第19話 旅立ちの準備
雪が溶け始めたころ、手紙が届いた。王家の紋章が押された封書。
宛名は「ヴァレンシア公爵家嫡女リゼット殿」。開封すると、一枚の招待状が入っていた。
『春の宮廷舞踏会にご出席賜りたく、謹んでご案内申し上げます。——王宮典礼局』
宮廷舞踏会。社交界の正式なデビューの場だ。
前世では十歳のときに初めて出席した。今回は八歳。
婚約の前倒しに合わせて、デビューも早まっている。
「お嬢様、王宮からのお手紙ですわね。舞踏会の……」
カミラが招待状を覗き込み、目を輝かせた。
「ドレスを作らなければ」
「そうね」
「仕立て屋さんに連絡しますわ。王都のマダム・ベアトリスが評判が良いそうです。お嬢様のお色なら、薄い紫か、淡い青が——」
「カミラ」
「はい?」
「嬉しそうね」
カミラが、頬を染めた。
「だって——お嬢様が舞踏会に出られるんですもの。私、お嬢様のドレス姿を見るのがずっと楽しみで」
この子は、本心からそう言っている。カミラにとって、舞踏会は華やかなお祝いの行事だ。
主人が美しいドレスを着て、王宮の広間で踊る。侍女にとって、それは自分の仕事の成果を見届ける晴れの日でもある。
私にとって、舞踏会は戦場の下見だ。社交界デビューは、宮廷の権力闘争に足を踏み入れることを意味する。
聖女エレノアとの対面、王妃の治療への関与、ジークフリートとの関係の変質。すべてが、このデビューから始まる。
だが、カミラの笑顔を前にして、そんなことは言えなかった。
「じゃあ、ドレスの色はカミラに任せる」
「本当ですか?」
「うん。カミラの選んだ色なら、間違いないから」
カミラが、花が咲くように笑った。
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ドレスの仕立てに、三週間かかった。マダム・ベアトリスは王都でも有名な仕立て屋で、宮廷の令嬢たちの多くが彼女の手を借りている。
公爵家の依頼ともなれば、最優先で取り扱われた。
一回目の採寸は、屋敷にマダム・ベアトリス自身が訪れた。五十代の女性。
銀髪を丁寧にまとめ、指先が絹のように滑らかだった。
「ヴァレンシア家のお嬢様を担当できるとは、光栄でございます」
社交辞令。ヴァレンシアの名前に対する微かな硬さが、声の裏に隠れていた。
毒殺の噂は、仕立て屋の耳にも届いている。
採寸の間、マダムは何度も私の肌の色と髪の色を確認した。
「お嬢様は銀に近い白金のお髪に、紫水晶のお目。冷たい色調がお似合いになりますわ。カミラ様のお選びになった薄紫は、大正解でございます」
カミラが後ろで小さくガッツポーズをしていた。本人は隠しているつもりだろうが、鏡に映っていた。
生地の見本が広げられた。絹、サテン、オーガンジー。
マダムの指が生地を撫で、光の当たり方を変えて見せてくれる。
「八歳のお嬢様でしたら、あまり重い生地は避けた方がよろしいですわ。軽いシフォンの上にオーガンジーを重ねて、裾に薄紫から白へのグラデーションを」
「素敵。——でも、一つだけお願いがあります」
「何でございましょう」
「ドレスの内側に、小さなポケットを付けてほしいの。腰の位置に、外からは見えないように」
マダムが目を瞬いた。
「ポケット、でございますか」
「ハンカチを入れたいの。緊張すると手が汗ばむから」
嘘だ。ポケットの本当の用途は、小瓶と紙片を隠すためだ。
舞踏会の場で薬草の小瓶を携帯する必要がある。念のための解毒薬と、情報をメモするための紙片。
「かしこまりました。お子様のお手元に収まる大きさで、二つお付けいたしましょう」
ドレスは三週間後に届いた。箱を開けたとき、カミラが声を上げた。
「お嬢様、見てください。綺麗……」
薄紫のシフォンが光を通して、室内に淡い影を落としていた。裾に向かって色が白く溶けていき、オーガンジーの上層が動くたびに光が揺れる。
小さな真珠が胸元と袖口に縫い付けられていて、蝋燭の光を拾うと星が散ったように見えた。
試着した。鏡の前に立った。
銀色に近い髪と薄紫のドレスが、不思議な調和を見せていた。紫水晶の瞳がドレスの色に溶け込んで、全体が一つの色彩のように見える。
八歳の体にはまだ少し大きいが、裾が床に流れる様子は、大人の令嬢のそれに近かった。
「お嬢様、お美しい」
カミラの目が潤んでいた。
「泣かないでよ」
「泣いてません。目にゴミが入っただけです」
「嘘つき」
「お嬢様ほどではありません」
カミラが笑い、私も笑った。鏡の中の八歳の少女が笑っていて、その笑顔に嘘がないことに、自分で驚いた。
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ドレスの次は、舞踏の練習だった。前世で宮廷舞踏は一通り習得している。
