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毒花令嬢は二度目の人生で復讐を選ばない  作者: 黒豆子犬
2章 社交界の毒と蜜

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第21話 蜜の表層

社交界は、戦場より匂いが甘い。


春の宮廷サロンは、毎週木曜に開かれる。王宮西翼の大サロン。


白い壁、金箔の額縁、天井画に描かれた女神が、集まった貴婦人たちを見下ろしている。


二度目の出席だった。初回は舞踏会で、あれは挨拶の場に過ぎない。


サロンが本番だ。ここで茶を飲み、菓子を摘まみ、笑顔の裏で情報を売り買いする。


「リゼット様、こちらへどうぞ」


マリアンヌが席を取っておいてくれていた。窓際の小テーブル。


四人掛け。マリアンヌの隣にエリーゼが座っていて、膝の上にノートを広げている。


「エリーゼ、ノート」


「え? あ——すみません」


エリーゼが慌ててノートを鞄にしまった。サロンで記録を取る令嬢は怪しまれる。


エリーゼはその癖を分かっていながら、やめられないらしい。


「いいよ。でも、見える場所には出さないで」


「はい、気をつけます」


ソフィアが遅れてやってきた。息を切らしている。


「すみません。入り口で名前の確認に時間がかかって——男爵家だと、受付の対応が少し」


「次からは私の名前を出して。ヴァレンシア公爵家の随伴者だと言えば、止められない」


ソフィアの目が大きくなった。


「そんな——お嬢様のお名前を、私が使っていいんですか」


「使って。そのために友達になったんだから」


ソフィアの唇が震えた。泣きそうな顔を必死に抑えている。


この子は感情が表に出やすい。サロンでは不利だが、人として好ましい性質だった。


---


サロンの地図を頭の中に描いた。


中央のソファには、ヘルムガルト宰相の夫人が座っている。五十代、銀髪を高く結い上げ、全身を深紅のドレスで包んでいた。


その周囲を、十人ほどの貴婦人が取り囲んでいる。宮廷サロンの中心人物だ。


対面の壁沿いには、軍部系の貴族夫人たちが小さな輪を作っていた。質素なドレス、控えめな宝石。


声が低い。


南窓側に、教会関連の貴族夫人。聖堂に寄進をしている家系の夫人たちで、聖女エレノアの後援者が多い。


そして、北側のテーブルに——フローリア・ヘルムガルトがいた。


宰相令嬢。前世で私を社交界から孤立させた張本人の一人。


今は十歳。赤毛を肩で切り揃え、琥珀色の瞳が鋭い光を放っている。


母親譲りの深紅のドレスに、年齢に不釣り合いなルビーの首飾り。


フローリアの周りには、五人の令嬢がいた。侯爵家、伯爵家の娘たち。


フローリアの笑い声に合わせて笑い、フローリアの仕草を真似て扇を開く。子供の社交界にも序列がある。


フローリアの視線が、こちらに向いた。


目が合った。


前世の記憶が蘇る。園遊会で「毒花の娘」と呼ばれた日。


フローリアが令嬢たちを煽り、リゼットの周りから人を遠ざけた日。十四歳のフローリアは残酷で巧妙だった。


十歳のフローリアは——まだ、残酷さに磨きがかかっていない。


フローリアが立ち上がり、こちらに歩いてきた。


---


「ごきげんよう、リゼット様。舞踏会のお姿、とても素敵でしたわ」


笑顔だった。声は甘く、姿勢は優雅で、どこからどう見ても社交界の作法に則った挨拶だった。


「ありがとう、フローリア様。お母上の隣のお席、お似合いでした」


「あら、見ていてくださったの。嬉しいわ」


フローリアの目が笑っていなかった。唇は弧を描いているが、琥珀色の瞳は冷えている。


観察している目だ。品定めの目。


「ところで——そちらのお嬢様方は?」


フローリアの視線が、マリアンヌ、エリーゼ、ソフィアの三人を順に撫でた。


「お友達よ。マリアンヌ・リントベルグ、エリーゼ・ヴェスターハーゲン、ソフィア・クランツ」


「まあ。伯爵家に、子爵家に——男爵家?」


最後の「男爵家」に、棘があった。声のトーンが微かに上がり、眉が片方だけ持ち上がった。


ソフィアの肩が強張るのが分かった。


「ええ。ソフィアは学問に秀でていて、とても聡明な方よ」


「ああ、勉強がお好きなのね。ソフィア様は将来、家庭教師でもなさるのかしら」


侮辱だった。貴族令嬢に「家庭教師」は、没落の暗示だ。


フローリアは笑顔のまま、さらりと毒を滑り込ませてきた。


ソフィアが俯いた。


「フローリア様」


声を落とした。甘さを残したまま、温度だけを下げる。


父がよく使う話法だった。父の模倣は嫌だったが、使える道具は使う。


「ソフィアの家系は、建国期に国境防衛を担った武門の一族よ。ご存知なかった? 歴史のお勉強が足りないのかもしれないわね。——ああ、でも、お母上がお忙しいと、教育の時間も限られますものね。仕方ないわ」


