第11話 セドリックの影
園遊会から三日後、父に呼ばれた。書斎ではなく、西館の応接間だった。
父が西館を使うのは、外部の人間と会うときだけだ。壁の燭台に火が入り、重い絨毯が足音を吸い込んでいる。
午前中の光が窓から差し込んでいるのに、この部屋だけ夕暮れのように薄暗かった。
「園遊会での件は聞いた」
父の声に、怒りも落胆もなかった。報告書を読み上げるときの、あの乾いた音程だ。
「ベラドンナの識別。七歳の娘が匂いで。——悪くない」
褒めているのか、値踏みしているのか。父の場合、その二つに違いがなかった。
「ありがとうございます、お父様」
「宰相の娘が仕掛けたようだな」
「子供の悪戯でしょう」
「悪戯で済ませる気か」
父の灰色の瞳が、こちらを射抜いた。答えを求めているのではない。
私が何を選ぶか、試している目だ。前世の私なら、ここで「報復の許可」を求めていただろう。
フローリアの食事に何かを混ぜる方法を提案し、父の期待に応えようとしていた。毒殺人形として。
「子供同士の諍いに大人が出れば、かえって公爵家の品位を落とします。フローリア様には、時間をかけてお近づきになろうと思っています」
父が、わずかに目を細めた。
「時間をかける」
「はい」
「何のために」
「味方にするためです」
沈黙が五秒ほど続いた。父がどう判断したか、表情からは読めなかった。
ただ、それ以上の追及はなかった。
「来週、王宮の薬草園の視察がある。お前も来い」
唐突な話題の転換だった。
「王宮の薬草園、ですか」
「王妃の病に効く薬草を探せという勅命だ。ヴァレンシア家は薬学に通じている、と国王が名指しした。実際には公爵家の薬物知識を監視下に置きたいだけだろうが、断る理由はない」
王妃の病。ジークフリートが語っていた話だ。
前世では、王妃の病はリゼットが十五歳のころに悪化し、十七歳の冬に亡くなった。そして、その死がリゼットの処刑の引き金になった。
「ヴァレンシア家の娘が毒を盛った」という罪状で。
「お前の目は使える。薬草の知識だけでなく、あの場で誰が何を考えているか、見ておけ」
父の命令は明確だった。薬草園視察は、表向きは王妃への奉仕。
裏は、宮廷内の情報収集。私を連れて行くのは、子供の目を通した観察報告が欲しいからだ。
七歳の娘なら、大人たちは警戒しない。
「はい、お父様」
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王宮の薬草園は、宮殿の東翼から続く石壁に囲まれた区画にあった。公爵家の馬車が正門ではなく東門から入る。
石畳が馬車の車輪に跳ねて、小さな砂利の音が規則正しく鳴った。門番が父の顔を見て、無言で道を開ける。
ヴァレンシアの名は、ここでも通行証として機能していた。
馬車を降りると、秋の空気が頬に触れた。乾いた風に、微かな薬草の匂いが混じっている。
ラベンダーとローズマリー、それからカモミール。屋敷の薬草園と同じ匂いだが、規模が違った。
石壁の内側に広がる区画は、私の薬草園の十倍以上はある。整然と区切られた花壇が幾何学模様を描き、中央には小さな噴水があった。
水音が、園全体に静けさを添えている。
視察団は七名。王宮医師団の長、侍従武官、園丁の長、宮廷薬剤師、父、そして——噴水の縁石に座る、もう一人の子供。
私と父の背後には、護衛としてクラウスが控えていた。
最初は気づかなかった。父の隣に立ち、医師団長の説明を聞いているとき、視界の端に影が映った。
噴水の縁石に腰を下ろした少年が、一人で本を読んでいた。
黒い髪。王族の金髪ではなかった。
深い黒髪が額に落ちかかり、日陰にいるせいで表情がよく見えない。年は九歳か十歳くらい。
質素な服装だが、生地は上質だった。膝の上に広げた本の表紙が見えた。
植物図鑑だった。
ジークフリートとは違う雰囲気の少年だった。ジークフリートの存在感は、金色の光を纏ったように周囲の空気を支配する。
この少年は逆だ。空気に溶けている。
そこにいるのに、誰の目にも留まっていない。
視察が一通り終わり、医師団長が父と何やら話し込んでいるとき、私は花壇の間を歩いていた。名目上は「お花を見たい」とクラウスに告げ、許可を得ている。
実際に見ていたのは花ではなく、薬草の配置だった。王宮がどの薬草を栽培しているか。
何が多く、何が足りていないか。王妃の病の治療方針が、この園の構成から読み取れるかもしれない。
ジギタリスの列を過ぎ、甘草の区画を回り込んだところでいつの間にか本を閉じ、こちらへ歩み寄ってきていた少年に、足が止まった。少年は私の前で立ち止まると、傍らの甘草の葉を一枚、指で摘んだ。
摘み方が、素人のそれではなかった。茎を傷つけないように、葉の付け根を親指と人差し指で挟み、斜め上に引く。