ワルツ、メヌエット、ポロネーズ。体が覚えている。
ただし、今の体は八歳だ。前世の十六歳の体と、手足の長さが違う。
ステップの幅を調整する必要があった。
カミラを相手に練習した。カミラは踊りを知らなかったが、教えると飲み込みが速かった。
「一、二、三。一、二、三。右足から。そう、もう少し小さく」
「お嬢様、上手ですわ。どこで覚えたんですか」
「本で読んだ」
「本で読んだだけで踊れるんですか?」
「頭の中で練習した」
苦しい言い訳だった。カミラが怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
三日間の練習で、体が馴染んだ。八歳の体はまだ成長途中で、バランスが安定しない場面もあったが、ステップそのものは問題なく踏めた。
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舞踏会の一週間前、セドリックから手紙が届いた。
『グスタフ・メルツの件。調香師の仕入先に、南方のコルサ商会の名前があった。
コルサ商会は表向きは香料の輸入業者だが、裏では薬物と毒物の流通に関与している疑いがある。母上の侍医にウラル甘草の煎じ液を提案した。
反応は懐疑的だったが、試行の許可は出た。舞踏会には出席する。
話がある。S』
コルサ商会。前世の記憶を探った。
聞き覚えがない。また、地図にない名前だ。
返事を書いた。
『情報感謝。舞踏会で直接お話ししましょう。
ドレスの隠しポケットに甘草飴を入れて行きます。リゼット』
甘草飴は冗談ではない。ウラル甘草を煮詰めて固めた飴で、携帯用の解毒補助として使える。
セドリックなら意図を汲むだろう。
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舞踏会の前日の夜。すべての準備を確認した。
ドレス——良し。隠しポケットの中身——解毒薬の小瓶二本、紙片五枚、炭素粉末の小包一つ、甘草飴三粒。
髪飾り——カミラが選んだ、小さな紫水晶のピン。靴——白い絹の室内履き。
底に滑り止めの革が貼ってある。
令嬢ネットワークへの連絡——済み。マリアンヌ、エリーゼ、ソフィアの三人には「舞踏会で会えるのを楽しみにしています」と手紙を出した。
三人とも出席の返事が来ている。
ジークフリートへの対応——前世の経験を基に、適度な距離感を維持する。親しすぎず、冷たすぎず。
「従順で聡明な婚約者」の仮面を被り続ける。
セドリックとの会合——舞踏会の合間に、時間を作る。グスタフとコルサ商会の情報を共有し、次の行動を決める。
父への報告——舞踏会での社交状況を逐一報告する姿勢を見せる。「忠実な道具」の演技を維持。
ベッドに座り、窓の外を見た。春の夜空に、星が散らばっていた。
月は半分だけ見えていて、雲の合間から薄い光を落としている。
「お嬢様」
カミラが部屋の扉を叩いた。
「もうお休みの時間ですわ。明日は早いですから」
「うん。すぐ寝る」
「お嬢様」
「何?」
「明日、絶対に——」
カミラの声が止まった。扉の向こうで、何か言葉を選んでいるらしい。
「——絶対に、素敵なお嬢様をお見せしますからね。私にお任せください」
笑った。目の奥が熱くなった。
「任せたよ、カミラ」
足音が廊下を遠ざかった。カミラの足音は軽い。
小鳥が跳ねるような、弾む足音だ。
灯りを消す前に、ユーリの部屋を覗いた。弟は毛布を蹴飛ばして眠っていた。
毛布をかけ直し、額に触れた。温かい。
熱はない。
「おやすみ、ユーリ」
寝言のように「うん」と返事が聞こえた。
自分の部屋に戻り、蝋燭を消した。
暗闇の中で、紙片に最後の一行を書いた。手探りで。
——明日から、社交界が始まる。
ペンを置いた。
怖いか、と自分に聞いた。怖い。
前世の記憶がある分だけ、宮廷の闇がどれほど深いか知っている。そこに八歳の体で飛び込むことの危うさも分かっている。
だが、恐怖の中に、別の何かが混じっていた。熱い何か。
高揚に似た何か。
前世のリゼットは、社交界を恐れていた。孤立し、利用され、嘲笑され、最後は処刑された。
今のリゼットには——カミラがいる。ユーリがいる。
マリアンヌとエリーゼとソフィアの手紙がある。セドリックとの握手がある。
解毒薬がある。情報がある。
前世にはなかったものが、今はある。
だから、怖いけれど——行ける。
目を閉じた。明日の自分が、薄紫のドレスを着て、王宮の大広間に立っている姿を想像した。
カミラが髪を結んでくれている。ユーリが「おねえちゃん、きれい」と言っている。
セドリックが噴水の縁石から立ち上がって、暗い瞳でこちらを見ている。
眠りに落ちる直前、甘草飴の味が口の中に蘇った。苦くて、甘い。




