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毒花令嬢は二度目の人生で復讐を選ばない  作者: 黒豆子犬
1章 毒花の目覚め

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19/80

第19話 旅立ちの準備

雪が溶け始めたころ、手紙が届いた。王家の紋章が押された封書。


宛名は「ヴァレンシア公爵家嫡女リゼット殿」。開封すると、一枚の招待状が入っていた。


『春の宮廷舞踏会にご出席賜りたく、謹んでご案内申し上げます。——王宮典礼局』


宮廷舞踏会。社交界の正式なデビューの場だ。


前世では十歳のときに初めて出席した。今回は八歳。


婚約の前倒しに合わせて、デビューも早まっている。


「お嬢様、王宮からのお手紙ですわね。舞踏会の……」


カミラが招待状を覗き込み、目を輝かせた。


「ドレスを作らなければ」


「そうね」


「仕立て屋さんに連絡しますわ。王都のマダム・ベアトリスが評判が良いそうです。お嬢様のお色なら、薄い紫か、淡い青が——」


「カミラ」


「はい?」


「嬉しそうね」


カミラが、頬を染めた。


「だって——お嬢様が舞踏会に出られるんですもの。私、お嬢様のドレス姿を見るのがずっと楽しみで」


この子は、本心からそう言っている。カミラにとって、舞踏会は華やかなお祝いの行事だ。


主人が美しいドレスを着て、王宮の広間で踊る。侍女にとって、それは自分の仕事の成果を見届ける晴れの日でもある。


私にとって、舞踏会は戦場の下見だ。社交界デビューは、宮廷の権力闘争に足を踏み入れることを意味する。


聖女エレノアとの対面、王妃の治療への関与、ジークフリートとの関係の変質。すべてが、このデビューから始まる。


だが、カミラの笑顔を前にして、そんなことは言えなかった。


「じゃあ、ドレスの色はカミラに任せる」


「本当ですか?」


「うん。カミラの選んだ色なら、間違いないから」


カミラが、花が咲くように笑った。


---


ドレスの仕立てに、三週間かかった。マダム・ベアトリスは王都でも有名な仕立て屋で、宮廷の令嬢たちの多くが彼女の手を借りている。


公爵家の依頼ともなれば、最優先で取り扱われた。


一回目の採寸は、屋敷にマダム・ベアトリス自身が訪れた。五十代の女性。


銀髪を丁寧にまとめ、指先が絹のように滑らかだった。


「ヴァレンシア家のお嬢様を担当できるとは、光栄でございます」


社交辞令。ヴァレンシアの名前に対する微かな硬さが、声の裏に隠れていた。


毒殺の噂は、仕立て屋の耳にも届いている。


採寸の間、マダムは何度も私の肌の色と髪の色を確認した。


「お嬢様は銀に近い白金のお髪に、紫水晶のお目。冷たい色調がお似合いになりますわ。カミラ様のお選びになった薄紫は、大正解でございます」


カミラが後ろで小さくガッツポーズをしていた。本人は隠しているつもりだろうが、鏡に映っていた。


生地の見本が広げられた。絹、サテン、オーガンジー。


マダムの指が生地を撫で、光の当たり方を変えて見せてくれる。


「八歳のお嬢様でしたら、あまり重い生地は避けた方がよろしいですわ。軽いシフォンの上にオーガンジーを重ねて、裾に薄紫から白へのグラデーションを」


「素敵。——でも、一つだけお願いがあります」


「何でございましょう」


「ドレスの内側に、小さなポケットを付けてほしいの。腰の位置に、外からは見えないように」


マダムが目を瞬いた。


「ポケット、でございますか」


「ハンカチを入れたいの。緊張すると手が汗ばむから」


嘘だ。ポケットの本当の用途は、小瓶と紙片を隠すためだ。


舞踏会の場で薬草の小瓶を携帯する必要がある。念のための解毒薬と、情報をメモするための紙片。


「かしこまりました。お子様のお手元に収まる大きさで、二つお付けいたしましょう」


ドレスは三週間後に届いた。箱を開けたとき、カミラが声を上げた。


「お嬢様、見てください。綺麗……」


薄紫のシフォンが光を通して、室内に淡い影を落としていた。裾に向かって色が白く溶けていき、オーガンジーの上層が動くたびに光が揺れる。


小さな真珠が胸元と袖口に縫い付けられていて、蝋燭の光を拾うと星が散ったように見えた。


試着した。鏡の前に立った。


銀色に近い髪と薄紫のドレスが、不思議な調和を見せていた。紫水晶の瞳がドレスの色に溶け込んで、全体が一つの色彩のように見える。


八歳の体にはまだ少し大きいが、裾が床に流れる様子は、大人の令嬢のそれに近かった。


「お嬢様、お美しい」


カミラの目が潤んでいた。


「泣かないでよ」


「泣いてません。目にゴミが入っただけです」


「嘘つき」


「お嬢様ほどではありません」


カミラが笑い、私も笑った。鏡の中の八歳の少女が笑っていて、その笑顔に嘘がないことに、自分で驚いた。


