第15話 死の商人
冬の入り口に、それを見た。
父の書斎に呼ばれることは、もう珍しくなかった。ベルモントの件以降、父は私を「使える道具」として扱い始めている。
呼び出しの頻度が増え、話の内容も変わった。食事の席での短い指示から、書斎での長い説明へ。
公爵家の「仕事」の全体像が、少しずつ私の前に広げられていた。
その日も、書斎に入った。父は椅子に座らず、窓際に立っていた。
背を向けたまま、こちらに言った。
「客が来る。書斎の隣の小部屋にいろ。壁の隙間から見えるが、声は出すな」
客。父が屋敷で外部の人間と会うのは珍しい。
取引は通常、代理人を通して行われる。直接会う相手は、よほど重要な案件か——よほど危険な案件か。
小部屋は書斎の東壁に接した狭い空間で、元は納戸だったらしい。壁に拳ほどの穴が空いていて、布で塞がれている。
布をめくると、書斎の全景が見えた。
十分ほど待つと、扉が開いた。
入ってきたのは、痩せた男だった。四十代後半。
黒い外套を着て、フードを深く被っている。顔の輪郭だけが見えた。
鋭い顎、薄い唇、深い皺。目は見えない。
フードの影が顔の上半分を覆っていた。
父がフードの男に椅子を勧めた。男は座らず、立ったまま外套のポケットから何かを取り出した。
小瓶だった。
ガラスの小瓶。中身は黒い液体——いや、液体ではない。
粉末だ。極めて細かい黒い粉末が、瓶の底に沈んでいる。
「これが、最新の成果です。閣下」
男の声は低く、掠れていた。長く話すことに慣れていない人間の声だ。
「効果は」
「吸入型です。空気中に散布すれば、対象の粘膜から吸収されます。経口投与の必要はありません」
吸入型の毒。空気に乗せて、相手に吸わせる。
食事にも飲み物にも触れず、存在を悟らせずに毒を届ける。
「症状は」
「第一段階は、嗅覚の異常。甘い花の香りが常に感じられるようになります。約三日で。第二段階は、味覚の喪失と倦怠感。一週間から十日。第三段階で、呼吸筋の麻痺が始まります。致死量の場合、吸入から二十日前後で——」
「名前は」
「『死の香』と呼んでおります」
死の香。
その名前を聞いた瞬間、世界が歪んだ。
書斎の壁が揺れ、光が遠ざかり、足元から冷たい風が吹き上げた。壁の穴から見えているのは父の書斎ではなく——灰色の空だった。
処刑台。
風に揺れる旗。群衆の顔。
石畳に響く足音。首の後ろに触れる刃の冷たさ。
甘い花の香り。
処刑の日、あの台の上で、最後に嗅いだ匂い。甘くて、花のようで、でも花ではない何か。
あれは——死の香だった。処刑場に撒かれていたのか。
群衆の中に紛れた誰かが、あの粉末を散布していたのか。
いや、違う。あの匂いは、もっと前から嗅いでいた。
処刑の何日も前から。食事の味が分からなくなって、体が重くなって、呼吸が浅くなった。
ジークフリートが「顔色が悪い」と言った日。カミラが泣いていた夜。
前世のリゼットは、処刑される前から死んでいた。死の香によって、ゆっくりと殺されていた。
膝が砕けた。小部屋の床に手をついた。
冷たい石の感触が掌に広がる。呼吸が速くなる。
心臓が、胸郭の中で暴れている。
落ち着け。ここは父の屋敷だ。
処刑台ではない。七歳の体。
今の時間。
壁に背をつけて、息を数えた。吸って、四つ。
止めて、四つ。吐いて、四つ。
カミラに教わった呼吸法だった。
壁の穴から、会話が続いていた。
「製造には何が必要だ」
「基材は南方の夜来花です。特別な方法で育てた茸の菌糸を掛け合わせることで、毒が生まれます。作り方は複雑ですが、一度手順が定まればいくらでも作れます」
「解毒は」
「現時点では、確立された解毒法はありません。第一段階で吸入を止めれば自然回復しますが、第二段階に入ると不可逆の損傷が始まります」
解毒法がない。
前世のリゼットが死んだ毒に、解毒法がなかった。あの日、誰が私に死の香を使ったのか。
ジークフリートか。父か。
それとも——まったく別の誰かか。
「納品は」
「来春を予定しています。閣下の望まれる量を」
「五瓶だ。うち三瓶は保管用。二瓶は実用」
「承知しました」
父が、この毒を買う。五瓶。
誰に使う気だ。
男が一礼して書斎を出ていった。足音が廊下を遠ざかり、東門の方へ消えた。
書斎に父一人が残った。小瓶を手に取り、光に透かして眺めている。
