第17話 解毒の夜
冬至の三日前の夜に、それをやった。
計画は二週間前から練っていた。死の香の解毒法は確立されていない。
文献にもない。セドリックも知らない。
王宮の医師団はこの毒の存在すら把握していない。
なら、自分で作るしかない。
解毒剤を作るには、毒の性質を理解する必要がある。毒の性質を理解するには、毒を手に入れる必要がある。
死の香の完成品は来春まで届かないが、原材料の一つ——夜来花の乾燥花弁なら、父の地下調合室の棚にあるかもしれない。
深夜、屋敷が寝静まった時間に、地下へ降りた。燭台は持たなかった。
蝋燭の灯りは目立つ。代わりに、壁を手で辿りながら歩いた。
この屋敷で七年間暮らした足が、暗闇でも階段の段数を覚えている。十四段。
踊り場で右に曲がり、さらに八段。地下の通路に出る。
調合室の扉に鍵はかかっていなかった。父は使用人にこの部屋の存在を教えていないから、施錠する必要がないのだ。
知っている人間は、父と私と——おそらくクラウスだけ。
扉を開けると、薬品と蝋の匂いが鼻を突いた。ここで初めて、小さな蝋燭に火をつけた。
炎が揺れ、棚の瓶に光が走った。
番号で管理された瓶が並んでいる。ラベルの番号は父にしか分からない体系だが、前世のリゼットは十二歳から十六歳まで、この部屋で父の手伝いをしていた。
番号の法則は——不完全ながら、分かる。
001から099は鉱物系。100から199は植物系。
200以降は合成物。植物系の棚を探した。
南方の植物は150番台に分類されていることが多い。
棚を端から確認していく。153、154、155——
157番の瓶に、黒い粉末が入っていた。蓋を開け、匂いを嗅いだ。
甘い。花のような甘さ。
だが、花そのものではない。発酵したような、湿った土のような底の匂いがある。
これだ。夜来花の乾燥花弁を粉末にしたもの。
死の香の原材料の一つ。菌糸と合わせる前の、単体の状態。
単体なら毒性は低い。だが、ゼロではない。
高濃度で吸入すれば、軽度の嗅覚異常を引き起こす可能性がある。
瓶から少量を紙に取り、ポケットに入れた。瓶の残量が減ったことを父が気づかない程度の量。
調合室を出て、扉を閉め、階段を上った。暗闇の中を、壁を手で辿りながら。
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自分の部屋に戻った。机の上に、準備した道具を並べた。
乳鉢。小瓶三本。
蒸留水。ガーゼ。
そして、薬草園から採取した素材。牛乳薊の種子粉末。
活性炭。カモミール精油。
ウラル甘草の根の煎じ液——これはセドリックからもらった甘草を乾燥させて煎じたものだ。
考えていた。死の香は呼吸器の粘膜から吸収される。
体内に入った毒の気は血に混じって頭へ昇り、まず鼻の感覚を狂わせる。解毒には、三つのアプローチが考えられる。
一つ目は、吸収の遮断。粘膜表面に保護層を形成し、毒素の侵入を防ぐ。
二つ目は、体内での毒素の分解促進。肝臓の解毒機能を活性化し、毒素を分解する。
三つ目は、神経系への到達阻害。毒素が嗅覚神経に結合するのを別の物質で阻害する。
完璧な解毒剤を作るには、三つすべてが必要だ。だが、今の手持ちの知識と素材では、二つ目——肝臓の解毒機能の活性化——が最も現実的だった。
牛乳薊の成分は、肝臓の働きを蘇らせる。活性炭は腹の中の毒を吸い取る。
ウラル甘草は熱や腫れを引き、肝臓を助ける力がある。
これらを組み合わせて、死の香の体内分解を加速させる解毒薬が作れないか。
問題は、検証だ。試験管の中で反応を見ることはできても、人体での効果は試さなければ分からない。
試す相手は——自分しかいない。
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乳鉢で牛乳薊の種子を潰した。細かい粉末になるまで、十分間。
指が白くなった。活性炭を加え、蒸留水で溶いた。
黒い液体ができる。甘草の煎じ液を数滴加えると、色がわずかに茶色に変わった。
解毒薬の試作品。効果は未知数。
副作用も未知数。だが、死の香そのものを吸入するよりは安全なはずだ。
まず、解毒薬を飲む。次に、夜来花の粉末を微量だけ吸入する。
嗅覚に異常が出るかどうかを確認する。出なければ、解毒薬が効いている可能性がある。
出れば——解毒薬は無効だ。
カミラの顔が浮かんだ。
「お嬢様の『大丈夫』は信用できません」と笑ったあの顔。
ユーリの顔が浮かんだ。
「おねえちゃん」と呼ぶ声。
セドリックの暗い瞳が浮かんだ。
全員に黙って、一人でやる。知らせたら、止められる。