---


ドレスの次は、舞踏の練習だった。前世で宮廷舞踏は一通り習得している。


ワルツ、メヌエット、ポロネーズ。体が覚えている。


ただし、今の体は八歳だ。前世の十六歳の体と、手足の長さが違う。


ステップの幅を調整する必要があった。


カミラを相手に練習した。カミラは踊りを知らなかったが、教えると飲み込みが速かった。


「一、二、三。一、二、三。右足から。そう、もう少し小さく」


「お嬢様、上手ですわ。どこで覚えたんですか」


「本で読んだ」


「本で読んだだけで踊れるんですか?」


「頭の中で練習した」


苦しい言い訳だった。カミラが怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。


三日間の練習で、体が馴染んだ。八歳の体はまだ成長途中で、バランスが安定しない場面もあったが、ステップそのものは問題なく踏めた。


---


舞踏会の一週間前、セドリックから手紙が届いた。


『グスタフ・メルツの件。調香師の仕入先に、南方のコルサ商会の名前があった。


コルサ商会は表向きは香料の輸入業者だが、裏では薬物と毒物の流通に関与している疑いがある。母上の侍医にウラル甘草の煎じ液を提案した。


反応は懐疑的だったが、試行の許可は出た。舞踏会には出席する。


話がある。S』


コルサ商会。前世の記憶を探った。


聞き覚えがない。また、地図にない名前だ。


返事を書いた。


『情報感謝。舞踏会で直接お話ししましょう。


ドレスの隠しポケットに甘草飴を入れて行きます。リゼット』


甘草飴は冗談ではない。ウラル甘草を煮詰めて固めた飴で、携帯用の解毒補助として使える。


セドリックなら意図を汲むだろう。


---


舞踏会の前日の夜。すべての準備を確認した。


ドレス——良し。隠しポケットの中身——解毒薬の小瓶二本、紙片五枚、炭素粉末の小包一つ、甘草飴三粒。


髪飾り——カミラが選んだ、小さな紫水晶のピン。靴——白い絹の室内履き。


底に滑り止めの革が貼ってある。


令嬢ネットワークへの連絡——済み。マリアンヌ、エリーゼ、ソフィアの三人には「舞踏会で会えるのを楽しみにしています」と手紙を出した。


三人とも出席の返事が来ている。


ジークフリートへの対応——前世の経験を基に、適度な距離感を維持する。親しすぎず、冷たすぎず。


「従順で聡明な婚約者」の仮面を被り続ける。


セドリックとの会合——舞踏会の合間に、時間を作る。グスタフとコルサ商会の情報を共有し、次の行動を決める。


父への報告——舞踏会での社交状況を逐一報告する姿勢を見せる。「忠実な道具」の演技を維持。


ベッドに座り、窓の外を見た。春の夜空に、星が散らばっていた。


月は半分だけ見えていて、雲の合間から薄い光を落としている。


「お嬢様」


カミラが部屋の扉を叩いた。


「もうお休みの時間ですわ。明日は早いですから」


「うん。すぐ寝る」


「お嬢様」


「何?」


「明日、絶対に——」


カミラの声が止まった。扉の向こうで、何か言葉を選んでいるらしい。


「——絶対に、素敵なお嬢様をお見せしますからね。私にお任せください」


笑った。目の奥が熱くなった。


「任せたよ、カミラ」


足音が廊下を遠ざかった。カミラの足音は軽い。


小鳥が跳ねるような、弾む足音だ。


灯りを消す前に、ユーリの部屋を覗いた。弟は毛布を蹴飛ばして眠っていた。


毛布をかけ直し、額に触れた。温かい。


熱はない。


「おやすみ、ユーリ」


寝言のように「うん」と返事が聞こえた。


自分の部屋に戻り、蝋燭を消した。


暗闇の中で、紙片に最後の一行を書いた。手探りで。


——明日から、社交界が始まる。


ペンを置いた。


怖いか、と自分に聞いた。怖い。


前世の記憶がある分だけ、宮廷の闇がどれほど深いか知っている。そこに八歳の体で飛び込むことの危うさも分かっている。


だが、恐怖の中に、別の何かが混じっていた。熱い何か。


高揚に似た何か。


前世のリゼットは、社交界を恐れていた。孤立し、利用され、嘲笑され、最後は処刑された。


今のリゼットには——カミラがいる。ユーリがいる。


マリアンヌとエリーゼとソフィアの手紙がある。セドリックとの握手がある。


解毒薬がある。情報がある。


前世にはなかったものが、今はある。


だから、怖いけれど——行ける。


目を閉じた。明日の自分が、薄紫のドレスを着て、王宮の大広間に立っている姿を想像した。


カミラが髪を結んでくれている。ユーリが「おねえちゃん、きれい」と言っている。


セドリックが噴水の縁石から立ち上がって、暗い瞳でこちらを見ている。


眠りに落ちる直前、甘草飴の味が口の中に蘇った。苦くて、甘い。

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