第13話 毒の偽装
ベルモント伯爵の情報を集めるのに、二週間かかった。直接会ったことはない。
前世の記憶では、北部領の宴席で一度だけ顔を見た程度だ。太った男。
赤ら顔で、酒が好きで、笑い声が大きかった。それ以上の情報は、調べなければ出てこなかった。
カミラに頼んで、王都の使用人ネットワークから話を拾ってもらった。カミラは聞き上手で、人に警戒されにくい顔立ちをしている。
「お嬢様のお使いで」と言えば、たいていの使用人は気を許す。
集まった情報は、こうだった。
ベルモント伯爵、本名ハインリヒ・フォン・ベルモント。四十七歳。
北部領ベルモント州の徴税と流通を管轄。妻と息子が二人。
健康状態は良好だが、痛風の気がある。酒は赤ワインを好み、特に晩餐では三杯は空ける。
甘いものにも目がなく、食後のデザートは欠かさない。
社交期の滞在先は、王都の伯爵家別邸。警護は最小限。
使用人は現地雇いが大半で、信頼関係が薄い。食事は別邸の厨房で用意されるが、宴席での料理は宮廷から運ばれる。
痛風持ちで、酒飲みで、甘いもの好き。前世の知識がなくても、この男の体調を崩すのは難しくない。
だが、崩さない。
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社交期の一週間前、父に報告した。
「接近経路を確認しました。社交期二日目の晩餐会で、ジークフリート殿下の隣席からベルモント伯爵のテーブルまでは約五メートル。給仕の動線が交差する位置に伯爵の酒杯があります。給仕が杯を下げるタイミングで、替えの杯に薬液を仕込めます」
報告は、嘘だ。正確には、嘘と真実を練り合わせたものだ。
席の配置と給仕の動線は本当のことを言っている。だが、実行するつもりはない。
「薬液の量は」
「アコニチン希釈液を二滴。一杯目の赤ワインに。二杯目以降は不要です。倦怠感の発現は翌朝。判断力低下は三日後から」
父が顎を引いた。了承の仕草だ。
「鉛糖は使わないのか」
「痛風の持病があります。アコニチンの少量投与で腎機能が低下すれば、痛風が悪化して自然に行動が制限されます。鉛糖を併用すると、中毒症状の痕跡が残るリスクがあります」
父の目が、わずかに見開かれた。七歳の娘が腎機能と痛風の関連性を語っている。
これは露出が過ぎるか、と一瞬迷ったが——父の前では、隠す意味がない。父は私の毒物知識を育てた張本人だ。
その知識が深いほど、父は満足する。
「悪くない」
父の口元が動いた。微笑みとは呼べない、薄い表情の変化。
「実行しろ。結果は翌日に報告を」
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社交期が始まった。秋の王都は色づいた街路樹で飾られ、各領から集まった貴族たちの馬車が石畳を埋めていた。
公爵家の馬車は正門から入り、宮廷の東棟に通された。
父と私は別行動だった。父は国王への挨拶と政務、私はジークフリートの婚約者として宮廷の行事に出席する。
七歳の子供が単独で宮廷を歩くのは異例だが、クラウスが常に三歩後ろに控えていた。
初日は顔見せの茶会で終わった。二日目の晩餐会。
これが父の指定した実行日だ。
宮廷の大広間。長テーブルが三列に並び、燭台の光が銀食器に反射して、部屋全体が金色に揺れていた。
香水と蝋燭と焼き肉の匂いが混じり合い、熱気がこもっている。百人以上の貴族が着席し、楽団の音が天井から降ってくる。
私はジークフリートの左隣に座っていた。彼の右隣には宰相の長男。
向かいには軍務大臣の夫人。大人ばかりのテーブルの中に、七歳の少女が一人。
「食べられそうか」
ジークフリートが、視線を向けずに聞いた。
「はい。少しだけ」
「無理はするな。気分が悪くなったら、侍従に言え」
九歳の少年が、七歳の少女に気遣いを見せている。周囲の大人たちが微笑ましそうに頷いている。
この光景もまた、政治の一部だ。婚約者同士の仲睦まじさを見せることで、公爵家と王家の結束を演出する。
五メートル先のテーブルに、ベルモント伯爵がいた。記憶通りの大柄な体格。
赤い顔。声が大きく、隣席の貴族と笑いながら杯を重ねている。
一杯目の赤ワインが、すでに空になりかけていた。
今だ。父の計画通りなら、このタイミングで給仕の動線に合わせて杯に近づく。
私は、席を立った。
「少し、お手洗いに」
ジークフリートが小さく頷いた。クラウスが立ち上がりかけたが、「すぐに戻ります」と目で制した。
大広間の端を歩いた。給仕たちが料理と酒を運ぶ動線に紛れ込む。
七歳の体は小さい。大人の腰の高さしかない私は、テーブルの間をすり抜けるのに都合が良かった。
ベルモント伯爵のテーブルに近づいた。
杯は——手の届く位置にあった。伯爵は隣の貴族と話し込んでいて、こちらに気づいていない。
ポケットの中には、父から渡された小瓶がある。