止められたら、解毒法の開発が進まない。死の香が完成する前に、対抗手段を持っておかなければ。
解毒薬を飲んだ。苦かった。
舌の奥が痺れるような苦味。牛乳薊と甘草の味が混ざって、口の中が草原になったような気分だった。
三十分、待った。解毒薬が体に吸収される時間。
その間、ベッドの縁に座って天井を見ていた。木目が十七本。
数え慣れた天井。
紙の上に、夜来花の粉末を広げた。爪の先ほどの量。
黒い粉が、蝋燭の光を吸い込んで影のように見えた。
顔を近づけた。
吸い込んだ。
最初の数秒は、何も感じなかった。鼻腔に微かな甘い匂いが通り過ぎただけだ。
十秒後。胸の奥が詰まったような感覚があった。
呼吸が一瞬だけ浅くなり、すぐに戻った。
三十秒後。嗅覚に変化はない。
蝋燭の蝋の匂い、木の匂い、自分の髪の匂い。すべて正常に感じ取れる。
一分後。甘い花の匂いが——来なかった。
五分後。何も起きなかった。
十分後。体に異常はない。
嗅覚も味覚も正常。心拍は少し速いが、緊張のせいだろう。
解毒薬が効いたのか。それとも、吸入量が少なすぎて、そもそも毒性が発現しなかったのか。
判断がつかない。だが、第一回の実験としては——生きているだけで十分だ。
体から力が抜けた。ベッドに倒れ込み、天井を見上げた。
十七本の木目。呼吸が深くなっていく。
怖かった。吸い込む瞬間、指が震えていた。
前世の処刑台の記憶が、喉の奥まで迫り上がってきていた。あの甘い匂いがしたら——あの日に引き戻される。
そう思った。
来なかった。あの匂いは、来なかった。
目の奥が熱くなった。泣きそうになって、唇を噛んだ。
七歳の体は感情の制御が難しい。前世の精神年齢があっても、体の反応は年齢通りだ。
泣かない。泣いている場合ではない。
体を起こし、記録をつけた。
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翌朝。
起きてすぐ、嗅覚の確認をした。枕元の薬草包みを嗅いだ。
カモミール、ラベンダー、ミント。すべて正常に識別できる。
朝食の味も正常だった。パンの甘み、バターの塩気、紅茶の渋み。
すべて感じ取れる。
体調に異常はない。
「お嬢様、お顔の色がとても良いですわ。ぐっすりお休みになれたんですね」
カミラがそう言った。実際には、実験の後に崩れるように眠っただけだ。
安眠とは程遠い。だが、恐怖が一つ減ったことで、体のどこかが軽くなっていたのかもしれない。
「うん。よく寝た」
嘘ではなかった。
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三日後、セドリックに手紙を書いた。王宮への正式な訪問はすぐにはできないから、カミラ経由で王宮の使用人に託す形だ。
内容は慎重に選んだ。
『甘草の煎じ液を試しました。肝臓の負担が軽減されるようです。
牛乳薊との併用が有効かもしれません。殿下の研究にお役に立てれば幸いです。
南方の花については、引き続き調べています。リゼット』
「南方の花」が夜来花を指すことは、セドリックなら分かるだろう。具体的な毒の名前は書けない。手紙が人の目に触れる可能性がある以上、暗号めいた表現にならざるを得ない。
返事は四日後に届いた。セドリックの筆跡は角張っていて読みやすく、文面は簡潔だった。
『甘草と牛乳薊の併用、興味深い。母上の侍医に提案してみる。
南方の花の件は新しい情報がある。次に会ったときに話す。
S』
新しい情報。グスタフ・メルツについて、何か掴んだのだろうか。
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その夜、紙片に書いた。
——夜来花粉末の微量吸入実験、第一回完了。解毒薬(牛乳薊+活性炭+ウラル甘草)を事前投与。
——結果:嗅覚異常なし。味覚異常なし。
身体的異常なし。——解毒薬の有効性か、吸入量不足か、判断保留。
追加実験が必要。——量を増やして再試行するかどうか。
リスクと情報価値の天秤。——トラウマへの影響:吸入の瞬間に強い恐怖あり。
処刑台のフラッシュバック。だが、実験後に恐怖が軽減した。
「知ること」が恐怖を薄める。——セドリックにグスタフの新情報あり。
次回の会合で確認。
紙片を折りたたんだ。
窓の外で、雪が降っていた。本格的な降り方だった。
明日の朝には、庭が白く変わっているだろう。
薬草園の植物たちが心配だった。寒さに弱い品種には藁を被せてある。
カミラと一緒に、先週のうちに冬支度を済ませた。
春になれば、死の香の完成品が父の元に届く。それまでに、解毒法を確立しなければ。
時間は、あまりない。




