第16話 調香師の正体
セドリックに会ったのは、冬の始まりの王宮薬草園だった。父の二度目の視察に同行する名目で、王宮の東門を潜った。
前回と同じ石畳の道、同じ糸杉の並木。だが、空気は変わっていた。
秋の乾いた冷たさが、冬の湿った重さに入れ替わっている。薬草園の植物も、多くが葉を落とし、土の色が目立つようになっていた。
噴水の水は止まっていた。冬季は凍結防止のために水を抜くらしい。
縁石の上に、あの少年が座っていた。今回は本ではなく、小さなガラスの試験管を手にしていた。
「来たか」
セドリックが顔を上げた。暗い紫の瞳が、冬の薄い光の中でわずかに透けて見えた。
「甘草の花、見ましたか」
「まだ。先に、殿下にお聞きしたいことがあって」
「敬語はいらない。二人のときは」
提案ではなく、すでに決まったことを告げる口調だった。こちらの返事を待たずに、セドリックは試験管をポケットにしまった。
「聞きたいことというのは」
「夜来花を、ご存知ですか」
セドリックの表情が動いた。あの無表情の中で、眉がわずかに寄った。
それだけで、この名前に心当たりがあることが分かった。
「南方の植物だ。亜熱帯の湿地に自生する。花弁は黒紫色で、夜間だけ開花する。一般的な薬草文献には載っていない。なぜ知っている」
「父の書斎で名前を見ました」
半分は本当だ。書斎で「見た」のではなく、隣の小部屋から「聞いた」のだが。
「公爵の書斎に夜来花の名前がある、というのは——穏やかではないな」
「どういう意味ですか」
「夜来花は、単体では無害だ。だが、特定の菌糸と組み合わせると、極めて危険な毒素を生成する。吸入型の。名前は知らないが、南方の暗殺者たちが使う手法として、母上の病を調べる過程で文献に当たった」
やはり。セドリックは死の香の存在を、別の角度から知っていた。
「その毒素の解毒法は」
「分からない。文献には記載がなかった。生成過程が複雑すぎて、解毒の研究自体が進んでいない」
解毒法がない。あの男も同じことを言っていた。
「ただ——」
セドリックが言葉を切った。何かを考えている表情だった。
暗い瞳が、宙の一点を見つめている。
「ただ?」
「ひとつ気になることがある。半年ほど前から、王都に新しい調香師が店を開いた。南方出身だと名乗っている。香水を扱う店だが、素材の仕入先に不透明な部分がある」
「調香師」
「名前はグスタフ・メルツ。四十代。痩せた男で、フードを被っていることが多いらしい」
心臓が跳ねた。痩せた男。
フード。四十代。
父の書斎で見た、あの男の特徴と一致する。
「殿下は——セドリックは、その調香師を調べているの?」
「母上の病の原因を探っている。王宮の医師団は症状だけを追いかけて、原因に目を向けない。だから自分で調べている。その過程で、王都の薬物や毒物の流通に行き着いた。グスタフの店は、その流通の中で不自然に浮かんでくる名前だ」
セドリックが立ち上がった。縁石から降り、甘草の区画の方へ歩き出す。
私はその後を追った。
「グスタフ・メルツは、前世にはいなかった」
口にしかけて、飲み込んだ。前世の話は、誰にもしていない。
できない。
だが、事実だった。グスタフという名前に、前世の記憶がまったく引っかからない。
調香師が王都に店を開いたという話も、聞いた覚えがない。
前世と今世で、歴史がずれている。
ベルモント伯爵の件は、前世の結末とほぼ同じだった。婚約の前倒しは三年分の差があったが、大筋では前世の流れを踏襲していた。
だが、グスタフ・メルツの出現は——前世にはなかった要素だ。
なぜズレが生じているのか。私が七歳で戻ってきたことで、何かが変わったのか。
私の存在自体が、歴史の流れを歪めているのか。
それとも——グスタフ・メルツは前世にもいたが、私が知らなかっただけなのか。前世のリゼットは宮廷の裏側を知らされないまま、処刑された。
見えていなかっただけの可能性がある。
