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10月2日のこと


彼のアパートはキャンパスの近くにある。


特に友人関係が広くないので、

空いた時間を彼と一緒に過ごすのが常となってきた頃のことだった。


彼が「しばらく家を空ける」と言ったとき、

私はすぐに「いってらっしゃい」と言えなかった。


確か法事だそうで、実家に帰ると言っていたが、

ぼんやりとしていたのであまり覚えていない。


頭では理解している。

七日間なんて、長いようで短い。

仕方のないことだ。


でも身体のほうが、先に反応してしまう。


胸の奥が落ち着かない。

うまく息を吸えない。


彼が荷物をまとめている間も、黙ってそれを見ていた。

いつものように隣に座っているのに、今日は少しだけ遠く感じた。


それが、妙に不安だった。



「大丈夫?」


彼がそう聞く声は、いつも通り優しい。


でもその優しさが、今は少しだけ残酷だった。


だってこの人は、離れていくこともできる人だから。


私はまだ、前を向くことに必死なのに。


玄関で見送るとき、最後まで何も言えなかった。


手を振るだけ。


彼がドアの向こうに消えて、鍵の音が小さく響いた瞬間。


部屋の中から、人の気配が一気に消える。



静かすぎる。


彼の存在って、こんなに空気を満たしていたんだ、と初めて気づく。


家のほうが広くなったんじゃないかと、錯覚さえした。


ソファに座っても落ち着かない。

水を飲んでも喉を通らない。


いつものベッドに寝転がっても、意味がない。


どこを見ても、彼がいない。


私はしばらく動けなかった。

が、やがてゆっくり立ち上がる。


足は自然に寝室へ向かっていた。


クローゼットを開ける。


彼の服と私の服が分かれて並んでいる。


泊まることも多く、

いつの間にか彼の家のあちこちに、私の日用品が散らばるようになった。


私の目が向かったのは、整えられたままのシャツ、少しだけ柔らかいパーカー。


どれも、彼の気配がまだ残っている気がした。


その中から一枚、無意識に手に取る。


布を胸に抱いた瞬間、息が止まる。


彼の匂いがする。


強いわけじゃない。

でも確かに「彼だ」と分かる匂い。


それだけで、胸の奥がきゅっと締まる。


ベッドに座り込んで、しばらくその服を見つめていた。


触れていいのか分からないのに、もう手放せない。


(……変だな)


頭のどこかで思う。


こんなこと、前の自分なら絶対しなかった。


寂しいと感じても、ただ耐えて、飲み込んで、なかったことにするだけだった。


そのままゆっくりと、彼の服を顔に近づける。


ふわりと、包まれるような感覚。


その瞬間、張りつめていた何かが少しだけ緩む。


でも同時に、別の感情も来る。


(……いない)


ここにあるのに、いない。


触れているのに、触れられていない。


その矛盾で、じわじわと寂しさが膨らんでくる。


私は布を強く握りしめて、

そのまま、顔をうずめた。


呼吸が少しだけ乱れる。


でも、それが嫌じゃない。


むしろ、そこに沈んでいくほうが楽だった。


(……早く、帰ってきて)


