第20話 新しい花
王宮の門は、朝陽を受けて白く光っていた。春の空気が、馬車の窓から流れ込んでくる。
冬の重さが嘘のように消え、風に花の匂いが混じっている。桜ではない。
この国には桜がない。白いアカシアの花が、街道の両脇で満開を迎えていた。
隣にカミラが座っていた。カミラも正装している。
侍女用の濃紺のドレスに白いエプロン。髪をきちんとまとめ、小さな帽子をかぶっている。
緊張で膝の上の手が白くなっていた。
「カミラ、手」
「え?」
「握りすぎ。血が止まるよ」
カミラが自分の手を見下ろし、慌てて力を抜いた。
「す、すみません。王宮に入るのは初めてで」
「私も、この姿では初めてだから」
嘘だった。前世を含めれば、王宮の門を何十回もくぐっている。
だが、カミラの緊張を和らげるために嘘をついた。カミラの手を取って、軽く握った。
冷たい手。
「大丈夫。私の隣にいて」
「はい。——はい、お嬢様」
馬車の反対側の席に、クラウスが座っていた。黒い正装に白い手袋。
表情は平時と変わらず無機質だが、背筋がいつもより伸びていた。
父は別の馬車で先に出ていた。舞踏会には出席するが、娘と並んで入場する気はないらしい。
公爵としての体裁を保ちつつ、リゼットに単独行動の余地を残す。暗殺者を育てる者の合理性だ。
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王宮の正門を馬車が通過した瞬間、空気が変わった。石畳の振動が細かくなり、馬の蹄の音が宮殿の壁に反響する。
左右に王家の衛兵が整列し、門柱の百合の紋章が朝の光を受けて金色に輝いていた。
正面玄関で馬車を降りた。クラウスが先に降りて周囲を警戒し、続いてカミラが降り、手を差し出してくれた。
その手を取り、ステップに足を掛け、ゆっくりと石畳に降り立った。
風が、ドレスの裾を揺らした。薄紫のシフォンが光を通して、足元に淡い影を落としている。
「お嬢様」
カミラが私の姿を見上げて、息を呑んだ。
「何」
「すごく、綺麗です」
カミラの目が、まっすぐだった。嘘がなかった。
「ありがとう。カミラが選んでくれた色だから」
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大広間は、前世の記憶よりも広く感じた。八歳の目線で見上げると、天井が遠い。
三階分の高さがある吹き抜けに、巨大なシャンデリアが三つ。何千もの水晶が光を砕いて、広間全体を金色の粒子で満たしていた。
壁面の大鏡が対面の壁を映し、空間が二倍に広がって見える。大理石の床は磨き上げられ、自分の姿がぼんやりと足元に映っていた。
すでに百名を超える貴族たちが集まっていた。男性は黒か紺の正装、女性は色とりどりのドレス。
宝石の光と香水の匂いと、低い話し声の層が、空気の中で混じり合っている。
入場の案内が始まった。典礼官が名前を読み上げ、一組ずつ広間に入っていく。
「ヴァレンシア公爵家嫡女、リゼット・ヴァレンシア殿」
名前が呼ばれた。
一歩を踏み出した。大広間の入り口から、中央のフロアまで。
赤い絨毯の上を、一人で歩く。前世で何度も歩いた道だが、今の体で歩くのは初めてだった。
視線が集まった。好奇、警戒、侮蔑、無関心。
様々な色の視線が、薄紫のドレスの上を滑っていく。
「毒花の娘」——誰かの囁きが、空気の中を泳いでいた。
背筋を伸ばした。顎を引き、肩を開き、歩幅を揃える。
前世で叩き込まれた令嬢の歩き方。八歳の体でも、形は保てる。
フロアの中央まで来た。正面の壇上に、国王と王妃の席がある。
国王の隣にジークフリートが座っていた。金色の髪が、シャンデリアの光を受けて眩しく光っている。
その右側に——セドリックがいた。
黒い正装。黒い髪。
暗い紫の瞳。ジークフリートの金色が広間の光を集めているのに対して、セドリックはそこにいるのに光を通さない。
影のような存在感だった。
一瞬だけ、目が合った。セドリックの口元が、微かに動いた。
笑ったのか。うなずいたのか。
距離がありすぎて、判別できなかった。
国王に一礼した。王妃に一礼した。
王妃の顔色は、蒼白だった。痩せている。
頬がこけて、目の下に濃い隈がある。ドレスが体を覆い隠しているが、病が進行していることは一目で分かった。
ジークフリートに一礼した。
「久しぶりだな、リゼット」
ジークフリートの声は穏やかだった。九歳の少年は十歳になり、声に少しだけ低さが加わっていた。
「お久しぶりです、殿下」
「ドレスが似合っている」
「ありがとうございます」
