第14話 裏返しの忠誠
社交期が終わり、屋敷に戻ってから一週間が過ぎた。ベルモント伯爵は、予想通り寝込んだ。
痛風の悪化と精神的な不調が重なり、社交期の残りの日程をすべて欠席した。王都の貴族たちの間では、「北部の伯爵が体を壊した」という噂が静かに広がっていた。
父は満足していた。食卓で、一度だけ「次の仕事」について触れたが、具体的な指示はまだ来ていない。
ベルモントの件が「成功」したことで、私への信頼が一段上がったらしい。次はより重要な標的を任せる準備をしている、という空気だった。
信頼を勝ち取った。偽りの忠誠で。
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秋が深まり、社交期の後始末として、礼状の交換が始まった。宮廷の慣例では、園遊会や晩餐会の後に礼状を送り合う。
子供同士の場合は、母親か乳母が代筆することが多いが、リゼットには母がいない。カミラが体裁を整え、私が文面を考えた。
送り先を選ぶとき、ある考えが浮かんだ。
「カミラ、礼状の送り先を増やしたい」
「増やす、とは?」
「園遊会で席が近かった令嬢たちに、もう少し広く。フローリア様の周りにいた方々にも」
カミラが少し驚いた顔をした。フローリアにベラドンナを仕込まれた相手に、自分から手紙を出す。
普通の感覚では理解しにくいだろう。
「お嬢様、あの方々はお嬢様に……その、良い感情をお持ちではないのでは」
「だからこそよ」
カミラの表情が、困惑から真剣に変わった。この子は感情で理解する前に、信頼で受け入れる。
理由が分からなくても、リゼットが言うなら何か意図があるのだと。
前世のリゼットは、宮廷の令嬢たちとの関係構築に完全に失敗した。父の評判のせいで孤立し、ジークフリートの婚約者という地位が嫉妬を招き、フローリアのような攻撃的な令嬢たちに囲まれて精神的に追い詰められた。
味方がいなかった。情報が入らなかった。
何が起きているか分からないまま、処刑台に送られた。
今回は違う。情報の網を張る。
それも、私自身が中心にいるのではなく、網の端を持つ人間を作る。
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最初の標的は、マリアンヌ・フォン・リントベルグだった。園遊会でフローリアの後ろに立っていた二人の令嬢のうちの一人。
八歳。伯爵家の三女。
茶色の髪をおさげにした、痩せた少女だった。
マリアンヌについて、前世の記憶はほとんどない。フローリアの取り巻きの一人としか認識していなかった。
だが、園遊会でのマリアンヌの行動を思い返すと、ひとつだけ引っかかることがあった。
フローリアがベラドンナの件で青ざめたとき、もう一人の令嬢は動揺していたが、マリアンヌだけは違った。フローリアの方を見ていなかった。
私の方を見ていた。驚きではなく——安堵に近い表情で。
あの表情は、「自分が巻き込まれなくて良かった」という類のものではなかった。もっと複雑な、「この子がやり返してくれた」という他力本願の解放感に似ていた。
マリアンヌは、フローリアの味方ではない。
礼状を書いた。
『マリアンヌ様へ。先日の園遊会では、ご一緒できて嬉しゅうございました。
お庭のミントがよく育ちましたので、乾燥させたものを少しお送りします。お茶に入れると、胃腸の調子が良くなりますわ。
リゼット・ヴァレンシア』
乾燥ミントの小包を添えた。薬効を知っている人間なら「薬草の贈り物」だと気づくが、知らない人間にはただのハーブティーの素材にしか見えない。
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返事が来たのは、五日後だった。マリアンヌの筆跡は子供らしく丸みがあり、行間が広かった。
『リゼット様。お手紙とミント、ありがとうございます。
お茶に入れてみたら、とても良い香りでした。実は、最近お腹の調子が悪くて困っていたのです。
よく効きます。また、お話できたら嬉しいです。
マリアンヌ・リントベルグ』
腹の調子が悪い。八歳の子供が手紙に体調の不調を書く。
それも、初めて交流を持った相手に。よほど切実か、よほど相談相手がいないか、そのどちらかだ。
二通目の手紙を書いた。
『マリアンヌ様。お腹の調子が悪いとのこと、心配です。
もしよろしければ、カモミールとフェンネルの種をお送りします。カモミールは痙攣を和らげ、フェンネルは腸の動きを助けます。
お湯で煎じて、食前にお飲みになると効果がありますわ。季節の変わり目は体調を崩しやすいですね。
お大事に。リゼット』
三通目の返事は、三日で届いた。
手紙の内容が変わっていた。体調の話だけでなく、フローリアについて触れていた。
『実は、フローリア様のお茶会に呼ばれるたびに、気が重いのです。断ると後が怖くて。
でも、行くともっと辛いことがあって。リゼット様は、園遊会であんなに堂々としていらして、すごいなと思いました』
来た。信頼の糸が、一本つながった。
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同じ手法を、もう二人に使った。
二人目は、エリーゼ・フォン・ヴェスターハーゲン。園遊会の別のテーブルにいた侯爵家の次女。
九歳。大人しい性格で、誰とも深く話さずに端の席で黙々と菓子を食べていた。