声にはならないけれど、

でも確かに、彼に向かっている。


_________________________________


玄関の鍵が回る音がした瞬間、私は一度だけ呼吸を止めた。


一週間ずっと続いていた静けさが、

そこでほんの少しだけ揺れる。


すぐに扉が開く。


「ただいま」


いつもの声。


その一言だけで、部屋の空気が変わるのが分かる。


動けなかった。


立ち上がることもできないまま、玄関のほうを見つめる。


彼は荷物を置きながら、少しだけ周囲を見回す。


そして、すぐに気づく。


私が、いつもと違う場所にいることに。


いつもなら、もう少し近くまで来ているはずなのに。


「……元気、なかった?」


彼の、軽く聞いたその言葉に、

私はすぐには答えられなかった。


違う。


元気がなかったんじゃない。


ずっと、

足りない感じがしていた。


でもそれを言葉にする方法が分からない。


ゆっくり立ち上がる。


歩幅は小さい。


近づくたびに、胸の奥が苦しくなる。

安心していいはずなのに、泣きそうになる理由が分からない。


彼の前に立つ。


ほんの数秒、見つめ合う。


彼は何も急かさない。


ただ待っている。


それが余計に、私の中の何かを崩す。


次の瞬間、彼の服の袖をつかんでいた。


強くはないけれど、

離れないくらいの強さ。


「……いな、かった」


それだけ言うのに、喉が詰まる。


「…ずっと、いなかった」


言い方が少しおかしいのに、自分でも止められない。


彼は少しだけ目を細める。


そして、何も言わずに両手を広げる。


何かを考える前に、反射的にその胸元に顔を押しつけた。


匂いがする。

体温がある。

服なんかじゃ得ることのできなかった、「ここにいる」っていう情報が、

一気に身体に流れ込んでくる。


呼吸が乱れる。


安心しているのに、苦しい。


会いたかったのに、泣きたくないのに、

涙が頬を伝う。



「……そんなに?」


彼の声は静かだった。


からかいじゃない。

確認でもない。

ただ、受け止めてくれてる感じだった。


首を振る。


でも否定になっていない。


むしろ、彼の服を掴む手に力が入る。


「……分かんない」


やっと出た言葉は、それだけだった。




少しの沈黙のあと、彼は私の頭に手を置く。


撫で方はいつもと同じ。


ゆっくりで、逃げ場を作るような優しさ。


「一週間で、そうなるんだね」


その言い方には、軽さがなかった。


むしろ、静かな受け止め。


その言葉に、また胸が詰まる。


責められていない。

でも、軽くも扱われていない。

ただ「起きたこと」として扱われている。


肯定も否定もしない、単純な甘やかしでもない。


彼がただ受け止めて、待ってくれることで、気持ちの整理ができる。


ぐちゃぐちゃな心が、だんだんと落ち着いてくる。


そんな中、彼に抱き寄せられる。

いつもより少しだけ長く。


そして小さく息を吐く。


「俺も、ずっと会いたかったよ」


その一言で、私の中の何かが完全に崩れる。


安心と、嬉しさと、どうしようもない依存の自覚が一気に押し寄せてくる。


彼の胸に顔を押しつけたまま、ようやく思う。


(ああ)


(この人、いないと)


(もう、生きていけないな)


_______________________________________


彼の胸に顔を押しつけて、しばらく。


私の中を埋めていた空白は、ゆっくり静まっていった。


呼吸が落ち着く。


指先の震えも止まる。


彼がここにいる。


それだけで、世界の輪郭が戻ってくる。



でも。


安心が広がったあと、

別の感情がじわじわ浮かび上がってくる。


……自分ばっかりだ。


その考えが、不意に胸へ刺さった。



彼は今日帰ってきたばかりだ。


遠く離れた実家から、長い時間をかけて戻ってきて、

疲れているはずなのに。


自分は会った瞬間から、

寂しかった、

足りなかった、

抱きしめて、

って。

まるで自分のことだけ


わがままな子供みたいに彼へ甘えていた。


指先が、少しだけ強張る。


今になって、

自分がどれだけ受け取る側だったか気づいてしまう。


彼はずっと優しかった。


疲れた顔も見せず、

ちゃんと抱きしめて、

ちゃんと安心させてくれた。


でもそれは、

彼が疲れていないって意味じゃない。


ゆっくり顔を上げて、彼の顔を見る。


目の下に、少しだけ疲労の色がある。


髪の毛も、若干乱れている。


当たり前だ。


この人は今帰ってきたばかりなんだから。


胸の奥がきゅっと縮む。


罪悪感に近い。


(……この人、疲れてる)


思わず、少しだけ離れる。


彼が「どうしたの」とでも言いたげに目を向ける。


でもすぐに言葉を出せなかった。


喉の奥で感情が詰まっている。




しばらくしてやっと、小さく出た。


「……ごめん」


彼は少し眉を下げる。


「何が?」


本当に分かっていない顔。


申し訳ない感じがして、視線を落とす。


「……わ、わたし、自分のことばっかだった」


声が小さい。


嫌な汗が流れ落ちる。




彼は少し黙る。


それから、ふっと息を漏らした。


「そっか」


否定もしない。

大丈夫大丈夫、と軽く流したりもしない。

まず私の感覚を受け止める。


その反応が、少し救いだった。


「でも」


彼が静かに続ける。


「帰ってきて最初に君に抱きつかれるの、嬉しかったよ」


「疲れてるのは本当。でも……俺もずっと会いたかったから」


その声は穏やかだった。


無理をしている感じではない。


本当にそう思っている声。


胸がじわりと熱くなる。


自分だけが受け取るだけじゃない。


この人も、

自分によって安心している。


その事実が、

前よりほんの少しだけ、現実感を帯びた。


そして、しばらく悩んだ後、

そっと彼の手を握った。


今度は縋るみたいにじゃなく。


確かめるみたいに。


「……おかえり」


さっき言えなかった言葉を、

今度はちゃんと渡す。


彼は少し笑う。


「うん、ただいま」



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