型通りの挨拶を交わし、下がった。背中にジークフリートの視線を感じたが、振り返らなかった。
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広間の隅に移動すると、マリアンヌが駆け寄ってきた。
「リゼット様、お久しぶりです。お手紙でしかお話しできなかったから——直接お会いできて嬉しいです」
マリアンヌの茶色の髪は、今日は巻いてリボンで飾られていた。ピンクのドレスが頬の色と合っていて、手紙で見た名前の向こうに、生身の少女がいることを実感した。
「元気そうで良かった。お腹の調子は?」
「もうすっかり。カモミールのおかげです」
エリーゼは柱の陰から小さく手を振っていた。控えめな子だ。
水色のドレスに白い手袋。ノートを小脇に抱えている。
舞踏会でもメモを取るつもりらしい。この子の記録者気質は筋金入りだった。
ソフィアは——探すまでもなく、向こうから来た。
「リゼット様」
息を切らして走ってきた。男爵家の長女。
黒髪を低い位置で結び、シンプルな白いドレスを着ている。他の令嬢たちに比べると質素だが、清潔感があった。
「走ったらドレスが汚れるよ」
「ご、ごめんなさい。でも、会いたくて」
ソフィアの目が赤かった。泣いていたのか。
「どうしたの」
「入り口のところで、知らない方に——『男爵家の娘がこんなところに来るなんて場違いだ』って」
ソフィアの声が、震えていた。
公爵家の令嬢が、男爵家の令嬢の手を取った。広間の中で。
周囲の貴族たちの視線の中で。
「ソフィアは私の友人よ。私が招いた客に場違いと言う人がいるなら、その人に公爵家の名前を教えてあげなさい」
声は穏やかに、だが周囲に聞こえる程度の音量で言った。
ソフィアの目から涙が溢れ、すぐに手の甲で拭った。
「ありがとう、ございます」
「泣かない。今日は楽しむ日よ」
嘘だ。楽しむ日ではなく、戦場の下見の日だ。
だが、ソフィアの涙を止めるには、この嘘が必要だった。
——嘘だろうか。
マリアンヌの笑顔。エリーゼのノート。
ソフィアの涙。この三人が揃って私のそばにいる光景を見て、胸の奥が温かくなっている自分に気づいた。
前世にはなかった景色だ。
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舞踏が始まった。最初の一曲はジークフリートに誘われた。
婚約者同士の最初の舞踏。広間中の目が集まる。
ジークフリートの手は乾いていて、温かかった。リードは正確で、八歳の私の歩幅に合わせてステップを調整してくれた。
「成長したな」
「殿下もです」
「秋の園遊会の頃より、顔つきが変わった」
「どのように」
「大人びた。——いや、元々大人びていたが、今は隠そうともしていない」
鋭い。この少年の観察力は、やはり油断ならない。
「殿下に隠し事は難しいですから」
「僕に隠し事をしないでいてくれると、助かる」
その言葉が、前世の記憶と重なった。「隠し事はなしだ」——婚約中のジークフリートが何度もそう言った。
そのたびにリゼットは心を開き、情報を差し出し、最後は全てを利用された。
「善処いたします」
曖昧に返した。ジークフリートの碧い瞳の奥に、何が映っているか。
十歳の少年の目は、まだ読みきれない。
一曲が終わり、離れた。
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舞踏の合間に、広間の東側のバルコニーに出た。春の夜風が、火照った頬を冷やしてくれた。
バルコニーには数人の貴族がいたが、端まで歩けば人目を避けられた。
石の手すりに手を置いて待っていると、影が来た。
「薄紫か。似合っている」
セドリックだった。黒い正装のまま、壁に背をつけて立っている。
暗い瞳が、バルコニーの薄闇の中で光っていた。
「お褒めの言葉、ありがとう」
「甘草飴は」
ポケットから一粒取り出して渡した。セドリックがそれを受け取り、口に入れた。
「苦い」
「甘いでしょう、後から」
「……確かに」
セドリックの表情が、飴の味に合わせて少しだけ変わった。口元が緩む。
この少年が食べ物の味で表情を変えるところを、初めて見た。
「コルサ商会の件」
「うん。調べた。南方のシルヴァーノ港に本拠を置く商会で、三年前から王都に支店を持っている。表向きは香料と染料の輸入。裏の取引は、特定の顧客にだけ開示される」
「特定の顧客」
「王都の貴族で、コルサ商会の裏の顧客リストに名前があるのは——僕が把握している限りで三名。ヴァレンシア公爵。宰相ヘルムガルト。そして、王宮典礼局の副局長」
