第12話 公爵の命令
秋の終わりに、それは来た。予感はあった。
園遊会でベラドンナを見破った娘を、父が放っておくはずがない。「使える」と評した以上、使い道を考えている。
それがヴィクトル・ヴァレンシアという男だ。
呼び出されたのは、地下の調合室だった。東館の階段を降り、石壁に囲まれた狭い通路を進んだ先にある、窓のない部屋。
蝋燭の火が壁に揺れる影を落としている。棚には瓶が並び、中身はどれも液体か粉末だった。
ラベルは父の筆跡で、薬品名ではなく番号が振ってある。
父は作業台の前に立っていた。手袋をした指先で、小瓶の中身を光に透かしている。
「座れ」
椅子はひとつだけだった。作業台の向かい側に置かれた木製の椅子。
座ると、足がまた床に届かなかった。
父が手にしていた書類を台に置き、私に向き直った。
「ベルモント伯爵を知っているか」
「名前だけは」
「北部領の徴税を取り仕切っている男だ。最近、王室への上納金を誤魔化している疑いがある。国王は不快に思っている。だが、証拠が足りない。弾劾するには、もう少し状況を整える必要がある」
父の口調は、夕食の献立を決めるときと変わらなかった。
「状況を整える、とは」
「ベルモント伯爵は、来月の王都社交期に出席する。その際に体調を崩してもらう」
体調を崩す。殺すのではない。
病にする。
「具体的には、慢性的な倦怠感と判断力の低下。三週間ほど続くのが望ましい。その間に国王側が証拠を固め、弾劾に持ち込む。致死量は不要だ。ベルモントが死ねば、証拠の隠滅が始まる」
父が棚から二本の小瓶を取り出し、台の上に並べた。
「黄色い方がアコニチンの希釈液。微量を飲食物に混ぜれば、倦怠感と筋力低下を誘発する。透明な方は鉛糖の水溶液。甘みがあるから酒に混ぜやすい。判断力の低下を促す」
二本の小瓶が、蝋燭の光を受けて鈍く光っていた。
「お前がやれ」
空気が変わった。いや、変わったのは空気ではなく、私の心臓の鼓動だった。
前世でも、この瞬間があった。父が初めて「仕事」を命じたとき。
前世のリゼットは十二歳だった。対象はベルモント伯爵ではなく別の貴族で、方法も違ったが、構図は同じだ。
父が指示を出し、娘が毒を運ぶ。
今回は、七歳で来た。五年も前倒しになっている。
園遊会でベラドンナを見破ったことが、父の評価を早めたのだ。
「私は七歳です」
「年齢は関係ない。お前の手と知識が使えると判断した。それだけだ」
「社交期の場に七歳の子供が出席すれば、目立ちます」
「子供だからこそ目立たない。誰が七歳の娘を警戒する? お前は婚約者の付き添いとして出席する。ジークフリートの傍にいれば、不自然ではない」
ジークフリートを利用する。婚約の枠組みを、暗殺の隠れ蓑にする。
前世と同じだ。ジークフリートとの婚約が、常に暗殺の道具として機能していた。
父の灰色の瞳が、蝋燭の炎を映して揺れていた。
「やれるな?」
問いの形をした命令だった。「やれるか」ではなく「やれるな」。
答えはひとつしか用意されていない。
前世のリゼットは、ここで頷いた。父の期待に応え、毒を届け、対象を病にした。
成功すれば褒められた。失敗すれば罰せられた。
その繰り返しの中で、リゼットは公爵家の「毒花」になっていった。
同じ道は歩かない。そう決めたはずだ。
だが、正面から断れば、どうなるか。
父はリゼットを使い物にならないと判断する。使い物にならない道具を、この男がどう扱うか。
廃棄するか、別の用途に転用するか。どちらにしても、今の生活は維持できなくなる。
カミラへの庇護も、ユーリの治療も、すべてが父の管理下にある。父の機嫌を損ねれば、あの二人に手が及ぶ。
断ることはできない。だが、従うこともしない。
「やれます」
父の瞳に、かすかな光が灯った。満足、というよりも、道具が正しく動作したことへの確認の色だった。
「小瓶は預ける。社交期の三日前までに、方法を報告しろ。対象の食事の習慣と、接近経路を調べておけ」
「はい」
小瓶を二本、受け取った。手の中で冷たく、軽い。
人の体を壊すには、こんなにも少量で足りる。
地下室を出た。石段を上り、東館の廊下に出ると、秋の午後の光が目に刺さった。
暗い場所にいた目が、明るさに順応するまで数秒かかった。
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自分の部屋に戻り、鍵をかけた。小瓶を机の上に置き、椅子に座った。
しばらく、何も考えずにそれを見つめていた。
黄色い液体と、透明な液体。アコニチンと鉛糖。
どちらも、私には扱い慣れた物質だ。アコニチンはトリカブトの根から抽出される。
致死量はほんの数滴。この濃度では致死には至らないが、慢性的な投与で心筋への負荷が蓄積する。
