第18話 公爵の誤算
冬が本格的に訪れた朝、父に呼ばれた。書斎ではなく、今回は地下の調合室だった。
また「仕事」の話かと身構えたが、扉を開けた先にあったのは——テストだった。
作業台の上に、五つの皿が並んでいた。それぞれに液体が数滴ずつ垂らされている。
透明なもの、黄色いもの、薄い紫のもの。蝋燭の光の下で、液体が鈍い光沢を放っていた。
「五つの薬液を嗅ぎ分けろ。名前と濃度と致死量を答えよ」
父の声は平坦だった。試験官の声だ。
前世でも、この種のテストは何度も受けた。父は定期的に私の毒物知識を確認し、正答率が下がれば罰を与えた。
前世では、このテストが恐怖の象徴だった。一つでも間違えれば、食事を抜かれるか、地下室に閉じ込められるか。
今は違う。恐怖ではなく——面倒だ、と思った。
一つ目の皿に顔を近づけた。
「アトロピン。ベラドンナ由来。濃度は約〇・一パーセント。致死量は成人で約十ミリグラム」
二つ目。
「酢酸鉛。鉛糖。濃度は低め、〇・五パーセント以下。致死量は体重によるけれど、四百五十ミリグラム前後」
三つ目。匂いが——特殊だった。
苦いが、甘い。矛盾した匂い。
「ストリキニーネ。マチンの種子由来。濃度は——かなり高い。一パーセント以上。致死量は約三十ミリグラム」
四つ目。無臭。
透明。
「砒素。無味無臭。色と質感から三酸化砒素。濃度は不明。致死量は七十から百八十ミリグラム。水に溶けやすいから、この透明度なら相当な濃度です」
五つ目。
鼻を近づけた瞬間、匂いを感じなかった。無臭——ではない。
匂いがあるのに、嗅覚が反応しない。鼻の奥が一瞬だけ痺れるような感覚。
心臓が跳ねた。
この感覚は、知っている。三日前の夜、自分の部屋で吸い込んだものと同じだ。
「夜来花の粉末の水溶液」
父の目が、鋭くなった。
「名前を知っているのか」
しまった。夜来花の名前は、父の書斎で隣の小部屋から盗み聞いた情報だ。
テストで問われた薬液の中に混ぜるということは、父は私がこの物質を知らないはずだと思っている。
「——書斎の棚に、瓶がありました。番号157番。中身が気になって、匂いだけ確認しました」
咄嗟に言い訳をした。棚の瓶を勝手に嗅いだ、という告白。
勝手に調合室に入ったことになるが、前世のリゼットも好奇心でそうしていたはずだ。叱責は覚悟の上だ。
父が、私を見つめた。灰色の瞳に浮かんでいたのは——怒りではなかった。
「嗅いだだけで、157番の中身が何か推測したのか」
「匂いの特徴が南方の植物に近かったので。甘くて、発酵臭がある。通常の薬草にはない組み合わせです」
父の口元が動いた。
「進化したな」
その言葉が、胃の底に重く沈んだ。
「お前の毒物に対する感覚は、この一年で格段に鋭くなった。ベラドンナを匂いで判別し、薬液の濃度を推定し、未知の物質まで特定する。七歳にしては——いや、年齢など関係ない。お前は、ヴァレンシア家の歴代の中でも屈指の鼻を持っている」
褒めている。父が私を褒めている。
前世で、何度もこの声を聞いた。毒を正確に扱えたとき、暗殺を成功させたとき、父はこの声で私を褒めた。
「進化した」「成長した」「お前は公爵家の誇りだ」。
その言葉に飢えていた。前世のリゼットは。
父に認められたくて、毒を学び、毒を使い、毒で人を壊した。父の「進化した」という一言が、リゼットの存在理由だった。
今、同じ言葉を聞いて感じるのは——軽蔑だった。
この男は、何も分かっていない。私の毒物知識が「進化」した理由を、父は「天賦の才能」だと思っている。
七歳の娘が驚異的な速度で毒物を学習している、と。
違う。前世の記憶があるだけだ。
そして、「進化」の方向も父の想定とは違う。父は私が「より精密な毒殺者」になりつつあると思っている。
実際には、私は「解毒者」になりつつある。毒を知っているのは、毒を無力化するためだ。
父の誤算。道具が自分の意図と違う方向に進化していることに、この男はまだ気づいていない。
「ありがとうございます、お父様」
頭を下げた。感謝の言葉は空虚だったが、表情には出さなかった。
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「もう一つ、見せたいものがある」
父が棚から新しい瓶を取り出した。見覚えのない瓶だった。
ラベルには番号がなく、代わりに記号が書かれている。
「これは、先日の客が置いていった試作品だ。完成品ではないが、方向性は定まっている」
蓋を開け、中身を私の前に差し出した。
黒い粉末。死の香の試作品だ。
「嗅いでみろ」
命令だった。父は、私にこれを嗅がせようとしている。
テストの延長として。この物質に対する私の反応を観察する気だ。
息を止めた。数秒。
思考が加速する。