指を、ポケットに入れなかった。
代わりに、伯爵の椅子の脚にわざと躓いた。
「あっ——」
小さな悲鳴を上げて、テーブルの角に手をつく。伯爵の杯が揺れ、赤ワインが少しだけテーブルクロスにこぼれた。
「おお、大丈夫かね、お嬢ちゃん」
ベルモント伯爵が振り向いた。太い指で私の肩を支える。
近い。酒の匂いが顔にかかった。
「ごめんなさい。お手洗いに行こうとして」
「はっは、気にするな。こんな小さなお嬢さんが一人で歩いているとは。どちらのお家かな」
「ヴァレンシア公爵家の、リゼットと申します」
名前を告げた瞬間、伯爵の笑顔がわずかに硬くなった。ヴァレンシアの名前には、常にそういう反応が付きまとう。
「おお、公爵のお嬢さんか。お父上にはお世話になっている」
社交辞令だ。「世話になっている」の本当の意味を、伯爵自身が一番よく知っているだろう。
ヴァレンシア公爵に「世話になっている」ということは、弱みを握られているか、取引関係にあるか、そのどちらかだ。
「伯爵様、お体のご具合はいかがですか。お父様が、伯爵様のご健康を気にかけておりました」
にっこりと笑った。七歳の無邪気な笑顔。
伯爵の額に、汗が浮いた。公爵が「健康を気にかけている」。
その言葉の裏に何があるか、伯爵には分かっている。
「あ、ああ。元気だよ。お父上によろしくお伝えしてくれ」
「はい」
膝を折って一礼し、その場を離れた。
これで第一段階は終わった。
ベルモント伯爵に、ヴァレンシア公爵が「健康を気にしている」と伝えた。伯爵はこれを脅迫と受け取るだろう。
公爵家が自分の体に何かするかもしれない、という恐怖が植え付けられた。
恐怖は、人を動かす。
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晩餐会の後、宮廷の廊下を歩いていた。ジークフリートの席に戻る途中だった。
角を曲がったところで、影があった。
壁際に立っている少年。黒い髪。
暗い瞳。
セドリックだった。
「——殿下」
「ベルモント伯爵のところに行っていたな」
前置きなしに言われた。セドリックの目が、薄暗い廊下の中でもはっきりとこちらを見ている。
「椅子の脚に躓いたように見せかけて、近づいた。何をした」
心臓が、一拍跳ねた。見ていたのか。
あの大広間の喧騒の中で、七歳の少女の動きを追っていた。
「何もしていません」
「本当に?」
「はい。躓いただけです」
セドリックが、私を見つめた。あの暗い紫の瞳。
嘘を嘘だと見抜く目。だが、今回は——嘘ではない。
本当に何もしていない。毒は盛っていない。
「本当に、何もしていません。確認していただいて構いませんよ。伯爵のお酒にも料理にも、何も入っていないはずです」
セドリックの表情が、ほんの少し変わった。眉の角度が緩み、唇の力が抜けた。
「……変わった子だな」
「何がですか」
「公爵の娘が、晩餐会で対象の近くに寄って、何もしないで帰ってくる。普通はそうならない」
「普通とは」
「父親が暗殺を命じたなら、普通は実行する」
血の気が引いた。セドリックは知っている。
父が私に何を命じたか、ではなく——ヴァレンシア公爵家がどういう家であるか、を。
「殿下は、随分とお詳しいのですね」
「母上の病の原因を調べていれば、宮廷の暗い面にも詳しくなる。ヴァレンシア公爵は王家の闇の部分を長年請け負ってきた。その娘が初めて宮廷の晩餐会に出て、特定の人物に接近する。観察すべき状況だった」
冷静な声だった。告発でも非難でもない。
分析だ。
「それで、観察した結果は」
「何もしなかった、というのが結論だ。杯に手を触れていない。料理にも近づいていない。接触した時間は三十秒以下。毒物を投与するには短すぎる」
ここまで見られていた。噴水の縁石で本を読むふりをしていた少年が、百人以上の貴族がひしめく大広間で、私の三十秒の行動を秒単位で追跡していた。
「殿下。一つだけ聞いてもいいですか」
「何だ」
「なぜ、私を観察しているんですか」
セドリックが、壁から背を離した。一歩、こちらに近づいた。
廊下の燭台の光が、黒い髪に陰影を作っている。
「興味がある」
「私の何に」
「公爵の娘でありながら、公爵の仕事をしない人間に」
息を呑んだ。
「それは——どういう意味ですか」
「薬草園で会ったとき、君の目は毒を扱う人間の目ではなかった。薬を作る人間の目だった。公爵は毒を使う。君は薬を作る。その矛盾が気になった」
この少年は、たった二回の接触で、ここまで読んでいる。
怖い。だが——怖いだけではなかった。
前世で、リゼットの内面をここまで正確に読み取った人間は一人もいなかった。ジークフリートも、父も、カミラさえも。
誰もが「毒花の令嬢」というレッテルの表面だけを見ていた。
この少年は、レッテルの裏に手を伸ばしている。
「殿下。私は父の命令に逆らえる立場にありません」
