛緩作用で関節可動域が一時的に回復。
——効果は数時間。不可逆的な治癒ではない。
——エレノアが独自に調合しているか、供給者がいるか。白根草の入手元を確認する必要あり。
ペンを止めた。
問題は、白根草だけではない。エレノアの「奇跡」が薬物による偽装だとして、その薬物をエレノア自身が調合しているとは考えにくい。
十二、三歳の少女が、白根草の濃縮液を独力で精製できるか。
誰かが、エレノアに薬を供給している。
誰が。
コルサ商会。父の取引相手。
裏で薬物と毒物の流通に関わっている商会。
聖女の奇跡と、父の毒物取引が、同じ流通経路で繋がっている可能性。
背筋が冷えた。
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夕食の前に、セドリックに手紙を書いた。
暗号は使わない。まだ二人の間で暗号体系を確立していない。
代わりに、薬草の処方箋に見せかけた文面にした。
『セドリック様。先日のお茶会で興味深い薬草を見かけました。
白根草という品種で、筋肉の緊張を和らげる効果があるそうです。入手経路にご興味があれば、次の機会にお話しさせてください。
リゼット』
セドリックなら、「白根草」と「入手経路」の組み合わせから、私が何を伝えようとしているか察するだろう。
手紙を封じ、カミラに渡した。
「王宮のセドリック殿下宛てに。急ぎではないけれど、明日中に届くように」
「かしこまりました」
カミラが封書を受け取り、部屋を出ていった。
一人になった部屋で、天井を見上げた。
聖女エレノア。
前世では、彼女の奇跡を一度も疑わなかった。信じていた。
王妃の病を治せるのはエレノアだけだと信じ、エレノアの言葉に従い、最後は「王妃暗殺未遂」の罪を着せられて処刑された。
今世では——疑っている。証拠はまだ推測の段階だが、確信に近いものがある。
白根草の匂いは、鼻が覚えている。薬師の鼻は、嘘をつかない。
だが、エレノアを敵として見るだけでは足りない。
前世の記憶の中のエレノアは——いつも、どこか苦しそうだった。笑顔の裏に、疲弊があった。
奇跡を求められるたびに、少しずつ消耗していく少女の姿。
操られているのか。利用されているのか。
それとも——自らの意志で偽っているのか。
まだ、分からない。
分かるまでは、距離を取る。観察を続ける。
窓の外で、春の風が木の枝を揺らした。新緑の匂いと——かすかに、甘い花の匂い。
アカシアの花だ。ただの花だ。
自分にそう言い聞かせて、紙片をベッドの脚の隙間にしまった。