嗅ぐか、拒否するか。
拒否すれば、父に疑念を持たれる。「なぜ拒否した」と問われ、死の香について何か知っているのではないか、と勘繰られる。
嗅げば、毒素を吸入するリスクがある。試作品の毒性がどの程度か分からない。
だが——三日前に、すでに夜来花の粉末を吸入した。解毒薬を事前に飲んでいた。
今朝もユーリの治療のついでに、牛乳薊と甘草の煎じ液を飲んでいる。体内に解毒成分が残っているはずだ。
「はい」
顔を近づけた。浅く、短く、吸い込んだ。
甘い匂い。あの匂いだ。
処刑台の。
脳裏に灰色の空が走ったが——振り払った。三日前に、もう一度向き合っている。
二度目の恐怖は、一度目より薄い。
「どう感じた」
「甘いです。花のような。でも、底に腐敗臭がある。植物由来の毒素に特有の匂いだと思います」
「身体に異常は」
「ありません」
父が、また目を細めた。
「やはり、進化している。通常なら、この濃度でも軽い嗅覚の乱れが起きる。お前には影響がない」
父は、これを「毒への耐性の向上」だと解釈している。ヴァレンシア家の子弟は幼少期から毒に晒され、徐々に耐性を獲得する。
父自身もそうやって育った。私の耐性が高まっていることを、「血の力」だと思っている。
違う。解毒薬が効いているだけだ。
だが、その誤解を正す気はなかった。父が私を「毒に強い娘」だと認識しているなら、それは利用できる。
毒に耐性があるということは、毒を扱う仕事を任せやすいということだ。仕事を任されれば、父の計画の全体像が見える。
全体像が見えれば、阻止できる。
「お前には期待している」
父がそう言った。灰色の瞳に、光が灯っていた。
満足。期待。
所有欲。愛情——に似た何か。
父は私を愛しているのだろうか。
考えたことがなかった。前世でも、今世でも。
父の感情を「愛」と呼んでいいかどうか、判断する材料がない。確かなのは、父が私に向ける関心は、道具に対するそれと区別がつかないということだ。
切れ味の良い刃物を手にした鍛冶屋が、自分の仕事の成果に満足する。その満足に、刃物への愛着が含まれているかどうか。
含まれていたとして、それは愛か。
「頑張ります」
空っぽの言葉を返した。
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調合室を出て、階段を上った。廊下に出ると、東館の窓から白い光が差し込んでいた。
雪が積もった庭が、眩しいほどに輝いている。
カミラが廊下の角で待っていた。
「お嬢様、お帰りなさい。旦那様のお話、長かったですね」
「うん。少し」
「お顔が疲れていらっしゃいます」
「そう見える?」
「はい。お茶、お入れしましょうか。カモミールの」
「——お願い」
カミラが台所に向かう背中を見送った。小走りの足音が、静かな廊下に心地よく響いた。
自分の部屋に入り、窓辺に立った。庭の雪景色を見下ろす。
薬草園の区画は白く覆われていて、藁の下にどの植物があるか、見た目では分からなくなっていた。
父は私を「進化した」と言った。誤算だ。
進化の方向が、父の想定と百八十度違う。
だが、いつまで誤算のままでいられるか。父は愚かではない。
いずれ、私が「毒殺者」ではなく「解毒者」であることに気づく。そのときに何が起きるか。
道具が期待通りに動かなくなったとき、ヴィクトル・ヴァレンシアは何をするか。
修理するか。廃棄するか。
カミラがカモミール茶を持ってきた。湯気が立ち上る白磁のカップ。
「どうぞ、お嬢様」
カップを受け取り、一口飲んだ。温かくて、甘くて、苦みがほんの少しだけある。
この味が分かる。嗅覚も味覚も正常だ。
死の香の試作品を吸入しても、何の影響もなかった。
解毒薬は——効いている。
カミラに見えないように、唇の端だけで笑った。
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紙片に記録を書いた。
——父のテスト。五種の毒物識別。全問正答。夜来花の名称を口にしてしまったが、書斎の棚を嗅いだと説明して切り抜けた。
——死の香の試作品を吸入。事前の解毒薬(牛乳薊+甘草煎じ液)が体内に残っている状態で、嗅覚異常なし。
解毒薬の有効性を示す追加データ。——父の評価:「進化した」。
毒への耐性向上と誤認。解毒薬の存在を知らない。
——父の感情について:「期待している」と言った。愛情なのか所有欲なのか判別不能。
この区別は、今の段階では重要ではない。——リスク:父がいずれ誤算に気づく可能性。
対策を練る必要あり。
紙片を折った。隙間に戻す前に、もう一行だけ書き足した。
——カミラのカモミール茶が美味しかった。
無意味な記録。だが、書かないと手が止められなかった。