「知っている」
「ですが、命令通りに動くかどうかは、私が決めます」
セドリックの暗い瞳が、燭台の炎を映して光った。
「——面白い」
ジークフリートと同じ言葉だった。だが、響きがまるで違った。
ジークフリートの「面白い」は分類の宣言だった。セドリックの「面白い」は——もっと純粋に、予想と違ったものに出会った驚きの声だった。
「伯爵には、何も起きない」
「ベルモント伯爵は来月には失脚します。横領の証拠が、別の経路で表に出ますから」
言い過ぎた。前世の知識をそのまま口にしてしまった。
「別の経路? なぜそれを知っている」
「知っているのではなく、推測です。北部領の流通記録に不整合があるという噂は、もう半年前から出ています。王家の監察官が動いていないわけがない」
取り繕った。だが、セドリックの目は疑念を残したままだった。
「……七歳の推測にしては、妙に具体的だ」
「お褒めの言葉として受け取っておきます」
セドリックの口元が、また微かに動いた。あの、笑顔とも呼べない小さな変化。
「また、薬草園に来るか」
「殿下がお許しくださるなら」
「許すも何も、あそこは王宮の敷地で僕の所有物ではない。ただ、南側の壁際の甘草が花をつけた。見る価値はある」
「行きます」
答えてから、自分の声が少しだけ弾んでいたことに気づいた。
セドリックが背を向け、廊下の奥に歩いていった。影が燭台の光の中に溶けていく。
あの暗い紫の瞳だけが、残像のように記憶に焼きついていた。
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翌朝、父に報告した。
「実行しました。アコニチン希釈液を二滴、一杯目の赤ワインに。症状の発現は本日中かと」
嘘だった。一滴も盛っていない。
だが、ベルモント伯爵は昨夜から体調を崩していた。
偶然ではない。伯爵が自分で自分を病にしたのだ。
私が「公爵が健康を気にかけている」と伝えた後、伯爵は恐怖に駆られた。毒を盛られるかもしれない、という恐怖。
晩餐会の後、伯爵は自室に戻り、酒を大量に飲み、食事を拒否した。そして朝方、持病の痛風が発作を起こした。
ストレスとアルコールの過剰摂取が、痛風の発作を誘発した。医学的には当然の帰結だった。
恐怖は、最良の毒だ。体内に痕跡を残さない。
検出されることもない。対象の身体が、勝手に壊れてくれる。
父は報告を聞き、一言だけ言った。
「上出来だ」
目が細まっていた。道具が期待通りに機能した、という表情。
私は頭を下げ、書斎を出た。
廊下に出た瞬間、膝が震えた。壁に手をつき、息を整えた。
成功した。毒は盛らなかった。
ベルモント伯爵の体に、私の手による毒物は一滴も入っていない。だが、父には「実行した」と報告し、父はそれを信じた。
結果として、伯爵は体調を崩した。原因は伯爵自身の恐怖と不摂生だ。
私がやったのは、言葉を届けただけ。たった一つの言葉——「健康を気にかけている」。
これが、前世とは違う道の第一歩だ。
手は汚さない。だが、結果は出す。
父が求める「成果」を、毒以外の方法で再現する。恐怖、情報、心理操作。
前世で学んだ毒物の知識を、別の形で応用する。
宮廷の冷たい壁に背を預け、そっと目を閉じた。耳の奥に蘇るのは、屋敷で眠るユーリの寝息だ。
穏やかで規則正しい呼吸。解毒剤が効いている証拠だった。
この呼吸を守るために、私は父の「道具」であり続ける。ただし、父が思っている「道具」とは、少しだけ違う道具として。
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部屋に戻り、紙片を広げた。
——ベルモント伯爵の件、偽装遂行完了。毒物未使用。
恐怖の言語暗示のみで体調悪化を誘発。——父に「実行した」と報告。
信頼維持に成功。——セドリック殿下に行動を観察されていた。
廊下での会話。毒を盛らなかったことを見抜かれている。
——セドリックの分析力は脅威的。だが、敵意はなかった。
「興味がある」と言った。——ベルモント伯爵の前世での失脚時期について口を滑らせた。
セドリックに疑念を持たれた可能性あり。要注意。
——薬草園の甘草が花をつけたとのこと。次の訪問を約束した。
最後の一行を書いてから、少し考えた。この記録を誰かに見られたら終わりだ。
父への偽装を記録に残すのは、自分の首に縄をかけるのと同じだ。
だが、書かずにはいられなかった。何もかもを頭の中だけで抱えていたら、七歳の器では足りない。
前世の記憶と今の現実と、二重の時間を生きている負荷が、どこかに出口を求めている。
紙片を折り、隙間に戻した。隙間が、だんだん狭くなってきている。
窓の外を見た。王都の空は、屋敷の空より広かった。
雲が秋の風に流されて、薄く長く伸びている。
ベルモント伯爵は、来月には失脚する。私の手を汚さなくても。