三名。父はともかく、宰相と典礼局。
宮廷の権力の中核に近い場所に、毒物の流通経路が食い込んでいる。
「母上の病との関連は」
「まだ証拠はない。だが、母上の症状が悪化し始めた時期と、コルサ商会が王都に支店を開いた時期が重なっている。偶然かもしれない。だが——」
「偶然にしては出来すぎている」
「そう思う」
セドリックが壁から背を離し、バルコニーの縁まで歩いた。眼下に王宮の庭園が広がっている。
春の花々が月明かりの下で白く浮かんでいた。
「リゼット。僕は母上を救いたい。君は——何を守ろうとしている」
問いかけが、まっすぐだった。
何を守ろうとしているのか。
考えた。カミラ。
ユーリ。自分の命。
前世のような結末を回避すること。それらすべてを一言で言えば——
「全部」
セドリックが振り返った。
「全部?」
「守りたいものが多すぎて、一つに絞れない。カミラも、ユーリも、自分自身も。——それから、あなたのお母上のことも」
最後の一言は、口から出る前に考えていなかった。だが、嘘ではなかった。
王妃の死は、前世のリゼットの処刑に直結している。王妃を救うことは、自分を救うことでもある。
セドリックの暗い瞳が、月明かりを映して静かに光っていた。
「——頼もしい」
それだけ言って、セドリックは広間に戻っていった。バルコニーの扉が閉まり、音楽の波が一瞬だけ漏れてきて、また遮断された。
一人になった。
手すりに両手を置いて、夜空を見上げた。春の星が、冬の星より少しだけぼやけて見えた。
湿度のせいだろう。
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広間に戻ると、カミラが壁際で待っていた。
「お嬢様、お疲れではありませんか」
「少しだけ」
「もうすぐ閉会ですわ。お帰りの馬車を手配してあります」
「ありがとう、カミラ」
カミラの隣に立った。広間のフロアでは、最後の一曲が演奏されている。
貴族たちの影が、シャンデリアの光の下でゆっくりと回転していた。
前世のリゼットは、この広間で孤立していた。壁際に一人で立ち、誰にも声をかけられず、ジークフリートの隣に呼ばれるまで置物のように動かなかった。
今は、カミラが隣にいる。広間のどこかにマリアンヌがいて、エリーゼがいて、ソフィアがいる。
バルコニーでセドリックと甘草飴を分け合った。ポケットの中に、解毒薬と紙片がある。
同じ広間に立っている。だが、景色がまるで違う。
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帰りの馬車の中で、カミラが私の髪飾りを直しながら言った。
「お嬢様、今日は——とても楽しそうでした」
「そう見えた?」
「はい。いつもと違って——なんだか、お花が咲いたみたいに見えましたわ」
花。毒花。
ヴァレンシア公爵家の「毒花の令嬢」。
前世では、その名前が呪いだった。毒花。
毒で育ち、毒で人を殺し、毒で死んだ女。
今は——花の部分だけを、取り戻せるかもしれない。
「カミラ」
「はい」
「ありがとう。今日のドレス、本当に素敵だった」
「私はお手伝いしただけですわ。お美しいのは、お嬢様ご自身です」
窓の外を見た。王都の夜景が流れていく。
灯りの灯った窓々が、星のように街を彩っていた。
社交界が始まった。ここから先は、前世とは違う道を行く。
毒ではなく、薬で。孤独ではなく、繋がりで。
復讐ではなく——
何のために。
まだ、答えが出ていない。復讐を選ばないと決めた。
だが、復讐の代わりに何を選ぶのかは、まだ定まっていない。
守ること。救うこと。
生き延びること。それだけでは、足りない気がしていた。
もっと先に、まだ見えていない何かがある。
馬車がヴァレンシア公爵家の門を潜った。屋敷の東館に、ユーリの部屋の灯りが見えた。
まだ起きているのだろうか。
馬車を降りた。春の夜風が、ドレスの裾を揺らした。
玄関の階段を上る前に、一度だけ振り返った。王都の方角に、王宮の尖塔が夜空に浮かんでいた。
あの中に、ジークフリートがいる。セドリックがいる。
王妃がいる。グスタフの店がどこかにある。
コルサ商会の闇が、宮廷の地下に潜んでいる。
全部、見えている。前世のリゼットには見えなかったものが、今の私には見えている。
階段を上った。扉が開き、温かい空気が流れ出てきた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
カミラの声。
「ただいま」
敷居を跨いだ。
新しい花が、咲き始めていた。