その横顔は、新しい道具を手にした職人のように穏やかだった。
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小部屋から出たのは、父が書斎を離れてから十分後だった。足が震えていた。
廊下の壁伝いに歩き、東館への渡り廊下を抜け、自分の部屋に辿り着いた。
扉を閉めた。鍵をかけた。
ベッドに座り、両手で膝を抱えた。
体が冷えている。七歳の体が、恐怖で冷えきっている。
死の香。前世の私を殺した毒が、今、この屋敷の中に存在しようとしている。
来春、五瓶が届く。そのうちの一瓶が、いつか私に向けられる可能性がある。
いや。前世では、誰が使ったかすら分からなかった。
処刑の罪状は「王妃暗殺未遂」だった。毒を盛ったのはリゼットだと断定されて処刑された。
死の香のことは、誰も口にしなかった。
死の香の存在を知っている人間は限られる。製造者と——購入者だ。
父がこの毒を購入するなら、父はこの毒の存在を知っていたことになる。前世でも知っていたのか。
前世でも購入していたのか。
そして——前世で私にこの毒を使ったのは、父自身なのか。
頭が回らなかった。情報が多すぎて、前世の記憶と今の現実が混じり合い、思考が泥に沈んでいく。
ノックの音がした。
「お嬢様? お薬の時間ですわ、ユーリ様の」
カミラの声だった。
体を起こした。膝の震えを手で押さえた。
深呼吸を三回。
「今行く」
扉を開けた。カミラが廊下に立っていた。
薬草の包みを胸に抱えている。
「お嬢様、お顔が——」
「大丈夫。少し寒かっただけ」
カミラの目が、嘘を見抜いている目だった。だが、カミラは追及しなかった。
代わりに、自分の肩掛けを外して私の肩にかけた。
「暖かくしてくださいませ」
肩掛けが温かかった。カミラの体温が残っている。
ユーリの部屋に向かった。弟はベッドの上で、カミラが作ったぬいぐるみを抱いていた。
犬の形をした、青い布のぬいぐるみ。片方の耳が少し曲がっている。
「おねえちゃん、お薬?」
「うん。今日のは少し苦いよ」
「うえー」
ユーリが舌を出した。その顔が可笑しくて、少しだけ笑えた。
薬を量り、白湯で溶き、ユーリに飲ませた。弟が顔をしかめながら飲み干す様子を見ながら、手が震えないように力を入れていた。
この子を守る。カミラを守る。
そのためには、死の香の情報をもっと集めなければならない。
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その夜は眠れなかった。何度も目を閉じ、何度も処刑台が浮かんだ。
甘い花の匂いが鼻の奥に蘇り、そのたびに目を開けた。天井の木目を数えた。
十七本。毎晩数えている。
同じ数だ。同じ天井だ。
ここは、私の部屋だ。
明け方に、ようやく体が諦めたように眠りに落ちた。
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翌朝、起きてすぐ紙片を取り出した。手が震えていたが、書いた。
——「死の香」。吸入型の毒。
基材は南方の夜来花と特定の菌糸。——症状:第一段階(嗅覚異常、甘い花の香り、約三日)、第二段階(味覚喪失・倦怠感、七~十日)、第三段階(呼吸筋麻痺、致死まで約二十日)。
——解毒法は現時点で未確立。第二段階以降は不可逆。
——父が来春に五瓶購入予定。うち二瓶は実用。
——前世の処刑前に、同じ症状(嗅覚異常、味覚喪失、呼吸困難)を経験していた。死の香で殺されていた可能性が極めて高い。
——使用者不明。父の関与を疑うが、確証なし。
——対策:解毒法の開発が急務。南方の夜来花の情報を収集する必要あり。
紙片を折った。今回は鏡台の裏ではなく、ベッドの脚の隙間にしまった。
この情報は、他の記録とは分けておく。
窓の外に、冬の空が広がっていた。灰色の雲が低く垂れ込めて、陽の光が届いていない。
処刑台の空と、同じ色だった。
だが、今は七歳だ。あの日は、まだ来ていない。
来させない。
薬草園に、行かなければ。冬が来る前に、備えを増やす。
セドリックが言っていた、南側の壁際の甘草。あの品種の違いを確かめに。
そして——もし可能なら、夜来花について、あの少年に聞いてみる。
靴を履いた。手の震えは、まだ残っていた。