前世では、この少女が後に宮廷の社交記録を管理する書記官になったと、うっすら記憶している。
エリーゼには、ローズヒップの乾燥果実を送った。「体を温める力が強く、冬の風邪に効きます」と添えた。
返事は控えめだったが、三通目には「リゼット様のお手紙が届くのが、毎週の楽しみになっています」と書かれていた。
三人目は、ソフィア・フォン・クランツ。男爵家の長女。
七歳。私と同い年。
園遊会には出席していなかったが、カミラの情報網から名前が上がった。王都の貴族学校に通い、成績は優秀だが、家格が低いために上位の令嬢たちから軽視されているという。
ソフィアには手紙だけを送った。薬草も菓子もつけず、季節の挨拶と簡単な読書の話だけ。
男爵家の令嬢が公爵家の令嬢から手紙をもらうこと自体が、宮廷社交では大きな意味を持つ。
返事は翌日に届いた。内容は三行だけで、筆跡が震えていた。
嬉しさか緊張か、おそらくその両方だ。
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一ヶ月後。
マリアンヌ、エリーゼ、ソフィアの三人との文通が定着した。頻度は週に一通。
内容は季節の話、体調の相談、読書の感想。政治的な話は一切していない。
だが、情報は集まっていた。
マリアンヌからは、フローリアの茶会の参加者リストと、そこで交わされた噂話が手紙の隙間に書かれてくるようになった。「フローリア様がジークフリート殿下の話をしていた」「宰相のお屋敷に南部の商人が出入りしている」。
本人は情報を提供しているという意識はないだろう。友人への手紙に日常を綴っているだけだ。
エリーゼからは、王都の社交界の出席者名簿と、各家の動向が几帳面に整理されて届いた。この子は生まれながらの記録者だ。
誰がいつどこに出席し、誰と話し、誰と距離を取っていたか。すべてが手紙の中に、まるで日記のように記されていた。
ソフィアからは、貴族学校の教師陣の評判と、生徒間の力関係が伝わってきた。学校という閉じた空間の情報は、宮廷の権力構造とは別の角度から貴族社会を照らしてくれる。
三人のうち、誰一人として「リゼットに情報を提供している」という自覚はない。手紙を交わす友人がいる、という安心感の中で、自然に日常を語っているだけだ。
それでいい。自覚のない情報提供者が、一番安全な情報源になる。
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カミラに手紙の整理を任せた。
「マリアンヌ様からのお手紙は赤い紐で、エリーゼ様は青い紐で、ソフィア様は緑の紐で束ねてくれる?」
「はい、お嬢様。——たくさんお友達ができましたね」
カミラが嬉しそうに笑った。その笑顔に嘘がないことが、胸の奥をちくりと刺した。
友達。そう呼んでいいのだろうか。
マリアンヌを選んだのは、フローリアの情報を得るためだ。エリーゼを選んだのは、社交界の記録を入手するためだ。
ソフィアを選んだのは、貴族学校の情報網を確保するためだ。
全員に薬草を贈り、体調を気遣い、心の壁を少しずつ下げさせた。前世で学んだ「人の心を操る技術」を、毒ではなく薬草で実行しただけだ。
手段が変わっただけで、構造は父と同じではないか。
その思考を、振り払った。振り払えなかった。
父は人を道具にする。私も人を道具にしている。
父は毒で支配する。私は親切で支配している。
毒と薬は、裏表だ。
鏡台の前に座った。鏡の中の七歳の少女が、困った顔をしていた。
「お嬢様? どうなさいましたか」
カミラが後ろから声をかけた。
「ねえ、カミラ。私のこと、怖いと思ったことある?」
唐突な質問だった。カミラが目を丸くした。
「怖い? お嬢様が?」
「うん」
「一度もありません」
即答だった。考える素振りもなかった。
「なぜ?」
「お嬢様は、怖いことをなさる方ではありませんもの。ユーリ様のお薬を作るのも、お庭の草花を育てるのも、お手紙を書くのも、全部——誰かのためにしていらっしゃいますわ」
カミラの声が、温かかった。その温かさに甘えてはいけない、と思う自分がいた。
「ありがとう、カミラ」
「お嬢様のお友達のお手紙、大切に保管しますわ」
カミラが手紙の束を抱えて部屋を出ていった。赤と青と緑の紐で分けられた手紙が、彼女の腕の中で揺れていた。
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その夜、紙片に記録を書いた。
——マリアンヌ・リントベルグ。フローリアの周辺情報を自然に提供。
信頼関係構築済み。——エリーゼ・ヴェスターハーゲン。
社交界の動向記録を几帳面に共有。記録者としての資質あり。
——ソフィア・クランツ。貴族学校情報の窓口。
家格の低さから、公爵家との繋がりに強い価値を感じている。——三人とも、情報提供の自覚なし。
友人関係として維持。——課題:この関係を「利用」と呼ぶか「友情」と呼ぶか。
自分自身で判断がつかない。
最後の一行で、筆が止まった。
前世のリゼットには友人がいなかった。孤立して、利用されて、捨てられた。
今の私は、孤立を避けるために人間関係を構築している。だが、その動機が打算である限り、これは友情ではない。
友情とは何か、七歳にも前世を含めた二十三年の人生にも、まだ答えがなかった。
紙片を折りたたみ、隙間に押し込んだ。
窓の外で、最後の虫の声が鳴いていた。冬が、もうすぐそこまで来ている。