薬草を扱い慣れた人間の手つきだった。
少年が顔を上げた。
目が合った。
暗い紫がかった瞳だった。日陰から日向に出たことで、虹彩の色がはっきり見えた。
灰色と紫を混ぜたような、重たい色。瞳孔の周りだけが少し明るく、中心に向かって暗くなっている。
まるで——毒液を一滴垂らした水面のように、色が沈んでいた。
毒のような目だ。
そう思った瞬間、少年が口を開いた。
「甘草の新芽を探しているなら、南側の壁際の方がいい。日当たりが良くて、葉が厚い」
声は静かだった。高くもなく低くもなく、年齢を感じさせない平坦な響き。
「……私は新芽を探してはいません」
「じゃあ、何を探している?」
率直な問いかけだった。社交辞令も前置きもない。
フローリアのような含みもなければ、ジークフリートのような値踏みもない。純粋に、目の前の事実を確認しているだけの声だった。
「薬草園の構成を見ていました。どんな薬草がどこに植えられているか」
答えてから、しまった、と思った。七歳の少女が薬草園の構成を観察しているという答えは、明らかに不自然だ。
「お花がきれいだから」と返すべきだった。
だが、少年は眉を上げなかった。驚きも、不審も浮かべなかった。
「構成か。——確かに、ここの配置は少し変だ」
「変、とは」
「鎮痛系が多すぎる。ジギタリスと阿片芥子と柳皮が三列も並んでいて、解毒系がほとんどない。王妃殿下のご病状に対して、痛みを抑えることしか考えていない構成だ」
心臓が、一拍だけ速く打った。
この少年は、薬草の知識がある。それも、配置の意図から治療方針を読み取れるほどの。
「あなたは——」
「セドリック」
名前だけを言った。それ以上の肩書きを付け加える気配がなかった。
セドリック。セドリック・アルシェーヌ。
第二王子。
前世の記憶を、急いで手繰った。セドリックという名前は知っている。
第二王子。ジークフリートの異母弟。
王妃アーデルハイトの実子で、母親が病に伏せてからは宮廷内での存在感が薄くなった。前世のリゼットがこの人物と深く関わった記憶は——ほとんどなかった。
処刑の日、群衆の中にセドリックの姿はなかったはずだ。いや、いたのかもしれないが、記憶にない。
ジークフリートの金髪と碧い瞳がすべてを塗り潰していて、他の王族の顔など思い出す余裕がなかった。
目の前の少年は、前世の記憶にほぼ存在しない人物だった。
それが、私を戸惑わせた。ジークフリートには前世の経験則が使える。
フローリアにも使える。父にもカミラにも使える。
だが、セドリックには、参照すべき過去がない。白紙だ。
「リゼット・ヴァレンシアです」
名乗ると、セドリックの暗い瞳が、ほんの一瞬だけ動いた。
「ヴァレンシア」
「はい」
「公爵の娘か」
「はい」
セドリックは甘草の葉を指の間で回しながら、私を見ていた。観察されている、という感覚はあった。
だが、ジークフリートのそれとは質が違う。ジークフリートの目は、相手の利用価値を秤にかける目だった。
セドリックの目は、もっと——植物学者が未知の花を見つけたときに近い。分類しようとしているのではなく、何であるかを知ろうとしている。
「さっき、ジギタリスの列のところで足を止めていた。葉の裏を確認してから通り過ぎた。園丁以外であれをやる人間は、この宮殿にはいない」
見られていた。噴水の縁石から、本を読んでいるように見えて、こちらの動きを追っていた。
「植物が好きなんです」
「嘘だな」
即答だった。断定する声に、悪意がなかった。
ただ、嘘を嘘だと認識している、という事実を述べただけの口調だった。
「好きなだけの人間は、葉の裏の虫食い痕を確認したりしない。あれは病害の診断だ。七歳で病害診断ができる令嬢は、好奇心だけでは説明がつかない」
背筋が、かすかに冷えた。園遊会でジークフリートの前で見せすぎたことを反省したばかりだったのに。
今度は、見ていることすら気づかなかった相手に、さらに深く読み取られている。
「……お詳しいんですね」
「母上の病を、自分の手で治したいと思っている。だから薬草を勉強している」
その言葉に、虚飾がなかった。ジークフリートが王妃の病を語ったとき、そこには政治的な含みがあった。
母の病を語ることで相手の反応を測り、カードとして使おうとする意図が透けて見えた。セドリックの言葉には、それがない。
母を治したいという動機が、剥き出しのまま置かれている。
「王宮の医師団では、足りないのですか」
「足りない。彼らは症状を追いかけているだけで、原因を見ていない。王妃の病は単一の毒素や感染では説明がつかない。複合的な要因があるはずだ」
複合的。前世の記憶が、また走った。
王妃の病は、リゼットの処刑後も真の原因が解明されることなく、王妃は亡くなった。「ヴァレンシア家が毒を盛った」という結論で決着がつけられ、真実は闇に埋もれた。