鉛糖は酢酸鉛。甘味があり、かつては実際に甘味料として使われた。
中枢神経への影響で、判断力低下と情緒不安定を引き起こす。
どちらも、前世で何度も使った薬物だ。
ベルモント伯爵。前世での記憶を辿った。
ベルモント伯爵は、確かに横領の罪で失脚している。だが、それはリゼットが毒を盛ったからではない。
前世では、ベルモントは別の経路で発覚し、裁判にかけられた。つまり、この暗殺指令を実行しなくても、ベルモントは遅かれ早かれ失脚する。
問題は、父の命令を「実行した」と見せかけつつ、実際にはベルモントに毒を盛らないこと。そして、ベルモントの失脚を「リゼットの功績」として父に報告し、信頼を維持すること。
前世との分岐点がここにある。
前世のリゼットは、忠実に毒を盛った。それが父の信頼を得る唯一の手段だと信じていた。
実際、毒殺の実績を重ねるたびに、父は私に新しい任務を与え、より重要な標的を任せるようになった。公爵家の中での地位が上がった。
父の「道具」として。
今回は違う。毒を盛らずに、毒を盛ったことにする。
対象を傷つけずに、父の命令を遂行したように見せる。
方法は——ある。
だが、焦っては失敗する。まず、ベルモント伯爵について調べる必要がある。
前世の記憶だけでは足りない。今の時点でのベルモントの状況、健康状態、食習慣、交友関係。
そのすべてを把握してから、計画を練る。
小瓶を紙で包み、隠し場所を思案した。カミラにもユーリにも見つからない場所。
鏡台の裏の隙間は紙片で一杯だから、別の場所が要る。ベッドの脚の接合部に、指一本分の隙間があった。
そこに押し込む。
窓の外で、風が木の葉を巻き上げていた。赤く色づいた楓の葉が、庭を横切っていく。
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夕食の後、ユーリの部屋を訪ねた。弟はベッドの上で積み木を並べていた。
城を作ろうとしているらしく、三段目で崩れてはやり直している。
「おねえちゃん、見て。お城」
「上手だね。でも、三段目の角がずれてるから、ここを揃えると崩れにくいよ」
積み木の角を直してやると、ユーリが目を丸くした。
「すごい。おねえちゃん、なんでわかるの」
「なんでだろうね」
ユーリの隣に座った。弟の体温が伝わってくる。
暖かい。この子の体温が、一年前は異常に低かった。
父の投毒のせいで、肝機能が低下し、末端の血流が滞っていた。今は、私の解毒剤のおかげで回復している。
だが、父がユーリへの投毒を完全にやめたわけではない。量を減らしているだけだ。
「適量の毒は身体を鍛える」という歪んだ信念が、父にはある。
「ユーリ」
「なに?」
「お姉ちゃんね、少しの間、忙しくなるかもしれない」
「どうして?」
「大人のお仕事を手伝うことになったの」
ユーリが積み木の手を止めて、こちらを見上げた。透き通った青い目。
母親譲りの色だと聞いている。ユーリの母は、父の第二夫人だった。
三年前に病で亡くなった。病か、毒か、真実は分からない。
「お仕事、たいへん?」
「少しだけ」
「おねえちゃんのたいへんは、ほんとはすごくたいへんだって、カミラがいってた」
笑ってしまった。カミラめ、余計なことを。
「大丈夫だよ。終わったら、一緒にお庭でミントを摘もう」
「うん」
ユーリが積み木に戻った。四段目を、慎重に、慎重に積み上げている。
舌を出して集中している横顔が、年相応で眩しかった。
この子を守る。そのために、父の命令を「こなす」必要がある。
こなすふりを。
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部屋に戻り、紙片を取り出した。今日の記録。
——父より初の暗殺指令。対象:ベルモント伯爵。
方法:アコニチン希釈液と鉛糖水溶液による慢性投与。目的:判断力低下と証拠固めの時間稼ぎ。
——前世ではこの指令は十二歳で受けた。五年前倒し。
園遊会でのベラドンナ識別が父の評価を加速させた。——実行はしない。
偽装遂行の計画を練る。——ベルモント伯爵は前世でも失脚している。
毒を盛らなくても結果は同じはず。タイミングの調整が鍵。
——社交期は来月。準備期間は約四週間。
紙片を折り、隙間に戻した。
蝋燭を消す前に、窓の外を見た。月が出ていた。
薄い雲がかかって、輪郭がぼやけている。
明日から、二つの仕事が始まる。父の目には「暗殺の準備」に見える仕事と、本当の仕事——ベルモントを傷つけずに、父の信頼を維持する偽装作戦。
どちらの仕事も、失敗は許されない。
蝋燭を吹き消した。闇の中で、小瓶の冷たさが指先に残っていた。