「グスタフの店は、王都のどこにあるの」
「南区の織物通り。『メルツ香房』という名前だ。表向きは貴婦人向けの香水店で、客も多いと聞く」
「行ったことは」
「ない。王子が香水店に出入りすれば、目立つ。使用人を通じて情報を集めている」
セドリックが甘草の区画で立ち止まった。南側の壁際に、確かに別の品種の甘草が植えられていた。
葉の形がわずかに違う。幅が広く、色が少し濃い。
「ウラル甘草だ。通常の甘草より薬効成分が強く、熱や腫れを引かせる力が強い」
葉に触れた。厚みがある。
冬の寒さにも耐えている。
「これ、母上の治療に使えないかと考えている。王宮の医師団は使っていない。おそらく、存在を知らない」
「使える可能性はあると思う。肝臓の解毒経路を補助するなら、通常の甘草よりウラル甘草の方が効果的だから」
セドリックが、私を見た。あの暗い瞳が、今は少しだけ明るく見えた。
「——やっぱり、少しだけ、ではないな」
「何が」
「薬草の知識」
苦笑した。隠し通せない相手に、隠し続ける意味がどこにあるのか。
「セドリック。私も調べたいことがある。グスタフ・メルツのこと。父の仕事に関係があるかもしれない」
「公爵の仕事に」
「うん。でも、父には気づかれたくない」
セドリックが黙って私を見つめた。何を考えているか、読めなかった。
だが、拒絶の色はなかった。
「情報を共有するか」
「お願いしていい?」
「条件がある」
「何」
「母上の病について、君の知識を貸してくれ。公爵家の薬学知識は、王宮の医師団より深い。少なくとも、毒と解毒については」
取引の提案だった。情報の交換。
セドリックはグスタフの動向を提供し、私は薬学知識を提供する。対等な条件だ。
「分かった」
手を差し出した。七歳の小さな手。
セドリックが見下ろし、一瞬だけ間を置いてから——冷たい指で、握り返した。
「握手か。宮廷では契約書を使うものだが」
「私たちは子供だもの。契約書より握手の方が、嘘がつきにくい」
セドリックの口元が、また微かに動いた。今度は確かに、笑みだった。
---
帰りの馬車で、考えていた。
グスタフ・メルツ。前世には存在しなかった(と思われる)調香師。
死の香の製造者である可能性が高い。父との取引相手。
歴史がズレている。その原因は分からない。
だが、ズレがあるということは、前世の知識がすべて通用するわけではないということだ。前世の地図を頼りに歩いているが、地図にない道が現れ始めている。
地図にない道の先に何があるか。それを知るには、自分で歩くしかない。
セドリックという味方を得た。あの少年は、嘘を嫌い、取引に誠実で、母を救いたいという動機が真っ直ぐだ。
信頼していいのかどうか——まだ分からない。だが、信頼しなければ前に進めない場面が、いずれ来る。
甘草の葉を、今日も一枚もらった。ポケットの中で少ししおれている。
---
部屋に戻り、紙片を書いた。
——グスタフ・メルツ。南区・織物通り「メルツ香房」。
四十代、痩せ型。南方出身を名乗る。
調香師。——父の書斎に来た男と特徴が一致。
死の香の製造者の可能性が極めて高い。——前世の記憶にこの人物は存在しない。
歴史のズレが発生している。原因不明。
——セドリックと情報共有の合意。私は薬学知識を、セドリックはグスタフの情報を提供。
——王妃の病の原因として、グスタフ(=死の香の製造者)の関与を視野に入れるべきか。王妃の症状と死の香の症状に類似点がないか、検証が必要。
——要注意:前世の地図にない道に入り始めている。
紙片を折り、ベッドの脚の隙間に戻した。
窓の外で、初雪がちらついていた。白い粒が暗い空から落ちてくる。
明日の朝には積もっているかもしれない。
薬草園の植物たちが、冬を越せるかどうか。セドリックのウラル甘草も。
私の屋敷の薬草園も。
春が来るまでに、やるべきことが多すぎた。