「あなたは薬草に詳しいのか」
セドリックが聞いた。
「少しだけ」
「少しだけ、か」
少年の口元が、ほんのわずかに動いた。笑っているのかどうか分からない微細な変化だった。
「甘草の区画を見て、解毒系が足りないと気づいただろう。あの距離で、あの速さで。少しだけ、ではないな」
この少年は、厄介だ。ジークフリートは鋭いが、その鋭さは政治的だった。
人を駒として評価する能力に長けている。セドリックの鋭さは、違う方向を向いている。
物事の構造を読む。配置から意図を汲み取り、行動の矛盾を指摘する。
嘘が通じない種類の知性だった。
「——あまり、お上手ではないようですわね、私」
私は苦笑し、降参の意を込めて少しだけ肩をすくめた。
「何が」
「隠し事が」
セドリックの暗い瞳が、ほんの少しだけ緩んだ。目尻がわずかに下がり、口の端が持ち上がった。
笑顔、と呼ぶには小さすぎる変化だったが、さっきまでの無表情とは明らかに違っていた。
「僕に対して隠す必要はない」
「初対面の方にそう言われても」
「初対面だからだ。お互いの利害がまだ絡んでいない。利害が絡む前に話せることは、絡んだ後には話せなくなる」
十歳の少年の言葉とは思えなかった。だが、この少年の年齢で判断することが、そもそも間違いなのかもしれない。
ジークフリートが九歳にして政治家であるように、セドリックは十歳にして——何だろう。学者か。
探偵か。
遠くで父の声が聞こえた。「リゼット」と呼んでいる。
視察の終了を知らせる合図だ。
「行かなければ」
「甘草」
振り返ると、セドリックが甘草の葉を差し出していた。さっき摘んでいた一枚。
「乾燥させて煎じれば、肝臓の解毒作用を補助する。君の薬草園にないなら、持って帰るといい」
葉を受け取った。指先が触れた。
セドリックの指は冷たかった。
「ありがとうございます」
「また来るか」
「——分かりません」
「来たら、南側の壁際の甘草を見てみるといい。品種が違う。効能に差がある」
それだけ言って、セドリックは本に視線を戻した。ドリックは噴水の方へ歩み去り、縁石に座り直す。
その横顔は、また空気に溶け込みかけていた。
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帰りの馬車の中で、父は黙っていた。視察の結果を頭の中で整理しているのだろう。
私のことなど見ていない。隣に座ったクラウスも、窓の外を見つめたまま口を開かなかった。
手の中に、甘草の葉がある。しおれかけた緑の一枚を、指の腹で撫でた。
セドリック・アルシェーヌ。
前世では空白だった名前が、急に輪郭を持ち始めている。あの少年は、母の病を自分で治すと言った。
王宮の医師団を信用していない。薬草の知識は、独学らしい。
噴水の縁石で一人きりで植物図鑑を読んでいるような立場の王子が、宮廷内でどんな扱いを受けているか、想像がつく。
第二王子。王妃の実子だが、後継争いではジークフリートの影に隠れている。
母が病に伏せてからは、後ろ盾を失い、宮廷内で孤立していると見るのが自然だ。
あの毒のような目。暗い紫の瞳が、私の動きを噴水の向こう側から見抜いていた。
ジークフリートには、前世の地図がある。彼がどこに向かい、何をするか、おおよその予測が立つ。
だから距離の取り方が分かる。セドリックには、地図がない。
前世で交わらなかった人物。知らない道だ。
知らない道は、危険でもあり——
甘草の葉の匂いを嗅いだ。青い苦みの奥に、仄かな甘さがある。
知らない道だからこそ、前世とは違う場所に辿り着ける可能性がある。
カミラは甘草を知っているだろうか。帰ったら、乾燥のやり方を教えなければ。
ユーリの解毒剤にも使えるかもしれない。
馬車が街道の曲がり角を過ぎた。屋敷の尖塔が、林の向こうに見えてきた。
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部屋に戻り、着替えを済ませてから、鏡台の裏から紙片を引き出した。
——第二王子セドリック・アルシェーヌ。推定十歳。
黒髪、暗紫色の瞳。——薬草の知識あり。
葉の摘み方は実践者。配置から治療方針を読む分析力。
——王妃の病を自力で治す意志。医師団への不信。
——観察力が極めて高い。ジギタリスの列での私の行動を、噴水越しに把握。
嘘の看破も速い。——前世の記憶にほぼ不在。
未知の要素。警戒か、接近か、判断保留。
——甘草の葉を一枚くれた。
最後の一行を書いて、少し迷ってから消さなかった。情報としての価値はない。
だが、あの瞬間に指先が冷たかったことと合わせて、記録しておきたかった。
紙片を折りたたみ、隙間に戻す。
窓の外で風が鳴っている。秋が、もう一段深くなっていた。