宰相夫人が社交で多忙なことは、宮廷では周知の事実だった。娘の教育に手が回っていないという暗示。


フローリアの笑顔が、一瞬だけ凍った。


一瞬で持ち直した。笑顔の復元が速い。


十歳にしては、訓練されている。


「あら、ご親切にありがとう。勉強になりましたわ。——では、失礼いたします」


踵を返して去っていった。赤毛が揺れ、ルビーの首飾りが光を弾いた。


---


フローリアが戻った北側のテーブルで、令嬢たちがひそひそと話し始めた。視線がこちらに向いている。


「リゼット様、ありがとう——ございます」


ソフィアの声が、掠れていた。


「お礼はいらない。事実を言っただけ」


「でも、あんなに——すらすらと」


「ソフィアのおうちの歴史は、前に手紙で教えてくれたでしょう。覚えていただけよ」


エリーゼがノートを膝の下に隠しながら、小声で言った。


「フローリア様、怒っていましたよね。後が怖くないですか」


「怖いよ。だから、備える」


マリアンヌが不安そうな顔をしていた。


「備えるって、何を——」


「まず、情報。フローリア様の周りにいる令嬢たちの名前と家を、全員分把握したい。エリーゼ、それは帰ってからノートに書いて」


「はい」


「マリアンヌは、フローリア様の周辺の噂を集めて。友達づきあいの範囲、好きなもの、嫌いなもの」


「分かりました。でも——敵になるんですか、フローリア様と」


「まだ分からない。でも、知らないまま戦場に立つのが一番危ない」


三人の表情が、少しずつ引き締まった。社交界のルールを、この子たちはまだ肌で知らない。


ただ、私が「怖い」と言ったことで、遊びの延長ではないと感じ始めている。


---


サロンの後半、紅茶の二杯目を飲んでいるとき、空気が変わった。


入口の扉が開き、侍女が二人、先導するように歩いてきた。その後ろから、少女が一人。


白い修道服に似た衣装。金色の長い髪が腰まで流れていて、歩くたびに光を纏うように揺れている。


碧い瞳。頬の薄い薔薇色。


十二歳か十三歳に見えるが、身のこなしに大人びたものがあった。


サロンの空気が、変わった。


ヘルムガルト夫人が立ち上がった。中央ソファから腰を上げるのは、よほどの相手だけだ。


「エレノア様、ようこそいらっしゃいました」


聖女エレノア・クレスティア。


前世で——私を処刑台に送った、偽りの奇跡の持ち主。


心臓が、一拍だけ跳ねた。


エレノアの碧い目が、サロンを見渡した。穏やかな微笑を浮かべている。


貴婦人たちが次々と立ち上がり、挨拶に向かう。エレノアはそのひとりひとりに、丁寧に頭を下げていた。


あの笑顔を、知っている。


前世のエレノアも、同じ笑顔だった。誰にでも優しく、誰にでも微笑み、そして——誰にでも「奇跡」を見せた。


「リゼット様、あの方が——」


マリアンヌが囁いた。


「ええ。聖女エレノア」


「お美しい方……」


マリアンヌの声に、素直な感嘆が混じっていた。エレノアの容姿は確かに人目を引く。


金の髪が光に透けて、肌が内側から発光しているように見える。演出か、体質か。


どちらにしても、人を魅了する力がある。


エレノアが、中央のソファに導かれた。ヘルムガルト夫人の隣に座り、紅茶を受け取った。


その仕草の一つ一つが柔らかく、計算を感じさせない。


計算を感じさせないことが、最も巧妙な計算だった。前世の経験で、それは知っている。


---


サロンが終わり、馬車で屋敷に戻った。


カミラが部屋で待っていた。


「お帰りなさいませ。サロンはいかがでしたか」


「収穫はあった」


ドレスを脱ぎ、部屋着に着替えた。隠しポケットの中身——小瓶と紙片を確認する。


小瓶は使わなかった。紙片には、サロンで得た情報を走り書きしてある。


机に座り、紙片を広げた。


宮廷サロンの権力地図。ヘルムガルト夫人を中心とした宰相派。


軍部系の一派。教会系の一派。


この三つが大きな勢力で、残りの貴婦人たちはどこかに属しているか、どこにも属さずに漂っている。


フローリアは宰相派の次世代の筆頭。教育系令嬢たちの中では最も影響力がある。


ただし、母親の権威に依存している部分が大きい。母親を経由せずにフローリアだけを相手にするなら、手の打ちようはある。


エレノアは——独立した存在だった。どの派閥にも属さず、全ての派閥から歓迎されている。


聖女という地位が、政治的な超越性を与えている。


紙片の余白に書き足した。


——エレノアの「奇跡」。次回のサロンか、公の場で、必ず見る機会がある。


そのとき、何が起きているかを目で確かめる。


ペンを置いた。


窓の外では、春の風がアカシアの花を揺らしていた。甘い匂いが、微かに漂ってくる。


甘い匂い。


一瞬だけ、死の香の記憶が蘇った。


首を振った。アカシアだ。


ただの花だ。


カミラが淹れてくれた薬草茶を飲んだ。カモミールとレモンバーム。


温かくて、苦くて、甘い。


「お嬢様、表情がお硬いですわ」


「……そう?」


「サロンで何かありましたか」


「少しだけ。でも、大丈夫。カミラのお茶があれば大丈夫」


カミラが笑った。その笑顔を見て、自分の肩から力が抜けるのが分かった。


大丈夫。まだ始まったばかりだ。


社交界という毒の海に飛び込んだ。だが、前世のリゼットとは違う。


今の私には、地図がある。味方がいる。


そして——毒を見分ける目がある。


蜜の表層の下に、何が沈んでいるか。これから、一枚ずつ剥がしていく。

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